初心忘るべからず
初心忘るべからず、は世阿弥の言葉とされているが、『花鏡』には
・・・当流に、万能一徳の一句あり。
初心忘るべからず、
この句、三カ条の口伝あり。是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。この三、よくよく口伝すべし。
とあって、もしかしたら世阿弥自身の言葉ではなく代々家に伝わる言葉かも知れず、あるいは父観阿弥の言葉かもしれない。
また、上の引用からは「初心忘るべからず」の意味自体も現代の我々が使う意味とは違っていることがわかる。
世阿弥の場合は能の上達の各段階ごとにその時々の「初心」があって、それを忘れてはならないと言っている。
能の上達には終わりがないのであって、したがって、たとえ老境に入ったとしてもまだ上達の余地があり、その意味でいつまでも未熟な部分は残る。その未熟な部分をよくよく見極めて、それを克服した後もその未熟さのことを忘れるな、と言っている如くである。
陶芸を始めてから世阿弥のこの言葉をしきりに考えているのだけれど、実はよくわからない。陶芸はまだまだ駆け出しなので仕方ないのかもしれない。そこで薪割りについて考えてみることにした。
初めて薪割りをした時には斧というひとつ間違えば大怪我をするかもしれない道具を使うことに対する不安と緊張感があった。同時に巧く割れた時の爽快感を味わうこともできた。しかし、あの頃は斧の行方が定まらず、今なら2回、3回斧を打ち込めば割れる玉に無駄に何度も斧を振り下ろしていた。
その後次第に斧のコントロールに慣れてきて、ほぼ狙ったところに打ちおろすことが出来るようになってきたが、難物を相手にすると2回、3回は同じところに正確に打ち込むことが出来ても、それで割れないとつい力んでしまい4回目、5回目になると狙いを外すことが少なくない。
これは力を抜いて無心で斧を振ればいいとわかったはずなのにそれを忘れる。これも初心を忘れるということだろうか。
世阿弥は初心を忘れると芸が後退すると言っているが、このことか?
世阿弥はまた老後の初心について、「老後の風体に似合ふことを習ふは、老後の初心なり」とも言っている。
年老いて身体が衰えてくると、その衰えた身体で能を演じるのは若い身体で能を演じるのとは別物であり、その意味でそれもまた初心であるという。
薪割りについても、これから体力は落ちていく一方で、老後の風体に似合った薪割りをしていかなければならない。自分としてはいかに力を抜いて正確に斧を振るかが老後の風体だと考えているが、まだまだ雑念が邪魔をして力を抜ききれないでいる。
あれこれ考えてみると陶芸だけでなく薪割りもまだまだ初心者の域を出てはいない。
つらつら思うに、初心忘るべからずとは、いつになっても上達、成長の余地はあるのだから、常に謙虚に向上を目指す心を持ち続けよ、という意味かもしれない。
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