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陽は翳りゆく 第二話

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

二 猫は、暑い朝に

 風鈴の鳴る音に、ぴくっと耳が動いた。幸い、向こうは気にするふうもない。本棚に連なる背表紙にひたすら見入っている様子だ。ここぞとばかりに歩を進めようとした、その矢先──
「隣の部屋には入れないよ」
 いきなり声が降ってきた。まったく、本にかまけているとばかり思ったのに。幾分身を引きつつ仰ぎ見れば、家のあるじは振り返ってもいなかった。なのに更に、逃げないのかい、と言葉が続く。揶揄するような口ぶりだった。
 押し黙ったまま眺めたが、それでも主はこちらを向かずにいた。外は既にうんざりするほどの暑さだったが、この家の中はそれほどでもない。彼の、紗紬の着物も涼しげだ。風鈴が再び微かな音を立てる。
「開かずの間なのだよ。行かない方がいいね」
 彼のこんな声音は初めて聞いた。先ほどとは打って変り、静かな中にも脅すような色があった。けれど奥からは、我慢できないほど好いにおいが漂ってくるのだ。開かずの間にご馳走を並べるはずがない。嘘ばっかり、と咎めてみる。にゃあ、と響いたその声に、主はようやく顧みた。
「朝食なら、いつものように庭でお食べ。今、持ってきてあげるから」
 庭は陽が当たり過ぎる。木陰でさえ茹だるようだった。だからこっそり上がり込んだのだ。にゃあにゃあ訴えると、主は呆れ顔になった。
「よしよし、わかった。では、この部屋でお食べ。とにかく、おまえは隣へ行ってはいけないよ。二度と戻れなくなるからね」
 綺麗に揃った本の中から抜き出した一冊を小脇に抱え、主は部屋を出ていった。食事を取りにいったのに違いなかった。ごろんと寝転んで寛ぎながら、試みに入ってみて正解だったと考えた。彼が猫に甘いことは、最初からわかっていたのだ。気を引くために簡単には懐かぬふりなどもしてみたが、おそらくそんな必要はなかったのだろう。
 縁の内側の戸はすべて開け放たれていた。ここからだと、暑いはずの庭もやけに典雅に見える。こんなに心地よい場所で朝食にありつけるのなら文句はなかった。隣にあるはずのご馳走ほどではないだろうが、ここの主が供するものは元々よそよりずっと豪華だ。猫は、隣の間の好いにおいは気にせぬことにした。
 主の足音が消えた方角から、妙なものを居つかせる癖は改めてくださいな、と非難がましい声が聞こえてきた。どうやら我が身の処遇について問答になったようだ。主が宥めるふうに一言二言応じている。
 妙なものとはずいぶん無礼だが、誰もが猫好きというわけではないことも知っていたから、猫は大して動じなかった。万が一あの意地悪な声の主が部屋に来て、この身を蹴り飛ばそうとするなら、そのときは隣に入り込んでやろう。主のつまらぬ嘘など信じてはいない。どうせ人間用の食事を守りたいだけなのだ。こちらにしても、他のものが出されるというから無駄な行動は控えただけのこと。追い立てられるなら、そもそものご馳走を失敬して逃げて当然である。
 とはいえ、そんなことになる可能性は低いと思えた。非難の声は老女のものらしかったが、嘆くような響きこそあれ叱責の調子はなかった。この家での地位は、主の方が上に違いない。幾ら老女が猫嫌いでも、この身が空腹を満たすことを主は邪魔させないだろう。
「貴方は、いずれお屋敷の主になるのですから」
「主といっても名ばかりではないですか。管理人のようなものですよ。それに、まだずっと先の話でしょう」
「いいえ。そのときは、すぐに訪れますわ」
 猫は耳を澄ます。老女は随分としつこいようだ。不満を述べるのは、主が食事を運んでからにしてほしい。
「心配しないでください。責任は果たします。今だって、ちゃんと手伝っていますし」
「ええ、そのことでも少し──」
「すみません。猫が待ちくたびれているでしょうから」
「ああ、話はまだ終わっていませんのよ──」
 老女はやはり、主には勝てなかった。主の足音が近づいてくる。同時に、隣にも負けない好いにおいが鼻に届いた。魚らしい。しかもかなり新鮮だ。猫は起き上がり、ぴん、と尻尾を立てて主を迎えた。
「待たせたね。ほら、刺身だよ。ちょうど魚屋が来ていったそうでね」
 遅いじゃないか。一先ず文句を言ってやろうと主を見上げた猫だったが、その鳴き声は呑み込まれた。主の顔が、ひどく悲しげに見えたからだ。いったいどうしたのだろう。老女が、猫の代わりに彼のことを、箒で追い回そうとでもしたのだろうか。
 一呼吸置いて、どうしたの、と訊ねてみると、主は神妙な顔をして猫の頭を撫でた。
「どうしたんだい、急に元気がなくなったね。刺身は嫌いだったかな」
 いや、お刺身は好きだ。それにこの家のものは、出入りの魚屋がよいから、殊に新鮮で美味しいのである。主もそれは知っているはずだが、元気がないのはそっちじゃないかと困ったままの猫をからかうように、一旦畳に置いた皿を持ち上げてしまった。
「刺身が嫌なら、他のものを持ってこよう。少し時間はかかるけれど」
 嫌じゃない。ちょうだいちょうだい、と慌てて主の足元に纏わりついて猫はねだった。まったく、あんな顔をしていた癖にこの態度とは腹立たしい。けれどご馳走を取り上げられては堪らないから、仕方ないのである。くすくす笑いとともに皿は再び下ろされ、猫はほっとして中身に顔を寄せた。
 刺身は、ここでしか口にできない上等な白身だった。猫の一番のお気に入りである。あるいは隣のご馳走より豪勢かもしれない。そういえば、隣の間からは、もうにおいはしなくなっていた。人の食事は済んだのだろうか。ここには、主と老女の他にいったい誰が住んでいるのだろう。
 猫はちらりと考えたが、刺身を食むのに夢中になって直に全てを忘れた。風鈴の音がまた響く。食べている間、主はそっと猫の背を撫でていた。
 穏やかな夏の朝だった。暑気が誘う気怠ささえも許せそうな、そんな平和な朝だったのだ。この後すぐ彼に会えなくなってしまうことを、猫は無論知らずにいたのである。