見出し画像

自分探しなど、机に向かうのが一番の近道なのに

自分は自分の内側にしかいない。
外側の世界を端から端までいくら血眼になって探そうとも見つかりはしない。

故に、机に座って自分自身と対面しひたすらに問いを投げかけ、答えようとも答えれずともうんうん頭をひねらせることが自分を見つける一番の近道なのだ。
言ってしまえばそのような方法でしか、自分の内側の世界にいる本当の自分を見つけることはできない。


自分は外の世界になどいない。
ではなぜ自分探しなどと題して人は外へ自分を探しに行くのだろうか。

かくいう私も自分探しだか何だかと題して旅行をした手合いである。
私ごとでいいのならば、それは逃避だ。
自分を見つけること、もとい自分が見つかってしまうことから逃げているのだ。


自分を見つけるために、机に向かってひたすらに自分を問う。
この行為はあまりに苦痛である。
それは自分という人間一人の内面、今まで生きてきた人生の精算を行うに等しい。
今までの足跡、積み上げてきたもの積み重なったもの。最後にこの手に残っていたもの。
空っぽの器という事実をただひたすら冷淡に突き付けられているのと変わらないからだ。
そしてその苦痛を乗り越えられなければ自分は見つからない。
だから見つけようとすることから逃げる。


自分が見つかってしまえばそれまでである。
いや、実際はそんなことはないのだが、見つかるまではそうなのだ。
一度自分をはっきりと認識し、自分の本当の欲、本当の姿を認めてしまえば、逃れられない。逃れたとしてもその苦しみは今までの比ではない。
なぜなら本当の自分を裏切っているのだから。
自分が見つかっていない状態ならばそんなことはないのに。
今まで行ってきたことを今まで通りに行えなくなる。
本当の自分に反する行為すべてが人生における嘘になる。
自分という人間の定義が膠着化し、そこから脱することも変わることも難しく向き合い続けることを強制され日々問われ続ける。
嘘ではないか。
逃げてはいないか。
お前は誰だ。
そんな地獄につかまらないように、自分がいないと分かっている外の世界へ自分探しに出かけるのだ。


本当の自分を変質させるのは難しい。

しかしまだ見つかっていない本当の自分とやらに少し手を加え、現実的な方向へ誘導してしまえば、逃げた先で逃げた自分と逃げ切れる。

だが、いつまでも放置してきた本当の自分は弱く色が薄い。
常に怯え挑戦を遠ざけどうすれば現状から逃れることができるか、それが本質となる。
当たり前だ。その本質は逃げることで生まれたのだから。


早期に固まった本当の自分は強靭かつ鮮明な光を放つ。
ときにその光は自分を盲目にさせるだろう。
貪欲な本質は満足を知らず常に次を求める。
本質に振り回され、自分の声に従っているのに自分が分からなくなる。
本質の声に応えられずに折れて立ち上がれなくなる。

だが常にその本質は正しく激しく己の欲求を掻き立てる。
逃れることを許さず、忘れることを許さず
進むべき方向を示すだろう、自分自身という本質の奴隷の首輪を引いて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?