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見返りのない世界で人は優しさを持つか

私は今日コンビニで買い物をした際、お釣りで出た4円をレジ横の募金箱に入れた。

理由は、個人的に一円玉が要らなかった事と、少しの善意である。

だが、本当にそれだけの理由だろうか?

私は小銭を離す刹那に、「いい事をしたら、私にもいいことが起きるだろう。」とひそかにも期待していたのではないだろうか。

例えば明日、この世界から” 見返り ”や” 恩返し ”という概念、思想が消えたとしよう。人々は、他者に対して、優しさを振りまくことができるだろうか。

この議題に対しては、読んでいる人の中にこう主張する人がいるだろう。

「私は他人に優しく接するとき、見返りなど求めない。そう接した結果、相手が幸せになればそれでいいと考えているし、その結果、私自身も幸せな気持ちになる。飢餓状態の捨て猫に缶詰を差し出すとき、そこに一体何の見返りを求めようというのだ。」

この主張は、ある程度の説得力を持っており、いい点を突いているように見える。

訂正させていただきたい点としては、「見返りなど求めない。」という部分である。そう主張しつつも、「相手が幸せになる。」という見返りを求めてしまっている。

先ほど言った” いい点 ”というのは、見返りを求めても誰も不幸にならないという点のことである。猫に餌を与えると、猫は腹を満たすことができ幸せであり、自分はそんな猫の姿を見て幸せを感じる。

ではもし、思う存分餌を食べ、腹を膨らました猫が、あなたの顔を引っ搔いてきたらどうだろう。いわゆる「恩を仇で返す」という状況だ。

あなたは猫を叩いたり、蹴り飛ばそうとするかもしれない。どちらにせよ、いい気分にはならないのは確かだろう。

それは何故だ?答えは単純、あなたが「猫に幸せそうな姿を見せてもらえるかも、もしかしたら撫でさせてくれるかも。」というような求めていた見返りが受けられなかったからである。

これらの例を踏まえて、もう一度議題について考えてもらいたい。

人は見返りの存在しない世界で、優しさを持つことはできるのだろうか。


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