親ガチャ・公正世界仮設・孤独

何年か前に出てきた言葉ですが、『親ガチャ』という言葉が話題になったのを覚えておられる方も多いと思います。

いい親の元に生まれたか、悪い親の元に生まれたかで人生が変わる、という意味だと思いますが、この言葉が話題になるということ自体が、逆説的に今日の日本という国が『平等な国』であることの現れとも言えます。

歴史を振り返ればわが国でも『どの身分に生まれるか』で、『客観的』に見て、悲惨な人生を送るか、よい人生を送ることができるかかなりの部分が決まっていたと思いますが、今日においてもごく一部の国を除けば『どんな民族』で、『どんな階級』の親の元に生まれるかによって人生はほぼ決まってしまっています。(先進国だから決まっていないわけではないという事に留意ください、ヨーロッパでは人生の非常に早い段階、10歳から12歳くらいの間で職業訓練校にいくか総合大学に行くかが決まる国が多いようです)

『親ガチャ』が存在することを受け入れることができれば、本来人生は主観的には不幸なものでも悲惨なものでもないように思いますが、『平等な国』であるからこそ、『親ガチャ』という言葉、それを口に出して自分が『お親ガチャ』を外した人間だという自己規定をし、自分の人生を否定的にとらえざるを得ない人が存在する、というように私は思っています。

現代の我が国においては、『努力すれば報われる』という言葉が過剰に正当化されており、『そもそも努力できるような環境にない』『努力が必ず報わるわけではない』というと非難される傾向があります。

漫画だか何かで『努力したからと言って報われるわけではないが、成功した者は皆努力している』みたいな言葉を見たことがありますが、この言葉自体が『報われるまで努力しろ』と言っているか『報われなくても努力しろ』と言っているだけで、その人の置かれている環境によっては報われるまで努力することが不可能であることを前提から排除しており、個人的には非常に不快に思います。
『豊臣秀吉が存在する以上、戦国時代では身分にかかわらず立身出世はできる』と言っているのに等しい暴言です。

『親ガチャなど存在しない』『努力すれば報われる』を言う人達は、タイトルにある『公正世界仮設』に捕らわれているのだと思います。
公正世界仮説 - Wikipedia

公正世界仮設を一言でいうと、因果応報は存在し、努力は報われ、悪いことをすればそれが自分に返ってくる、という風に世界はなっている、それを信じるという事が『公正世界仮設』を信じる、という事になります。

そして、現在の我が国は、ほかの国と比較し、『公正世界』がほぼ達成されているのも事実です。

この国はほぼ単一の民族で構成され、法律上は異民族を差別せず、貧富の差も少なく、スラムも存在しません。

そのため、頻繁に発生する自然災害による被害者を除けば、ほかの国と比較し『努力すれば報われる』という言葉と、『何か人生に問題があるものは自業自得だ』という言葉が、相対的に見た場合事実に近くなります。

そのため、『親ガチャ』というライトな言葉が話題になり、『公正世界』
が達成されていると勘違いしている人たちが『努力は報われる』という無神経な発言をし、何か不幸にあった人が『自己責任』とされて非難されるわけです。

しかし、残念ながら我が国においても『公正世界』が100%達成されているわけではありません。そもそも、『100%の公正世界』を達成することは未来においても、どの国においても個人的には不可能だと思っています。

ここに矛盾が生じます。

国、あるいは世界が『公正世界』に近づけば近づくほど、『公正世界仮設』を信じる人は増えます。そうなると、『公正世界』の外に置かれた少数者はより孤独になり、他からの助けを得ることが難しく、謂われない非難を受けることが多くなります。

この難問には残念なことに答えがありません。世の中がよくなり、不条理な
扱い、仕打ちを受ける人が少なくなればなるほど、残された不条理な条件で生きる人たちはより孤独になり、自業自得と人から言われ、不当な扱いを受けることになります。

貧富の差が拡大した、GDP世界2位から転落した、など悲観的な話が多い我が国ですが、本当の悲惨は、我が国が本質的には平等で良い国であることから生じている、そこからとり残された者達の悲しみで、ほかの国もいずれそれを経験することになると思っています。



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