|鼠長屋《ねずみのながや》

本編

朝です。さあ一日の始まりです。まずは気持ちよく味噌汁を飲もうとお椀の縁を口に近づけたまさにその瞬間です。天井からパラパラと埃が降ってきてポチャポチャと音を立てて味噌汁の中に入りました。せっかくの温かい味噌汁はもう飲めません。憮然とした顔でお志麻さんは持っていたお椀と箸をちゃぶ台に置きました。

隣は?と見ますと、夫八五郎のところへも天井から煤やら埃やら漆喰やらが雨のように降り注いでおります。けれども八さんはそんなことはまったくもって気にならない様子。お椀に入ったゴミを器用に除けながら黙々とご飯を口に放り込んでおります。

「あんた。」

「おう。どうした?おや?具合でも悪いか?全然食ってないじゃねえか。」

「具合が悪いかって?ああ、大悪だよ。」

「じゃあ飯なんぞ食ってねえで寝ろ。仕事帰りに団子でも買ってきてやる。」

「あんた!」

「お、おう。なんだ急に大きな声なんぞ出して。」

「お前さんにはこれが目に入らないのかい?こんな大きなゴミが味噌汁に入っちまったら、もう飲めやしないよ。」

「なんだそんなことか。それぐれえのことで大声を出すな。俺が取ってやる。ほら、これで大丈夫だ。さあ飲め。」

「そうじゃないんだよ。お前さんは天井裏のドタバタが気にならないのかって、言ってるんだよ。」

「この音か。これはおめえ、ネズミどもが騒いでいる音だ。」

「よくまあそう平然としていられるね。これは騒いでるなんてもんじゃないよ。バリバリ、ガリガリ、大騒ぎだよ。戦争だよ。天井裏でネズミどもが大暴れして戦争をしているんだ。それものべつ幕なしだよ。朝も夜もあったもんじゃない。四六時中ときているんだから始末に負えないよ。だいたいどこの世界に朝の朝から騒ぐネズミがあるっていうんだい?日本中どこへ行ったってネズミは夜に騒ぐって相場が決まってるんだ。それがどうだい?うちの長屋のネズミどもときたら人間様が朝飯を食べていたってお構いなしときた。意気揚々と天井裏を走り回っていやがる。」

「そうだな。」

「そうだな?ほら!またお前さんのご飯に埃が入ったよ。ああ!食っちまいやがった。馬鹿だね、天井のゴミをふりかけ代わりにしやがって。どこまで呑気なんだよ、お前さんって人は。」

「朝からそうヤイヤイ騒ぐなよ。飯ぐらい静かに食わせろ。」

「あたしがネズミよりうるさいっていうのかい!お前は女房のあたしよりもネズミの方がおしとやかで礼儀正しいっていうのか!」

「うるせえ!朝から騒ぐな!」

「ああ、びっくりした。隣の熊の野郎か。おう熊!うるせえぞ!うちの長屋は恐ろしく壁が薄いんだ。知ってるだろ?お前の声も全部丸聞こえだ。もっと静かに話せ。まったく俺が女房に怒鳴ったのかと思ってびっくりしたぜ。なあお志麻、自慢じゃねえが俺はおめえを怒鳴ったことなんてただの一度もねえんだ。」

「おう八さん、すまねえ。朝だってのにネズミどもがやけに騒ぐんでね。一つ怒鳴ってやったのよ。そっちを怒鳴ったわけじゃねえから安心してくれ。俺にかまわず遠慮なく夫婦喧嘩を続けてくれい。」

「まったく何言ってやがる。なあお志麻。俺たちゃ喧嘩なんぞしちゃいねえよな。」

「ちゃんとネズミを怒鳴るんだから、熊さんのほうがお前さんよりまだ偉いよ。」

「まあいいや。それにしてもネズミの野郎近頃急に増えやがったな。玄公んとこの年寄り猫が死んでから一気だよ。ついこの間天井裏から少しばかりカリカリ聞こえたなあと思ったら、気づいたらもうバリバリよ。すぐだよ。瞬きをする間だってありゃしなかったんだから大したもんだ。ネズミはあっという間に増えるっていうが本当だね。ネズミ算式とはまさにこのことよ。一匹が二匹となり、二匹が四匹、四匹が八匹ってな具合だ。」

「すると何かい?玄さんとこの猫が死んだのがひと月ほど前だから、うちの天井裏には今どれくらいのネズミがいる算段になるかねえ?」

「そうさな。一日に一回子を産んで増えるとして、俺の計算ではざっと見積もって五千匹にはなるな。この六軒長屋の天井裏にはさしずめ五千のネズミがすし詰めになっているってなもんよ。どおりでうるせいはずだ。」

「お前さん。」

「おう。」

「退治しておくれ。」

「俺がか?」

「お前の他に誰がいるんだよ。天井裏への入り口は長屋の中でも端っこのうちと、あっちの端っこだけだ。あっちの端っこはお竹さん一人の女所帯だし、この長屋ではお前さんが一番の兄貴分だ。そこの羽目板を外して天井裏に入って、ネズミを追っ払っておくれよ。」

「なんで俺が猫の真似をしなきゃいけねえんだ。冗談言うなや。」

「冗談じゃないよ!朝からうるさく騒ぎやがって!これ以上騒ぐと叩っ殺すよ!」

「ああびっくりした。あれは今噂をした一番端のお竹さんの声じゃねえか。相変わらずでかい声だね。向こう端からこっち端のうちまで届いたぜ。女の一人所帯が聞いてあきれる。俺はまた耳そばでおめえが半鐘でも叩いたのかと思ったよ。さすがお竹さんは常磐津のお師匠さんだ。声の通りが違うね。一つ雄叫びを上げりゃあ、山をも裂けるってな具合よ。ああ立派なもんだ。あれこそが迫力ってやつだね。ものが違う。あの気合でひとつネズミも追い払ってくれねえかな。」

「感心している場合かい。もう長屋中みんなネズミには頭にきているんだ。」

 すると突然入口から与太さんが飛び込んできました。

「八さん、八さん、俺はもうダメだ。もう死にそうだ。」

「おう与太か。朝からどうした?」

「何がって聞いてくれよ。八さん。あれ?朝飯かい?うまそうだなあ。」

「食ってくかい?お志麻のやつはもう食わねえみてえだから。残しちゃもったいねえ。ちょっとばかり埃はかぶってはいるが除けりゃあなんてこたあねえんだ。遠慮するな。食ってけよ。」

「そうかい。悪いね。じゃあありがたく。いや!違った。俺は朝飯を呼ばれに来たんじゃねえや。だいたい俺はさあ、つい今しがたお袋と飯を食ったばかりだ。危うくもう一回食うところだったぜ。あぶねえあぶねえ。すっかり忘れてた。そういや、飯ってのはあんまり食い過ぎてもよくねえって誰かが言ってたな。誰だっけ?八さん、お前だったかな?」

「俺はそんなこと言っちゃいねえぜ。」

「じゃあお志麻さんかい?」

「さあね。それより与太さん。何か用事があってうちへ来たんじゃなかったのかい?」

「そうそう、そうなんだ。用事があったんだ。立派な用事がね。ええと、なんだっけ?」

「知らねえよ。」

「それにしてもうるせえなあ。カリカリガリガリよ。ああそうそう。八さん、何とかしてくれよ。こいつらをよ。天井裏でネズミどもがこうやって始終大騒ぎするもんだから、お袋が苛々してしょうがねえんだ。ずっと俺に当たりっぱなしだ。俺もう我慢できねえよ。ネズミが騒ぐたんびにお袋が「与太!何とかしろ!」って怒鳴るもんだからさ、俺はもうここのところずっと寝る間もねえくらいお袋から怒鳴られっぱなしだ。八さん、このネズミを静かにさせてくれよ。そうしねえと俺はもう、もう、」

「耐えられねえか?」

「いやあそれじゃあねえな。」

「死にそうか?」

「ああそっちだ。そっちのほうがいい。」

「あのおっかねえお袋に始終怒鳴られてるのは災難だな。おめえのお袋はただでさえおっかねえんだ。怒鳴られたら俺だって死んじまうかもしれねえ。わかった!俺が何とかしよう。考えがあるんだ。」

「へえ?どんな?」

「よう!ネズミども!今のうちに騒いでおけよ!すぐに騒ぎたくたても騒げなくなるからな!いいか与太、それにお志麻、顔をこっちへ寄せろい。ネズミどもには聞かれたくねえ。よく聞け。俺の考えってのはな、兵糧攻めよ。天井裏につながる穴という穴を全部塞いじまうのよ。そうすりゃあネズミどもは天井裏から出ることはおろか入ることすらできやしねえ。餌も水も調達できなくなったネズミどもは次第にやせ細り、騒ぐ元気もなくなった挙句、哀れ全員飢え死だ。どうだ?ええ?すごいだろ?」

「だけどお前さん、そんなことができるのかい?だってこの長屋は。」

「わかってるって。ここは見るも無残なオンボロ長屋。江戸中探したってこれほど荒れ果てた貧乏長屋はねえってくらいのあばら家よ。天井裏につながる穴なんぞ、探したら星の数だって見つかるぜ。それを一個一個埋めていったら、いつまでかかるかしれねえ。仕事もしねえで天井の穴を埋めていったらネズミの前にそれこそこっちが飢え死よ。いいか、ネズミが出たのがいい機会だぜ。これを機に家主に長屋の建替えを頼もうと思うんだ。だいたいもうこのボロ長屋はとっくに建替えての時期なんぞ過ぎているんだ。俺が生まれる前に建替えが済んでいたって遅えくらいの代物だ。それをあの因業大家はカネを出すのが惜しいものだから何十年もほっぽりっ放しときていやがる。それでいて家賃だけは立派に取るんだから大したもんよ。今日俺はこれからあの因業大家にはっきり言ってくるぜ。『大家さん、長屋はすっかりネズミどもの住処となり果てました。私たち人間が隅に追いやられております。ネズミを追い出すか、でなければ我々人間が出ていくかの瀬戸際でございます。ネズミが大家さんに家賃を払えますか?家賃を払えるのは人間だけでございます。どうぞ今すぐ建替えをしていただき、私たち人間の住む家をネズミから取り戻してくれるよう、お願い申し上げます』ってな。」

「俺も行くぜ。」

「おう熊さん、おめえも壁の向こうで聞いてたかい?ありがたい。一緒に行ってくれると頼もしいぜ。」

「八さん、俺も行くよ。」

「ああ与太、ありがとう。だけどおめえはいいや。家でお袋さんの世話でもしていな。気持ちだけは受け取っておくぜ。ありがとう。」


「断る。」

「なんだって!」

「だから断るというのだ。」

「なんだと!」

「落ち着け熊。大家さん、俺たちはそんな無理を言っているわけじゃあねえんだ。あの六軒長屋もだいぶ古くなったから少しばかり修繕をしてくれと、こうしてお願いしているだけじゃねえか。」

「八さん、それに熊さんも、よく聞きなさい。あの長屋が気に入らねえならどうぞ出て行ってくれてかまわない。そんなに新しい長屋に住みたいのなら、どこぞの新しい長屋へでも引っ越したらいい。世の中には古くてもかまわねえって借り手はいくらでもいるんだ。私はお前たちがいなくなってもちっとも困らない。」

「いや大家さんこそ黙って聞いてくれ。あの長屋にゃあ、どこを探したってもう借り手は見つかりませんぜ。ネズミが屋根裏で始終お祭り騒ぎをしているんだ。うるさくってとても住めたもんじゃねえ。無下に俺たちの願いを断る前に、一度その目と耳であのネズミどもの馬鹿騒ぎを確かめておくんなさい。」

「お前たちは何かい?大名屋敷にでも住んでいるつもりかい?いつからあそこは江戸城の一部になったんだ?ええ?だいたいどこの長屋にだってネズミは付き物だ。下町の長屋にネズミがいて何が悪い?ああネズミだっているだろうよ。人間だってネズミみてえなのが住んでいるんだから。」

「なんだと大家!てめえこの!」

「落ち着け熊。大家さん、いくら何でも俺たちをネズミ扱いするのは酷すぎるぜ。」

「すまんすまん。いや確かに言い過ぎたかもしれない。私だって鬼じゃない。ネズミ退治にはうってつけのやつがいるんだ。建て替えの代わりにそいつを送ってやろう。その方が安く済む。」

「へえ、そんなやつがおりますか?いったいどこのどいつです?ネズミ退治の名人ってのは?」

「藤十郎だ。」

「藤十郎?へえ、そんな人がおりますかね?わかりやした。帰りにそいつんち寄ってあっしからも直接頼んでみますわ。いったいどこに住んでるんです?そいつは?」

「ここにおる。お前たちには見えないか?」

「へえ?どこに?ここにはあっしら3人の他は見えませんぜ。まさか!奥にいる奥様ですか?あの物静かなお婆さんがねえ、ネズミ捕りの名人とは意外ですなあ。」

「何を言っておる。あいつは蚊の一匹出ただけでもぎゃあぎゃあ騒ぐ女だ。ネズミなどとんでもない。よいか、藤十郎はここにおる。先ほどより私の膝の上で丸くなっておろう。」

「あっしには太った猫しか見えませんがね。」

「これが藤十郎だ。ネズミ捕りの名人だ。」

「ずいぶんまるまるとしてますぜ。それに大家さんと同じで年も取っていやがる。ネズミ追い回すどころか、犬に追いかけられたって走れそうに見えませんがね。」

「ふん。お前たちに何がわかる。こいつがネズミ退治の名人である証拠に我が家にはネズミ一匹出たことはない。貧乏長屋の痩せネズミなどこの藤十郎の牙にかかれば赤子の手をひねるようなものよ。」

 半信半疑の八さんと熊さんを前に、猫の藤十郎は知ってか知らずか大家の膝の上で眠そうにあくびをしました。


「これです。ご覧の通り、カリカリガリガリチューチューキーキーずっとこの調子でネズミどもは天井裏で騒いでいおります。大家さん、本当にその猫一匹で大丈夫でしょうかね?まだ大家さんの腕の中でずいぶんと気持ちよさそうに寝ておりますが。」

「心配するな八。ふむ。この音の様子ではだいぶおるようだな。」

「まあ五千は下らないでしょうね。」

「藤十郎行ってみるか?うん?そうか。行ってくれるか?ネズミどもを始末してくれるか?あまり暴れるでないぞ。お前に怪我でもされたらわしも婆さんも悲しむからな。ほどほどにな。」

 猫は呑気に腕の中でやはりあくびをしております。八さんが背伸びをして天井裏へ入る羽目板を外すと、大家は猫の藤十郎を赤んぼを高い高いするように両手で抱え上げ、ポイっと天井裏へ放り込みました。するとどうでしょう、今まで大騒ぎしていたネズミどもが、サッと水を打ったように静かになりました。今までの騒ぎが嘘のように物音ひとつ聞こえてきません。

「いや。さすが藤十郎だ。大家さんの猫は一味違いますな。」

「そうであろう。」

 ミシッ、ミシッ。天井裏から聞こえてくるのは藤十郎の重い足が薄い天井板を踏みしめる音だけ。猫がソロリ、ソロリ、ゆっくり一歩、また一歩と足を踏む度に天井板がミシッ、ミシッときしみます。聞こえる音はそれだけです。今まで大騒ぎしていたネズミどもは突然の敵の来襲に様子をうかがっているのかすっかり黙り込んでしまいました。ミシッ、ミシッ。藤十郎はゆっくりと天井裏を歩き、大家をはじめ八五郎と長屋の面々は固唾を飲んで、その音を見上げ目で追っていきました。ミシッ、ミシッ、ミシッ。とうとう藤十郎の足音は天井裏の端っこまで来て止まります。そこはちょうど八五郎の家の戸の真上。いよいよ藤十郎はネズミどもを天井裏の隅まで追い詰めたのか。さあ次に聞こえるのはネズミどもの断末魔の悲鳴か。あるいは猫藤十郎の勇ましい咆哮か。下から見上げる人間たちはこれから起こるであろう惨劇の音を待ち望み、耳をそばだててワクワクドキドキして下から天井を見上げました。

「しかし大家さん、何も起こりませんね。」

「しっ!黙れ!これからが戦のはじまりだ。」

 ところがいつまで待っても天井裏は静まりかえったまま、一向に次の音は聞こえてきません。藤十郎は天井裏で寝てしまったのでしょうか。やがて、

ストンッ。

与太さんだけが開け放たれた玄関先の地面に何かが落ちる音を聞き、なんとなくそっちの方へ顔を向けました。大家をはじめ長屋連中のみんなは相変わらず天井を見上げ、猫のネズミ退治が始まるのを今か今かとワクワクしながら待っているので、外で聞こえたそんな小さな物音などに顔を向ける者など一人だっていやしません。ただ一人、与太さんだけが『なんだろう?』とふと外を見ると、ちょうど地面に着地したばかりの藤十郎と目が合いました。

「なあ八さん。」

「なんだ与太。後にしてくれ。こっちは忙しいんだ。これから猫がネズミを退治するんだからよ。」

「だけど八さん。猫がこっちを見てるぜ。」

「猫だって見るだろうよ。なにしろ同類が今うちの天井裏で一世一代の大勝負をしようってんだ。見物にもくるだろうよ。」

「そうかい。だけどどうかな?この猫は天井裏じゃなくてどうやら俺たちを見てるぜ。それにさ、俺の見たところ、どうもこの猫はさ、八さん。」

「なんだ!早く言え!」

「どうもさっき天井裏に入った猫の気がするな。」

「なに!おや、こいつは藤十郎じゃねえか!天井裏へ入っていると思ったら、いつの間にか外へ出てやがったか。」

「おお藤十郎!はや仕事を終えたのか!こっちへおいで。おいで。おお、いい子だ。今夜は鰹節をやろうな。ごらん。お前に恐れおののいてネズミどもはすっかり静かになってしまったよ。じきにこのオンボロ長屋からも姿を消しくれるだろう。ありがとうな。そうかそうか。ゴロゴロ喉を鳴らして。かわいいやつよ。」

 カリカリ、ガリガリ、チューチュー、ドタンバタン。ネズミがまた騒ぎ出しました。

「あのう大家さん。」

「おお。藤十郎どこへ行く?家へ帰りたいか?そうかそうか。怖かったな。ごめんごめん。」

 八さん他長屋の店子たちへは特に何も言わず、大家はそのまま猫を抱いて帰ってしまいました。

「だから言わんこっちゃない。あの太った猫にうちのネズミが追い払えるはずがねえんだ。大家の野郎、俺たちに一言も言わねえで帰えっちまいやがった。おーい大家!ネズミはどうする気だ!ちぇ。聞こえねえふりをしてやがる。」

「おう八さん。どうだい?その様子じゃ。あのデブ猫の野郎、尻尾巻いて逃げやがったな。おうおうネズミどもも相変わらず元気に騒いでいやがる。」

「ああそうだ。大家なんぞは尻尾もねえくせに尻尾巻いて逃げたぜ。ところで熊、どこへ行ってやがった?それにそのでっかい木箱はなんだ?何だってそんなもん抱えてやがる?おまけにそいつは箱のくせにやけにガタガタ動くじゃねえか。おや?熊!おめえどうした?顔中ひっかき傷だらけだ。女と喧嘩でもしたか?ええ?着物だって破れてボロボロじゃねえか。」

「ふん。俺はおめえたちと違って、こうなることは最初からわかっていたのよ。大家んとこのへっぴり猫じゃうちのネズミどもにゃ太刀打ちできねえってな。だからこいつを河岸まで行ってとっ捕まえてきたってわけよ。この木箱が動くって?馬鹿言うな。こいつは動くなんてもんじゃねえ。大暴れする木箱よ。おう!暴れるな!今すぐ出してやるからよ。暴れるのはそれからにしろい。待っていやがれってんだ。こいつはな八、他の者もよく聞けよ。魚河岸一帯を縄張りにしている野良猫どもの大親分。大将の中の大大将様よ。いいか、魚河岸に巣くっている百戦錬磨の野良猫どもがこいつの鼻先をちらっと見ただけでも震えあがり、ひれ伏すってくらいの大猫様よ。もうこうなると猫じゃねえかもしれねえな。化け猫だ。虎やライオンの類だって言われても俺は驚かねえぜ。こいつを捕まえるのには苦労したぜ。それこそ大捕り物だ。俺と魚河岸の男どもが寄ってたかって猫一匹に相手に半日も格闘したんだからな。死ぬかと思ったぜ。猫がじゃねえぜ。俺がよ。実際死にかけたんだ。いいかみんなよく聞け。この猫様はな、名を、いや、名前はない。だけど魚河岸の連中はチビって呼んでやがる。どこからどう見てもチビじゃねえんだ。それどころかバケモノみてえにでけえ猫なんだけどよ、子供の頃はチビだったからみんなチビと呼んでるんだとよ。とにかくだよ。この大猫なのに通称チビは今ここで木箱を開けたら、俺たち全員を皆殺しにするってくらいの暴れん坊よ。何度も言うが俺と腕っぷしの太え魚河岸の若えもん十人で大格闘の末にようやくこいつを木箱へ納め、こうしてうちまでお連れしたのよ。チビ!今おめえの紹介を長屋の連中にしてるんだから、そう暴れるなって。すぐうめえネズミをたらふく食わせてやるからよ。今しばらく待っていやがれ。そう急くなって!みんなにおめえの恐ろしさを説いて聞かせているところだ。さあ八さん、もういいだろ。手伝ってくれ。こいつをおめえんとこから天井裏へ解き放つぜ。まだ箱の蓋を開けちゃいけねえよ。ネズミの前に俺たちが殺されちまう。慎重に、慎重に、屋根裏へ上げて、そこで蓋を開けるんだ。だから暴れるな!チビ!すぐ自由にしてやる。八、こっちを持ってくれ。ここを支えてくれ。」

「おや?熊、変だぞ。」

「八、何をぼうっとしてやがる?箱を落としたら大変だ。猫がネズミじゃなくて俺たちに襲いかかってきたらことだ。命の保証はねえぞ。」

「熊、耳を澄ませてみろ。」

「なんだ?何にも聞こえやしねえじゃねえか?おいチビ!頼むからおとなしくしてくれ。箱を落としそうだ。八!なにしてる?手伝ってくれ!」

「聞こえねえんだよ、熊。何にも聞こえねえんだ。ネズミどもが静かになりやがった。まだ猫が天井裏に入ってもいやしねえのに、もう静かになっているんだよ。ネズミのやつら、びびってやがる。こいつは期待できるぜ。この猫は本物かもしれねえ。」

「だから本物だって言ってるじゃねえか。ネズミどもの命はもう風前の灯よ。さあ八、そっちを持ってくれ。やるぜ。」

「おう。いつでもこい!」

「せーので開けるからな。いいか。せーの!」

 サッと木箱の蓋を取ると、大きな黒い影がビャッと天井裏の暗がりへ飛び込みました。

 フー!チュー!ギャー!バタン!ドカン!ニャー!

 さあ始まりました。猫一匹対ネズミ五千の大戦争。天井裏は百人の雷様が大暴れしているような大騒ぎです。もちろんその様子は天井板に遮られて見ることはできません。が、それでも長屋の住人は目を凝らせばあたかも猫とネズミの大格闘が見えるかのように天井板を見上げ、その激しい格闘の音に驚いたり震えたりしながら聞き入りました。バタンバタンと天井が揺れ、そのたびにパラパラバラバラと埃や煤が顔の上に落ちてきても誰もそんなことはもう気にもしません。必死に見つめればやがて天井裏が透けて見えるのだと言わんばかりに、誰しもみんな穴が開くほど天井板を見つめ、戦いの顛末に目と耳を澄ませています。

 ニャー!フー!チュー!キー!ドタン!バタン!ドカン!

 その時です。

 バキッ!

 天井板の向こうから大きく木の裂ける音がしました。長屋の住人達にはそれが屋根板の割れる音だとわかったので、大変だ!と、みんなすぐさま表へ出て屋根を見上げました。すると、青い空を背景にこれまで誰も見たことがないほど大きな猫が両手両足をいっぱいに伸ばし、空を飛んでいる姿が目に入りました。いたく大きな猫で、手も足も胴回りも、そして尻尾も普通の猫のゆうに三倍の太さはあります。尻尾に至っては太さだけではなく長さも他の猫の倍はありました。顔もまた普通の猫の3倍の大きさがあります。それだけではありません。その顔つきの悪いこと悪いこと。右目は袈裟に斬られた傷跡でつぶれていて、耳も数か所噛み切られていてギザギザです。さながら猫界のヤクザの大親分といった面構え。

「チビ!」

 八さんが叫びました。

 大猫のチビは、狭い路地を飛び越え向かいの長屋の屋根にドスンと着地したかと思うと、さらに再び大きく飛び上がり一本向こうの路地も飛び越へ、屋根から屋根へ、魚河岸方面へ姿を消しました。

「あーあ。あの野郎でもダメだったか。」

 熊さんはがっかりとうなだれます。

「猫のくせに脱兎のごとく逃げて行ったぜ。」

「まいったな。あいつで勝てねえとなるともうここはネズミの天下だ。こうなったらあの方法しか手は残ってねえな。」

「なんだ熊、まだネズミを追い出す方法があるのか?」

「その逆よ。俺たち人間様が出ていくのさ。」

 長屋の面々ががっかりしてため息を付きそれぞれの家へ戻ると、天井裏のネズミたちはまた何事もなかったかのように、チューチューガリガリ音を立てておりました。長屋の住人にはそれが戦に勝ったネズミどもの勝鬨の声に聞こえ、ますますうなだれました。


 その夜、長屋の住人はなかなか寝付けません。昼間の敗戦で落ち込んでいる上に、天井裏のネズミどもは相変わらずチューチューカリカリやっているので、やはり天井からは埃やら煤やら漆喰のカスやらが落ちてくるからです。布団の中にいる八さんとお志麻さんの顔にもそれらは降りかかりますが、二人とももうそれらを顔から払いのける元気もなくただ暗闇に目を開け、恨めしそうに天井を見つめておりました。

「ペッ、ペッ、なんか口に入ったよ。ちくしょう、むにゃむにゃ。」

 薄い壁板を通して隣から熊さんの寝言が聞こえてきました。

「ふう。」

 隣の布団で横になっているお志麻さんの口からもため息が出ます。

「熊の言う通り、俺たちが出ていくしかねえか。」

「にゃあ。」

「おいお志麻、猫の鳴き真似なんぞしないでくれ。昼間のことを思い出して悲しくなるじゃねえか。」

「あたしゃ何も言ってないよ。」

「じゃあ誰が『にゃあ』なんて言った?」

「にゃあ。」

「ほらまた。」

「あんた!外だよ。」

「にゃあ、にゃあ、にゃあ。」

「なんだ!」

 八さんとお志麻さんは布団から飛び起きて外へ飛び出しました。ガラッと戸を開けて向かいの長屋の屋根を見た途端、八さんはその上に青白く光る一つの目の猫と視線が合いました。一つ目の巨大な猫を八さんは一匹しか知りません。

「おう!暗くてよく見えねえが、おめえは昼間熊が連れてきた大猫のチビだな。何しに戻って来た?ええ?ネズミの寝込みを襲おうってのか?生憎やつらはまだギンギンに起きてやがるぜ。」

「あんた。」

「なんだ?俺は今あいつと話をしているんだ。」

「あんた。ちょいとあんた。」

「だからなんだよ。」

「周りを見てみなよ。」

「なにを?」

 周囲を見回して八さんはハッと息をのみました。長屋はいつの間にか数えきれないほどの光る目に囲まれております。屋根を見上げるとそこにも無数の光る目があって、その数といったら空に浮かんでいる星の数よりも多いくらいです。全部猫です。数えきれないほどの猫の光る目です。ものすごい数の野良猫どもが八さんの裏長屋に集まってきておりました。

「こいつは大変だ。おいお志麻。」

「なんだい?」

「みんなを叩き起こしてくれ。昼間の大猫が仲間を連れて戻ってきたってな。俺は熊を起こす。」

 ドンドンドン!八さんは猫を見たまま隣の熊さんの家の木戸を叩きます。

「おい熊!起きろ!大変だ!」

「なんだ!火事か!」

「違う!猫だ!」

 わらわらと長屋の者たちも外へ出てまいりました。みんな眠い目をこすりながら出てきましたが、自分達を取り囲む数百いや数千の猫の大軍を見て誰もがすぐに目を覚ましました。

「こいつはたまげたな。江戸中の野良猫どもが集まっていやがる。」

「復讐だ。昼間の復讐に仲間を連れてチビが戻ってきたんだ。」

 やがて黒い雲が風に流れ、月を隠すと辺りがさあっと暗くなりました。それが合図であったのでしょう、

「にゃあ、にゃあ、にゃあ。」

 野良猫たちが一斉に騒ぎ出します。するとそれに呼応して天井裏のネズミたちも

「チュウ、チュウ、チュウ。」

 と騒ぎ出します。

 辺り一帯は猫とネズミの割れんばかりの大合唱。その数を足せば万は超えている猫とネズミの大軍が一斉に鳴いているのですからうるさくて、もう人間が話す声などまったく聞こえません。八さんの目には熊さんとお志麻さん、それに長屋じゅうのみんながしきりに何か言っているのは見えます。ただ何も聞こえません。みんな酸欠の鯉のように必死になって口をパクパクするのが見えるだけです。

 ストンッ。

 大合唱の中、向かいの長屋の屋根から例の大猫チビが飛び下りてきました。仲間たちの雄叫びの中を悠然と八さんの足元まで歩いてきます。そこでふっと八さんと見上げ、そのまま八さんの家の中へ入っていきました。

「おうおうこいつ、俺んちに入って何をするつもりだ?」

 後を追って家の中に入ると大猫は天井裏へ入る羽目板の下に座り、上を見上げています。

「なるほど!開けろって言うんだな。やっぱりおめえは猫の中の猫だぜ!ネズミどもを始末してくれようってんだ!よしわかった!今開けてやる!」

 八さんが天井の羽目板を外すと、タンッタンッタンッ。大猫チビは八さんの手を借りるまでもなく、自ら壁を蹴って跳ね上がり、天井裏の中へ飛び込みました。

「おう猫ども!これを使え!」

 どこからか持ってきた梯子を熊さんが天井裏の入り口にかけると、待ってました!とばかりに外にいた無数の野良猫の大軍がチビの後に続きます。ダダダダダダ!とみんな一斉にはしごを駆け上がり、あっという間に全猫が天井裏へ突入しました。

 ドカン!バタン!ズドン!フギャー!チュー!

 天井裏はそれはもう大変な大騒ぎ。昼間の戦いの比ではありません。何しろ猫とネズミの数が違います。大地震でも来たかと思われるほどガタガタと音を立てて長屋全体が揺れ、天井から埃やら煤やらがバラバラと長屋連中の頭の上に夕立のように降り注ぎます。容赦なくゴミは口や目に入りますが、それでもみんなこの真夜中の大一番を見逃してなるものかと、上を見上げ再び始まった見えない天井裏の大戦争の行方に目と耳を傾けます。

「猫が優勢かな?」

「いやあネズミも頑張ってるぞ。」

十分が経ちました。ドタン!バタン!激しい戦いの音は続き、一向に終わる気配はありません。二十分、相変わらず激しい物音は鳴りやまず、天井裏は大騒ぎ。三十分、四十分、戦いはいまだ終わる気配を見せず。一時間、二時間が経っても猫とネズミは天井裏で大立ち回りを繰り広げています。一方、開けっ放しの羽目板からはネズミどころか、猫一匹出てくる気配はありません。

「あーあ。」

「おう熊、あくびなんぞするな。野良猫どもが俺たちの代わりに戦ってくれてるんだ。失礼だぞ。」

「でもよ八、少しばかり上を見るのをやめて横を見てみな。」

「なんだと。お!他のみんなはどこへ行った?おめえと与太しかいねえじゃねえか。うちのお志麻はどこへ行った。」

「お志麻さんならほらそこ。もう布団の中で気持ちよさそうに寝てらあ。」

「そうだ。みんな自分とこへ帰っちまったよ。まともな人間なら寝る刻限だからな。あばよ。俺も寝るぜ。」

「待て熊。あーあ帰っちまいやがった。」

「八さん、俺は残るぜ。」

「ふう。与太、おめえも帰れ。」

「なんでだ!俺だって最後まで見届けるぜ。」

「家でおっかさんが心配してるぜ。」

「あ、そうだ。おっかさんのこと忘れてた。じゃあな八さん、おやすみ。また明日。」

 ドカン!バタン!ドスン!天井裏では相変わらず猫とネズミの戦争は続いています。

「さあネズミども、たとえ一人になっても俺様がおめえたちの最期を見届けてやるぜ。俺はここからテコでも動かねえからな。なにしろここは俺のうちだ。動きようがねえ。ぐう。」


 チュン、チュン、チュン。

 雀の鳴く声で八さんは目が覚めました。

「いけねえ!寝ちまった。」

 慌てて八さんが天井を見上げると、シーンと静まり返っています。天井裏からは物音ひとつ聞こえてきません。昨夜の大騒動はもしかしたら夢だったんじゃないか。一瞬そんなことが八さんの頭をよぎります。

「八、起きたかい?」

 隣の熊さんが入ってきました。

「おう熊。」

「どっちが勝ったかな?」

「それが俺にもわからねえんだ。おうお志麻、起きろ。」

「ううん。もう朝かい?勝負はついたかい?」

「どうやらそのようだぜ。」

「どっちが勝ったんだい?」

「これだけ静かになってるってとこをみると、猫だな。ネズミはもういねえ。」

「おう八、そう考えるのはまだ早えぜ。あれだけ派手にやりあったんだ。猫もネズミも疲れて天井裏で寝てるだけかもしれねえからな。ちょっとこの箒を借りるぜ。」

 と言うと熊さん、箒の柄でドンと一発天井を叩いてみました。天井裏からは何の反応もありません。ただハラハラと埃が落ちるだけです。

「何も聞こえねえな。」

「ああ何も聞こえないよ。」

「安心するのはまだ早え。」

 ドン、ドン。念のためもう二回、熊さんは天井を叩いてみました。

「何も聞こえねえ。天井裏には蜘蛛の子一匹いやしねえようだぜ。」

「ああネズミどもは全滅したんだよ。」

「いやあ、そう考えるのは早計だ。」

 と熊さん、さらに箒の柄でドンドンドンと天井を打ちまくります。

「待て待て待て、俺んちを壊すつもりか、おめえは。」

 八さんが慌てて熊さんの手を掴んで止めます。そうして三人は天井を見上げましたが、やっぱり音は聞こえてきません。

「死んだな。」

「ああ死んだ。」

「もうネズミは一匹だってこの家にいやしないよ。猫に食われたんだ。今ごろみんな天国だ。」

「野良猫ありがとう。」

「さあお志麻、朝飯の支度だ。」

「あいよ!」

「埃のかぶらねえ朝飯なんて本当に久しぶりだぜ。」

 その朝は長屋中が歓喜に包まれました。ネズミのいない久しぶりの明るい朝です。ネズミの音を聞かずに食べる朝食のおいしいこと、また楽しいこと。ネズミがいないとこんなにも晴れやかな気持ちで一日を始められものかとみんなそれぞれの家で驚き、その喜びを薄い壁を通して隣とも分かち合いました。

「ああうめえな。この味噌汁のうめえこと。煤の味のしねえ味噌汁がこんなにうめえかね。」

「ご飯だってそうだよ。埃がないから口当たりのいいこと。喉にすっと入る。あれ?変だね。いま少し埃の味がしたよ。」

「ん?そうだな。言われてみたら俺の味噌汁もなんだか昨日と同じ煤の味がするぜ。」

 と八さんとお志麻さんが天井を見上げると、カサカサ、カサカサ、お馴染みのネズミたちの動く音がします。カサカサ、カサカサ、音がするたびにやはり天井から埃や煤がサラサラ、パラパラと降ってきました。

「八さん!大変だ!」

「おう与太!わかってる。わかってるぜ。熊!」

「おう!」

 薄い壁の向こうから熊さんが返事を返してきました。

「八、大家もダメ、猫もダメだとなると、」

「そうとも熊、いよいよ俺たちの出番よ。」

「出て行くのかい?」

「馬鹿を言うなお志麻。戦うのよ。出て行くにしても俺たちは人間様だ。万物の霊長としてネズミどもに一泡吹かせてからでねえとな。そうだろ熊!」

「おうよ!一戦交えてやるぜ!」


「ぺっ、ぺっ、ああまたクモの巣を食っちまった。なあ八さん、聞こえてるかい?みんなちゃんと下にいてくれてるのかな?そこら中ひでえクモの巣だらけだよ。どんどん口の中に入ってきやがる。」

「口を閉じろ与太。いいか、口を開けてるからクモの巣が入ってくるんだぜ。口を閉じていれば入ってこない。」

「だけど八さん、口を閉じたままでどうやって下のお前たちと話をするんだい?ペッ。ああまた食っちまった。なあ八さん、ちょっと聞いていいかい?ペッぺっ。」

「なんだ?言ってみろ。」

「なんだって俺一人が天井裏に上がらなきゃいけねえのかな?」

「うん。いい質問だ。それはな、なんだっけな?熊。」

「それはな与太、おめえが長屋で一番体の小せえ男だからだ。俺や八が入ってもいいんだが、そうするってえと重くて天井板が抜けちまう。それで小柄なおめえがまず天井裏へ入り様子を探ってくるってことになったんじゃなかったかな?ついでにネズミどもを追い出せるようだったら追い出す。俺たちは下にいて、おめえに声をかけて励ますってお役目だ。」

「ああそうだ。そうだった。ちゃんと下にいてくれよ。俺が天井裏にいる間にみんなどこかへ行っちゃいやだぜ。ペッ、ペッ、それにしてもこのクモの巣だけはなんとかなんねえかな。」

「だから口を閉じろってんだ。」

「だけど八さん、目にも入ってくるんだ。こっちはどうしたらいい?」

「じゃあ目を閉じろ。」

「ああそうか。なるほど、そうしたら目にクモの巣は入らないね。八さん!何にも見えないよ。」

「じゃあ開けろ。与太、ごちゃごちゃ言ってねえで早く奥へ進め。天井裏を長屋のこっち端から向こう端のお竹姐さんのところまで行ってみるんだ。どこにネズミの巣があって、どこに何匹くらいいるか、いちいち俺たちに報告しろ。それを聞いて俺たちが作戦を立てるんだからな。与太、おめえは大事な役目を背負っているだぞ。」

「わかったよ。あ痛!頭をぶつけた!ああ痛え。こいつはコブになるな。ひどくぶつけたらコブになるっておっかさんが教えてくれた。あ痛!ああ痛え。今度は膝を梁にぶつけたよ。誰だこんなところに梁を作ったのは。痛えなあ。これもコブになるな。だけど膝にもコブってのはできるのかね。痛!また頭をぶつけた!ちくしょう!こんなところに柱があったよ。ああ痛い。痛いよお。」

「与太!」

「八さん、俺もうやだよ。体中ぶつけるしクモの巣は食うし、たぶん向こう端へ行く頃には俺死んでるんじゃねえかな。」

「与太、今何が見える?」

「見えるわけないじゃないか!天井裏なんだぜ。真っ暗闇に決まってるよ。お日様なんて入りゃあしねえんだ。」

「おめえがどうして頭だの膝だのぶつけるかようやく分かったぜ。おう与太。行燈の灯りはどうした?おめえ持って上がっただろ?」

「行燈?あああれか。入口のところに置いてきたよ。荷物になるからね。」

「ばか。あれがねえから頭を打つんだ。引き返して行燈を取ってこい。」

「わかったよ、そんなに怒鳴らなくてもいいじゃねえか。痛!またぶつけた!もうどこをぶつけたのかわかんねえよ。引き返すのだって一苦労だ。八さんもう引き返せなんて言わねえでくれよ。痛くてしょうがねえよ。痛!いったいここには何本柱があるんだ!俺の頭は一つしかねえんだぞ!あ。八さん!これは驚いた。」

「どうした?」

「よく見えるよ。行燈があるとよく見える。これなら頭をぶつけないですみそうだ。」

「そうか。よかったな。じゃあそろそろ奥へ進んでくれ。」

「わかった。」

「わあ!」

「どうした?」

「ネズミがいるよ。いっぱいいる。ああ!大変だ。ネズミどもに囲まれた。おっかねえなあ。みんなずらっと並んでこっちを見ているよ。右も、左もネズミだらけだ。わあ!」

「どうした!大丈夫か。」

「後ろにもネズミがいる。もう戻れねえ。前へ進むしかねえ。おや?」

「なんだ!今度は何が起こった?」

「かわいいなあ。ちっちゃいネズミが目の前に現れたよ。ちっちゃくてかわいいやつだ。どうした?なに?こっちへ来いってか?八さん、熊さん、こいつ俺について来いって言ってるぜ。どうしたらいいかな?」

「どうしたらっておめえ、もう後ろへは戻れねえんだろ。付いていってみろ。」

「あはは、かわいいなあ。こっちへ来いって?手招きをしてるよ。わかったわかった。今お許しが出たからそっちへ行ってやる。俺と遊びたいのかい?そう急ぐなって。わあ!」

「なんだ与太!今度はどうした?」

「ああ八さん、ここは長屋のどの辺りかな?」

「ちょうど真ん中辺りだ。のり屋のババアんとこの真上だ。」

「どうやらここがネズミどもの本陣のようだ。なあ、そうだろ?」

「与太の野郎いったい誰に話しかけてるんだ?おい与太。なんだっておめえ、そこが本陣だってわかる?」

「そりゃあわかるに決まってるじゃねえかよ!これがわからねえでどうしようってんだ!なあ、そうだろ?道案内ついでにあの方に言ってくれねえかな?俺はそんなに悪い奴じゃねえって。お前と俺とは友達だろ。あの方に口添えしてくれねえか。」

「おい与太!おめえいったい誰と話してる?いったい全体そこに何があるんだ。」

「八さん、俺は今忙しいんだ。ここまで案内してくれたちいせえネズミに仲裁を頼んでるんだから。ああ!こっち来た!」

「何が来た?何が来たってんだ?」

「親方だ!ネズミの親方だよ!ああでけえなあ。うちの漬物石よりもでけえ。俺を見おろしてやがる。前歯なんかギロチンの刃みてえに尖ってるぜ。ネズミの親方様!悪いのは俺じゃねえ。俺は頼まれてここに来ただけなんだ。本当に悪いのは下にいるハチ公やクマ公なんです。どうか命だけはお助けを。ああ!」

「どうした!」

「親方様が右手を上げた!俺を引っ叩くつもりだ!」

「逃げろ!」

「無理だ!もう逃げられねえ!わー!」

「どうした与太!」

「ネズミの親方様が手で床をポンと叩いた。」

 その途端、建物が大きくギシッときしみました。、

 ズドーン!

 またたく間に長屋全体の天井が床へ抜け落ち、壁という壁がすべて崩れ倒れました。辺りはもうもうたる土煙に包まれて何も見えません。

「ゴホッゴホッ。」

 土煙がようやく収まると、あたりがぼんやりと見えてきました。やけに明るいなと思ったら、あったはずの長屋の建物が屋根も壁も何もかも消えています。ネズミの親方様の放った最後の一押しによりオンボロ長屋は全て跡形もなく崩れ去ってしまったのです。

「みんな大丈夫か?無事か?」

「ああ大丈夫だ。」

「生きてるぜ。」

「与太!どこにいる?大丈夫か?」

「八さん、俺はここにいるよ。だけどだめだ。死んだかもしれねえ。」

「よかった。与太は大丈夫だな。」

「おい八!あれ見ろ!」

 土煙の中から熊さんが叫びます。

「はっ!」

 八さんが熊さんの指さす方を見ると、いましたいました、確かにいました。

「与太の言うことは嘘じゃなかったな。こいつは確かにでけえ。」

「こんなにでけえネズミは見たことがねえ。あの野良猫どもを追い払うくらいだから只者じゃねえとは思っていたが、まさかこれほどの大物とはな。」

 長屋連中が大口を開けて見守る中、ネズミの親分様はたくさんの子分たちを引き連れ、悠々とした足取りで崩壊した長屋から去っていきました。

「どうするんだいお前さん?長屋がなくなっちまったよ。住む所がすっかりなくなっちまったじゃないか!これからどこでどうやって雨露をしのっげてんだよ!」

「まあお志麻、そうカリカリするな。悪いことばかりじゃねえぜ。長屋が無けりゃあ、ネズミも出ねえ。」

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