花譜と廻花 自覚する私

これは私が「怪花」を見て直後に書いた文から始まる。ま~変なことを書いているので許してほしい。
また、まとまりがない思考のままに書いたので、文の切れ目もまとまりがない書きなぐり状態である。私はもう納得を獲たのでこれ以上手を加える気はないのであしからず。


廻花が登場した時、正直身構えた。
「花譜」としてでなく「廻花」としての歌。
それは目をつむってしまえば同じ歌に聴こえるのかもしれない。もしかすればそれだけしか違わないもので、観測者として同じように今まで通りその歌を応援していけるのかもしれない。
「花譜」というバーチャルで総体としての存在よりも、「廻花」という個人単位の表現者の方が”らしさ”や”自分自身の葛藤”を表現できるだろう。
もはや、受け取った想いを歌として伝えるフェーズから、自分自身の想いを歌うフェーズへ深化したのか、それはただのイチ観測者でしかない私には分からないし、想像もすべて間違っているのかもしれない。
きっと、「花譜」であるからこそ歌が届いた私がいるように、「廻花」であるからこそ歌が届く人がいる。

廻花が歌い、想いを壇上で語ったとき、「問われている」と思った。
それは、日本のどこかにいる20歳のシンガーがそういう表現をしたくて、した。のならば私は、彼女のファンとしてその決断を尊重し、その勇気と新たな挑戦を応援するべきだ。
ここまで人気になり、注目度も高い中で「廻花」という可能性を見せるその恐怖や不安は私には計り知れない。受け入れられないのではという想いを抱えたまま、自分の内面を正直に人前にさらけ出す怖ろしさを乗り越えて彼女は、廻花はそこに立っている。
彼女が言うように、花譜も、廻花もおんなじだ。二項対立のように考えるべきものではないし、何より彼女自身がそうしたいと思っているのだ。

それはわかっている。
それでも、そこまで、理論的正当性で、自分の背筋を正さなければ私はとてもくだらないことを口にしてしまいそうだ。

私は花譜が好きだ。
私は花譜を嫌いになりたくない。私は花譜が好きで、その歌をこれからもずっと聞いていたい。私は自分に年の近い花譜というシンガーの活躍に勇気をもらっていた。俺もなにかをと励まされた。私は花譜を好きでいた時間を嫌な記憶にしたくない。
私が花譜の歌や配信を聞く中で造り上げられていた私の中の花譜像を葬り去りたくない。でも、そうでもしないと私は廻花を廻花として応援できない。廻花の歌を廻花の歌として聞くことが、好きになることができないのかもしれない。

あえて、傲慢な私の中の心情を書かせてもらう。
もしこの先、「廻花」へと中心が移っていくとしたら、その先で私は
「ああ、結局そうだったのか」
と思ってしまうのかもしれない。

きっと殻とかそういう風なものではないのだろう。抜け出したり飛び出したり、そういう枷や重荷のような言い方はきっと正しくない。正しくないことはわかっている。
だが、もし「花譜」から「廻花」が生まれることで、まるで、花譜が踏み台のようになってしまうことが、彼女の成長における蛹でしかなかったのかと、私はその絶望を味わいたくない。

その人の歌や話を聴くことで、聴いた私の中にもその人が宿る。私が花譜を知って4年以上の年月、歌や配信を聴き私の中の私自身の文脈の上の花譜が形成されている。
それは言い換えれば私が花譜から受けた影響の結晶体であり、期待そのものでもある。

どうしたって、画面のこちら側の私には花譜のオリジンは理解しえない。向こう側のあなた方が軸にしている物を知ることはできない。どうしても、ビジュアルが異なればそれは違うものという風にしか私の目には映らない。私はただひたすらその音楽性のみに惚れたような純で高尚なファンではなくて、結局その分かりやすくかわいい見た目に魅かれるしょうもない存在でしかない。

俺は成長が寂しいのか?
置いて行かれた気持ちになっている?
それとも、今まで情熱を注いできたものが静かに火を受け渡している瞬間を見ているのか?

きっとそれは、いままでVの転生や引退で嫌~気持ちになったことの多い私自身の文脈も絡んできているからこその心境ではあると思う。
Vが死ぬのは引退した時ではなく、転生した瞬間であり、それはもはや墓荒らししかなく、思い出すことも憚るようになる。なぜなら、今までの想いでも感情もすべて嘘でニセモノでしかない。そのようになってしまうから。誰かがそう言うのではなく、その者たちによって変えられるのでもなく、俺の中でその思い出や感情が変容するのだ。

嫌だー嫌だ嫌だ嫌だーー
ほんとは変わんないで欲しい
今までみたいな展開のままでリアルとは全く逆方向に突き進んで欲しいーー
そんな、なんかZ世代に人気のアーティスト!みたいな感じでテレビで紹介されそうさシルエット嫌だーー
なんか頑張って超技術で20歳らしさを感じるアバター作ってくれよぉぉ
俺をおいて遠くに行かないでくれよーー
ほんとはバーチャルヒューマンもなんか可愛くないし不気味の谷越えられてないし好きじゃないんだよーー
俺に三十路の花譜を見せてくれよーー

あゝ、理解らせてくれ。
廻花ってやっぱすげ〜
やべ〜、悔しいでも、大好き❤
って俺に言わせてくれ

もう駄目だ。何も言語化できない
ただひたすら心の中で「う”う”う”ぅぅぅぅぅぅぅぅ」と低く唸って威嚇するしかない。
そういう心境で。

一晩経って思うことは、
もうこれって理屈や正しさの問題じゃなくって、私自身の感情の問題でしかないんですよね。なのでやはり私が思うのは、さっさと私の度肝を抜いて、うだうだ言う私を虜にしちゃってくださいよ。ということでしかないんですよね。まあ、ぶっちゃけ一発目の「ターミナル」ですでにクラクラなんですけどね。

なんで俺はこんなにも感情的になっているのだろうね。俺は別に俺の意見をどうこうとか、やめてほしいとかそういうことは一切思っていなくて、ただこの気持ちを表に出したくてしょうがなくなってしまった。なんというか、この気持ちをばっさり叩ききってほしいから、表に出しているのかもしれない。

ああ、そうか。
やっと腑に落ちた。
花譜は最初から花譜で、花譜より前がなかったから、今まで花譜オリジンを強く意識することがなくて、だから、廻花に花譜を奪われてしまったように感じるのかもしれない。

幸祜やヰ世界情緒はそれ以前のオリジンの話をよく聞く。だから、今までがあって、そこから紆余曲折試行錯誤の末に今の在り方があるっていうのを知っている。例えこの先幸祜のオリジンが強く出た存在が産まれてもそれは幸祜の文脈の延長線上の存在してきっと受け入れられるだろうと思う。

花譜のゼロ章は花譜オリジンのゼロ章であったし、花譜の第1章は花譜オリジンの第1章であったと私は感じている。
逆に幸祜の第1章は幸祜オリジンにとっての第3章か4章か、そのように思う。

「花譜」はインターネットの海の中で完成した、一つの総合芸術的サムシング、もしくは存在証明の記念碑となってゆくのだろうか。
私はそこを訪ねる懐古の老人となるのだろうか。

実際がそうじゃなくても、俺の中でそう変わってしまったということだよ。

さらに一日たって、本人の言葉を読んだ。

あの歌は、あの日々は嘘ではなかった。
俺の中の花譜はニセモノでもなければ苦痛の残穢でもなかった。
ただひたすらに純粋な想いの結晶で、これからも飾っていられる綺麗なものだった。
代々木決戦の両日もライブを見返して想う。
やはり私は好きだ。

そうなれば私の中に残る思いは一つ。
もう一度繰り返そう。

廻花さん、さっさと私の度肝を抜いて、うだうだ言う私を虜にしちゃってくださいよ。
理解らせてくれ。
廻花ってやっぱすげ〜
やべ〜、悔しい。でも、大好き❤
って俺に言わせてくれ。


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