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「きれいごと」をはき違えないために

いらっしゃいませ
本日のおすすめはミルクセーキです
それでは、ごゆっくりどうぞ

やあ。

男子三日会わざれば刮目してみよというが、僕の場合はおよそ一か月も経ってしまったね。

まあ、環境のせいだ。責めないでくれ。

人間は環境に左右されるものだから、ふとしたきっかけで行動が変わる。

それはやらなければならないことでも起こりうるのだからたちが悪い

さて、十二分に言い訳をまくしたてたところで本題と洒落込もう。

今日は「きれいごと」についてだ。


きれいごとはしばしば「虚構」とみなされることがある。

実際は存在しない、人間の勝手なまがいものでしかないように描かれる。

確かにそう思うのも無理はない。
それに、あながち間違いでもないだろう。

例えば、太宰治の「人間失格」の有名な一節に

「恥の多い生涯を送って来ました。」

というものがある。

あまりに有名で衝撃的な一文であり、
同時に多くの人にとって身に染みる言葉である。

誰しもが、己が人生に恥を抱えている。

後悔の無い道のりなどありえない。

そんなことは、百も承知だ。
いや、そう願いたいだけなのだろう。

かく言う僕も他言できないような恥を多く抱えているし、
たまに思い出して悶絶したりもする。

「愛さえあれば何もいらない」だの、
「止まない雨はない」だの、
「雨だれ石を穿つ」だの
そんなチンケな戯言に付き合っていられるほど暇じゃない。

しかし、だからと言って切り捨ててしまおうというのでは釈然としない。

それこそ都合がよすぎるのではないか。

ミクロに見れば、少しは予測が効くのかもしれないが、
現実は相も変わらず確率的現象でしかない。

奇跡だって、理不尽だって、真理だって、
あり得る時点で、あっても不思議ではない。

「きれいごと」もそうだ。

一般的に見ればそれは起こらないに等しいほど起こり難いだけで、

正直、あり得るのだ。

「あり得るのならばある」と考えるのは少し野蛮で短絡的すぎるかもしれないが、心意気としては間違っていないだろう。

いつの時代も「世の中、クソくらえ!」といった作品は後を絶たない。

それに倣って、きれいごとを漫然と切り捨てることは、それすらも否定することになりかねない。

断っておくが、僕はそういう作品が大好きだし、否定の意思はない。

しかし、
厭世観をもって生きているわけでも、
自己というものを失うほどに自己肯定感が低いわけでもないのに、
中途半端な不幸自慢は楽しいのだろうか?

もちろん、不幸なことを吐露することが悪いとは思わない。

悲しみやつらさを言葉にして昇華するのは実際に効果的である。

しかし、普通より少し上の幸福を得ている人間がする不幸自慢など目も当てられない。

少し前に流行した「親ガチャ」はその最たる例だろう。

発作的なきれいごと嫌いは、自分の不出来の暴露と大差ないと僕は思う。

あくまで「きれいごと」をそれとして受け入れられなければ、
その声は空しく響くか、湾曲して拡声されるだけである。

古くからの「きれいごと」を打ち破る様は、
まるで革命家のようにクールかもしれないが、

そのクールと自堕落は紙一重である。

ま、つまりは自分の環境を「きれいごと」と比較して軽薄にわめくのはみっともないよってことです。

この話、この二行で済んだな・・・


いや~、長々と話し込んですまないね。

つい熱くなってしまったよ。
まあ、持論だから聞き流す程度に留めておいてね。

時間も時間だし、そろそろお開きにしよう。

それじゃあ、

また

この店で

投げるな危険