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湖面の月(小説)

 どういうわけか空に月はなく、ただ湖の上だけにその姿が浮かんでいた。秋も深まり、夜の時間が随分と長くなったこの頃、揺らめく金の輝きを木の枝の間から眺めるのが黒猫の楽しみであった。
「君の色は、僕の目の色と似ているね」
 池と見紛うような小さな湖だ。試しにそっと話しかけてみると、月に声が届いたらしい。水面に細かな波が立って、柔らかな月の笑い声が返ってきた。
「いつも見てること、知ってたわ」
「見てたら、いけなかった?」
「ここに隠れてることは内緒なの。私を見たこと、誰にもいわないでいてくれる?」
「うん、いわないよ」
 森の奥にひっそりと暮らす黒猫には、元より話す相手などいなかった。家族も友人もなく孤独なのだ。漆黒の毛並みも月と同じ色の瞳も、美しいといってよいものだったが、それを愛でるものも何処にもいない。
 それでも黒猫は、月に交換条件を出してみることにした。特に理由のあるわけではなかった。単に戯れついてみたいような気持ちだったのだ。その代わりさ、と口にする。気分を害するかと怖れもしたが、またさざ波が立って、月が笑ったことがわかった。
「その代わり、なあに?」
「ときどき、僕の話し相手になってくれないかな」
「いいわよ。私も、一人ぼっちで寂しかったから」
 黒猫は、ほっと息をつく。胸の内は予期せぬほどの喜びで満ち、自身でも不思議なくらいだった。
「じゃあ、毎晩来ても……いい、かな」
「今までだって、毎晩来てたじゃない」
「これから、ますます夜が長くなるからさ」
「そうね。構わないわよ」
「本当に」
「ええ」
「ありがとう」
「──さっき、いってたこと」
「え?」
「あなたの瞳の色。確かに私とおんなじね」
「君もそう思う?」
「思うわ。もしも私が地上の生き物だったら、あなたのような姿をしていたかもしれないわね」
「きっとそうだよ」
 黒猫が微笑むと、湖面にも細かな波が立った。静けさと穏やかさに包まれて、森の夜は更けていった。

 そうして黒猫は、夜ごと湖を訪れた。話し相手に、とはいったものの、実際には大して話などしない。これまでと同じく、ただ木の上から月の姿を眺めていることが殆どだった。
 夜はますます長くなって、緩やかなその深まりとの連奏のように月は輝きを増す。移ろう煌きをじっと見守るのが、黒猫にとっては至福のときであった。
「どうして、こんなところに隠れているの」
 ある夜、ふとそんなことを訊ねたのは、美しいものを独り占めしていることに何かしらの後ろめたさを感じたからかもしれない。月は暫く黙り込んだ。黒猫は慌てて、ごめん、と謝った。
「聞いちゃいけなかったんだね」
「……いいえ。私がここにいるのはね、罪を犯したからなの」
「罪? それって、いったいどんな」
「自分の美しさに溺れてしまったのよ。それで神様はお怒りになって、私を地上に堕とされたの」
「そんなことで? だって君くらい綺麗なら、自分で自分を美しいと思ったっておかしくないのに」
「傲慢だったのよ。私たち自然のものは、ただ在るだけのもの。美醜や善悪、その他のいろんな価値判断を自分で抱くなんて、許されないことなの」
「わからないよ。綺麗なものを綺麗だと思うことが罪なの ?  僕にはそうは思えない。神様は間違ってるんじゃないのかな」
「そんなこと、いっちゃ駄目よ。私は確かに罪を犯した。今はただここに隠れて、許されるときが来るのを待つだけなの」
 月は、それきり口を噤んだ。湖面は鏡のように平らかとなる。金色の輝きが、急に色褪せて見えた。
 黒猫は、つまらぬ質問をした自分を呪いつつ帰路についた。月のいうことにも神様の仕打ちにも納得はしかねたが、そのせいで月を独占できているのだと思うと複雑な気分になる。普段は気にならない冷え込みが、妙に身に染みる夜だった。寝床に戻っても落ち着けず、しきりに身体を舐めてばかりいた。

 翌夜は雨だった。黒猫は、また湖のほとりにいた。本来なら猫は、濡れることを好まぬ生き物だ。けれど月を見つけてからの黒猫は、雨の夜も出歩いていた。雨滴に打たれて水面で歪む月が、酷く淋しげに見えるせいである。ましてや、突然ふつりと途切れた昨日の遣り取りの後なのだ。ひときわ激しい降りの中であっても、訪ねずにはいられなかった。
 少なくなった木の葉の陰に身を寄せ、時折身体を震わせては水滴を払いながら、黒猫は月を見下ろしていた。雨足の強さは、辺りを冷たく煙らせるほどだ。月はただじっと、雨を受けている。もしも空にいたならば、雲の向こうで輝き続け、濡れたりなどしないだろうにと自分のことのように悲しくなってくる。これも傲慢さに対する罰なのか。神様はやっぱり間違ってるよ、と黒猫は小さく呟いた。
「風邪をひくわよ」
 不意に月の声が聞こえた。いつもと変わらない、柔らかな声だった。
「君だって、濡れてるだろ」
「私は平気なのよ」
「神様に許されて、空に帰りたいって思ってる?」
「……いいえ」
「どうして。ここが気に入ってるから?」
「ここは嫌いじゃないわ。でも、それだけではないの」
「他には、どんな理由があるの」
「変化には犠牲が必要なのよ。だから」
「犠牲? どういう意味」
「私にも、よくわからない。神様が、そう仰ったの」
「ふうん」
 今度は、黒猫の方が口を噤んだ。たとえどんな目に遭わされようとも、月は神様の肩を持つという気がしていた。下手に何かいえば、昨夜のように月に黙り込まれるかもしれない。黒猫には、それが何より怖ろしかった。
「今日はもう、帰った方がいいわ」
 黒猫の思考を断つように月の声が響く。
「僕がいると、邪魔?」
「そんなことはないけど、この雨は一晩中続くのよ。本当に、風邪をひいてしまうわ」
 それでも君の傍にいたいのに、と黒猫は思う。傍にいて、君が酷い目に遭ったりしないように、君の美しさが損なわれたりしないように、守ってあげたいのに。
 けれど口には出せなかった。こうして一緒に雨に濡れる以外に術を持たないのなら、きっと何をいっても無意味だ。
「寝込んだりしたら、ここに来られなくなるじゃない」
 諭すように月がいう。
「だから今日は帰って、明日また来て。待ってるから」
「わかった、帰るよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
 黒猫は振り向かず、湖を後にした。月がいったとおり、雨は一晩中降り続いた。夜は、昨夜以上に長く感じられた。待ってるから、という月の言葉だけが、僅かに黒猫の心を慰めた。
 
 翌日、まだ暗くなる前に黒猫は目覚めた。仄かに橙を含み始めた青天が、もの悲しくも眩しい。思い切り伸びをして眠気を振り払い、丁寧に身体中を舐めた後、黒猫は湖へと出かけた。
 今日は一日、よい天気だったようだ。月も、幾日かぶりに冴えた色を見せてくれるかもしれない。月が本当に自分を待っていると、心の底から信じているわけではなかった。地上に堕とされ、ひっそり過ごしているのだとしても、月はやっぱり月なのだ。自身とはかけ離れた存在であることはわかっている。
 それでももしかしたらと思う身は、愚かで哀れで──けれどもとても幸せだ。この世の何にも譬え難いその美しい姿を、一目見られると思うだけで胸が躍る。日が沈み天鵞絨幕のような濃い闇が迫る中、湖に辿り着けば、果たして月はこれまでにないほどに端麗な輝きを放っていた。
 神様は、月に嫉妬したんじゃないだろうか。唐突に浮かんだそんな考えに奇妙なくらい満足して、黒猫は木に登ろうとした。
 そのときだ。繁みの向こうから人間の声が聞えた。がさがさと草を踏み、進んでくる気配があった。黒猫は、俄かに緊張して木に駆け登る。枝に隠れて繁みを見下ろした。
「間違いない。ここだ」
「ああ。やっと見つけたぜ」
 二人の人間が小舟を引きずってやってくるのが見えた。黒猫は毛を逆立てて彼らを見た。森の奥に人間が現れるのはよくない徴だ。今まで遭遇したものたちは、皆密猟者だった。銃で生き物を殺したり、森の稀少な草花を根こそぎ採ったりしていたのだ。
 彼らは小舟を用意している。湖の生き物を狙ってきたのだろうか。けれどこの湖は、深さこそあるものの然程大きくないため、魚はあまりいない。いったい何を獲ろうというのだろうか。
「しかし、すげえ光だな」
「思った以上にでかいしな。こりゃあ、大儲けできそうだ」
「本物の月の光を詰めたランプだ。欲しがる連中は幾らでもいる。作れるだけ作って、高く売ってやろうぜ」
 湖の縁まで来た二人は、小舟を水面に押し出そうとし始めた。彼らの会話で、黒猫は全てを察した。狙いは月だ。彼らは月を捕えようとしているのだ。そうしてばらばらにして、人の世界に連れていこうとしている。
「大変だよ。逃げて」
黒猫は月に呼びかけた。
「このままじゃ、あの人間たちに囚われてしまうよ」
 月にも彼らの話は聞こえていたであろうに、身を隠そうとする気配が一向にないことに黒猫は焦れた。金の光の美しさは、寧ろ二人を誘うかのように、刻一刻と深まっているのである。
「早く」
「 …… 私は逃げないわ」
「どうして? 捕まったら、ばらばらにされてランプに詰められてしまうんだよ」
「もしそうなったとしても、それは神様がお望みになったことよ。私への罰なの」
「そんなふうにされたら、二度と空に戻れないかもしれないのに」
「そうね。だけど、人の世界で人の生活を照らすのなら、たぶん空にいるのと同じだわ」
「そんなの …… 、全然違うよ」
「あなたこそ、危ないから帰った方がいいわ。私を助けようとしては駄目。あなたまで罰を受けることになってしまうのよ」
「君がこのままあの人間たちの手に渡ることが神様の望みなら、神様は絶対に間違ってるよ。僕は君を守りたい。彼らからも、神様からも」
「駄目よ。無茶をしては駄目。ねえ、お願い ──」
 月の声を、黒猫はもはや聞いていなかった。その耳は、既に湖に漕ぎ出た人間たちの方へと向けられていた。二人も黒猫の声に疾うに気づいていて、どうしたものかと顔を見合わせていたのだ。
「あんなところに猫がいるぜ。やけに煩いな」
「これ以上喧しくされて、万が一他の連中に気づかれでもしたら面倒だ。殺しちまおうぜ」
「よし。舟を少し戻せ」
 二人のうちの片方が、懐から黒い塊を取り出した。銃に違いない、と黒猫は思った。密猟者たちが森の生き物を襲うのに使っていた黒いもの。ただ、その人間のもつそれは少し小さく、遠くからは黒猫を狙えないらしかった。
 よかった、と黒猫は安堵の息をついた。彼らが戻ってきたら、そのときが好機だ。必ず月を守る。彼らには、あの光の片鱗にすら触れさせない。神様にだって僕の邪魔はさせるものか。
 舟が木の方へと近づき、銃口が黒猫に向けられる。銃声が響く前に、黒猫は跳んでいた。自分を狙った人間の上に降りて、爪で頬を裂く。驚きと痛みのため忌々しげに叫びながら、相手は身体の均衡を崩した。
 水音に紛れて、月の悲鳴が聞こえたようだった。或いは気のせいかもしれない。小舟はあっけなく転覆し、人間たちは湖に落ちた。水は酷く冷たくて、足掻いて岸へ戻ろうとする気力を忽ち彼らから奪った。二人の沈む姿を見届けたとき、黒猫にも限界が近づいていた。
 もう身体がうまく動かなかった。吸い込まれるように、下へ下へと沈んでいく。
 これが僕に与えられた罰なんだろうか。薄れていく意識の中でぼんやり黒猫は考えた。だけど、君は本当に綺麗だ。その美しさを守るためなら、僕は罰を喰らったってちっとも構わないよ。
 黒猫が最後に見たものは、頭上の遥か彼方、まるで空にかかるかのように湖面に浮かぶ月の姿だった。

 湖の上に波紋はなかった。逆さになった小舟だけが所在なく漂う様からは、何が起きたのか推測することは難しかった。
 鏡のように澄んだ水面には、金の輝き。ただ、今やそれは天空にある姿の分身に過ぎず、人間に囚われることもなければ、森の孤独な生き物と語らうこともないのだった。
 空へと戻った月は、美しい容を遍く晒しながら黒猫の姿を探した。けれど湖の底に沈んだ小さな身体を見出だすことは、終にできなかった。<完>