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【奇譚】赤の連還 3 赤いジャスミン

 レイラが来て十ヵ月たった。
 その年の雨期は例年にない雨量で、地中海沿岸の丘陵地帯は、目に見えて緑色に変わっていった。用足しのため、たまに国道一号線から海岸に抜ける県道に逸れると、峠一面に群生する野生のシクラメンを、見ることができた。
 レイラは毎日、小さな体をこまネズミのように動かし、週のうち午後にクラスのない三日間は、夕方まで働いた。
 サハラ南部の通信基地建設工事は、とりわけ雨期に忙しい。進行管理の一部を担当する連絡事務所も、当然、出入りがはげしくなる。帰宅も遅くなることが多くなった。レイラは、いつのまにか見よう見まねで米の炊き方も覚え、帰りが遅くなるときには、頼みもしない夕食の用意までしてあることも、あった。
 そんなとき、オレを迎えるレイラの顔は、誇らしげで、得意そのものだった。
 実際、オレにしても、レイラの存在になんの不満も感じてはいなかった。
 たしかに明るい性格ではなかった。いつも疑わしい目つきで他人を見る。その視線にあうと、分けもなく自分が理不尽な加害者のように思えてくる。だが、部屋はいつも清潔でピカピカ、どんなに散らかしても、レイラさえいれば、すべてが見事に整った。なによりも、年端もいかない一人の小女が一心に自分の世話をやく、そのことが、無類に得がたいことに思われた。
 一方、小女の方も、オレへの好奇心に、抗えなくなっていた。
 実際、ある日、現場巡回の日程調整で早退帰宅したオレを見るなり、憑かれたように質問してきた。

「歳はいくつ? 家は東京? 結婚は? 子供は何人?…」

 よほど思いきった行為だったのだろう、モップの柄に両手をあずけ、目を輝かせてオレを見上げる様子は、床拭きのことなど、まるで忘れてしまったかのようだった。

「結婚はまだ」

と、オレは答えた。
「海外、特にアフリカでも僻地の生活が長かったから、結婚は縁遠くて、まだひとりものさ」
 レイラは心をこめて、

「それは残念だよ」

といった。そして、

「どうして結婚しないの? トシはいくつなの? 相手はいないの?」

と、やつぎばやに質問をあびせてきた。
 オレは着替えをしたり、茶を入れたり、タバコを吸ったりしながら、逐一、それに答えざるをえなかった。

「いままで何度かチャンスはあったさ、だが、聞きなれない赴任地の名を聞いただけで、みな二の足を踏むらしいんだ、ムリもないさ、伝染病、風土病、戦争、内乱、暗殺、暴動、強盗、テロ…そんなところばかりだから、だれが来てくれる、でなくても世の中、危険と不安で一杯だろ、いやがる相手をムリに引っぱってくるわけにも、いかないじゃないか」

 レイラは、とても納得したように首を縦にふり、

「ひとりでさみしくない?」

と聞いた。オレは、

「当然、さみしいさ」

と答えた。

「だから何度もトライしたさ、けれど、みな失敗だった、会社をやめようとも考えたが、踏切れなかった、結婚と仕事を天秤にかけること自体、変なことだし、必ずチャンスはあるとおもっていたからね、運というものがあって、それを信じていたのさ」
「それで?」
「でも、とうとうチャンスはこなかったな、見放されたのさ、幸運の女神からね、そのうち、あきらめた方がいいと思うようになった、どだいムリな話さ、いまどき、こんな僻地に我慢できる女なんか、いるはずがないよ、いればかえっておかしいくらいだ、よっぽどの変わり者か、分けありに決まっているさ、そんなのを引きうけるのも、かえって面倒じゃないか、死ぬならひとりであっさり死ぬ、その方が安上がりで、あとくされもないしね…」
「それはウソだよ!」

いきなりレイラが反論してきた。

「あたいのトウさんは、あたいが生まれたトシ、暴動でツミもないのに、憲兵隊に殺されたんだよ」

 真剣な眼差しだった。

「カアさんも三年まえの暴動で、だれかになぐられて死んだよ、だからバアちゃんとふたり暮らし、とてもさみしいよ、オヤが生きていたら、どんなにいいかって、いつもおもうよ、死ぬなんて、とても悲しいことだよ、死んではだめだよ」

 小女は、まっすぐにオレの目を見つめ、くりかえし訴える。その真剣な眼差しの前で、オレは、自分のもったいぶった軽さに、冷汗をかいた。
 こんなに幼い小女の目が、四倍も歳上のオレが見たこともないどれだけの不幸や悲劇を、すでに目撃してきたのだろうか。

「オマエの言うとおりだ」

 オレは小女の目を見つめかえして、いった。

「さみしい生活だからこそ、自分を支える利己的でかたくなな心意気が必要だし、臆病で満たされない生活だからこそ、手の込んだ複雑な生き方が、大切になってくるのさ」

 納得したのかしなかったのか、われに返った風のレイラは、モップをバケツの中でぎゅうぎゅう絞りながら、いった。

「アルジェは大きいよ、だから大丈夫だよ、なんでもあるし、だれでも住める、だから、すぐに、だれか、見つかるよ、安心していいよ」

 オレは、妙に、嬉しくなった。

「慰めてくれるのかい、礼をいうよ」

 いいながら、ポケットから十ディナール札を一枚とりだし、小女に差しだした。

「サッハ!」

 レイラは、濡れた両手を服の裾でひと拭き、一輪挿しから赤いジャスミンの花を一輪とりあげると、それを耳に挟み、紙幣を握った手を腰骨に預け、もう一方は、掌を頬にかざしてみせながら、軽やかに腰を振り、小刻みに腹を突き上げ、嬉々として叫んだ。

「あたい、踊る!」

 とたんに、両足が跳ねだした。裸足が交互に床をけり、踵を跳ねあげ、着地したかとおもえば、また床を蹴る。速いリズムだ。腰が回る、腹が揺れる、腹も腰も胸も、見事に、連動しているのだ。

「まるで、いっぱしの踊り子、だな…」

  現に、素人離れの連動が、見る目を執拗に、扇情するのだ。息がつまり、肢体から目を逸らすと、そこに、あどけないはずの小女の面があった。そして、そこから、奇妙に大人びた、妖艶ともとれる流し目が、赤いジャスミンの花弁を映して、じっと、こちらに向けられているのを、感じたのだった。
 気がつけば、近所界隈のラジカセか、結婚披露の楽団か、どこかでライ、ベドウインがルーツでアルジェリア西部、オラン起源の流行っている歌が流れていた。速いテンポの打楽器が、緩急自在に連打され、金切り声の縦笛と、思いのままに錯綜する。その緊迫感を背景に、高音多感な男声が、弦楽打音に煽られて、殉教最期の生贄の、血の断末魔さながらに、ベルベルの哀歌を謳いあげていた。
 
荒地に花が咲いている、
まっ赤な花が咲いている、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの花、赤い花、
レイラは月か、月がレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは崖から身をなげた、
 
昔も花が咲いていた、
まっ赤な花が咲いていた、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの針、尖った先、
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは崖から月を見た、
 
いま、サッバールは生き返る、
不屈の垣根が蘇る、
枯れた土、硬い石、
雨の恵みに見放され、
サソリも住みはしないのに、
ヘビさえ見向きもしないのに、
ほら、あそこにも、こちらにも、
その向こうにも、あそこにも、
サッバールの垣根、不屈の城、
レイラか月か、月かレイラか、
血塗られし殉教の真っ只中、
これからというときに、
レイラは月からぼくを見る…
 
 ライは、激しく速い、規則正しいリズムを刻み、覇者の虐待をはねのけて不屈に生きるベルベルの心を、レイラ(月)に託して綿々と謳いあげた。一方、ライと合体したかにみえる踊る小女は、

「レイラか月か、月かレイラか」

と、緊迫感が加速度的にせり上がるルフランのたびに、

「あたいよ、あたいだよ!」

と、これ見よがしに腰を振り、腹を突きあげ、踊り続けた。オレは、そのはち切れんばかりの嬉しさに、ひとり身の寂しさと日常の惰性で萎縮しきった自分の心が、徐々にほぐれ、緊張を解き、暖められ、熱せられて、やがて熱い昂ぶり向かって少しずつ、せり上がっていくのを、感じていたのだった。
 そんなことがあってから、小女を見るオレの目が、徐々に変わりはじめた。

「彼女は単に未熟で貧乏で、無教育なだけの小女ではない…」

 猜疑と警戒の向こうで、どれだけ熱い思いを、たぎらせていることか。なにより、レイラの不幸な境遇からくる、単純明快な重さが、とても新鮮だった。いわば惰性だけで日常をすごしてきたオレの生活に比べ、小女ははるかに劇的で果敢な生を営んでいる。虚無的で、複雑な軽さを享受してきたオレの生活など、まるで、見かけ倒しのだまし絵そのものではないか…。  

 レイラが来て一年近くたったころ、オレは木曜日がくるのを待ち望むようになっていた。毎週木曜日は、レイラをつれてスーク、市場、に行く日だった。
 スークは、海を見下ろす広い高台の一角にあった。
 主要な漁港に近いこともあって、新鮮な魚がいつも豊富にあった。色とりどりの野菜があった。肉もあり、穀物、雑貨、乳製品、山と積まれた香料、その他もろもろの加工品も、ふんだんにあった。そこに行きさえすれば、酒類と豚肉以外、必要なものはなんでもそろった。
 中央に設けられたブロック造りの建屋で商いする、ごく一部の店舗のほかに、木皮を剥いだ雑木を器用に組みあげ、そろわない板をならべた屋根に雨よけの青いビニールをかぶせただけの粗末な屋台が、ぬかるんだ広場に所狭しと並んでいた。
 レイラとオレは、特に魚屋で人気者だった。
 魚屋は、日本人客がお気に入りだった。高価なエビやカニ、タイ、マグロ、カツオ、ルージェ、イカやタコ、なんでも言い値で、何キロも買っていく。オレもその客の一人だった。
 だが、レイラとスークに行くようになって、事態は一変した。
 レイラは最初から、買うものすべてを値切って歩いた。日ごろ、無口で黙々と働く姿しか目にしていなかったオレは、その積極的で快活な様子に、ただ目を丸くするばかりだった。
 野菜や果物を値切るのは、比較的、簡単だった。だが、サカナはむつかしかった。特に雨期には海が荒れる。その日の漁獲量で、値が大きく上下するのだ。レイラは、しかし、どんなに高いときでも、ねばりづよく売人たちとかけあい、険悪な言い争いにもならず、和気合々と欲しいものを、安く手に入れた。
 最初、娘のような歳のレイラのそばで、無能な雇い主の役を演じるバツのわるさに閉口していたオレも、そのうち、魚屋の亭主と渡り合うレイラを見るのが、楽しみになった。
 つきでた口をもっとつきだし、いっぱしの女将よろしく、左手は腰に、右手は頭上たかだかとふりあげ、肩をしゃくり、つまさき立って、声をはりあげたかとおもうと手を口に思案顔、ときには目を丸々させて驚いてみせ、マユをよせては気に入らない風をよそおい、それはもう生き生きとした、得意満面のレイラだった。
 レイラは、むらがる雑役夫たちから、いつもきまった少年を一人、荷物持ちに選んだ。
 ホッシンという、粗末な青い労務服を着た貧相なその少年は、一週間分の食料をつめ込んだ重い大きなカゴを両手に下げ、極端に短い右足を引きずり、間の抜けた調子でヒョコヒョコと、レイラの後について歩いた。背が高く、やせているだけに、その姿は見ているだけで痛々しかった。だが彼は、雨に濡れながら歯を食いしばり、平気な顔をよそおって、忠実にレイラに従った。
 その日もホッシンを雇った。しかし、レイラと少年との間に、ちょっとした悶着が起きた。彼が、いつもより高い料金を要求してきたのだ。
 アラブ語ができないオレにはよく分からなかったが、奇妙に混じるフランス語をひろって推測すると、父親が刑務所から出てきたのに病気で寝たきりだからカネがいる、というのがその理由らしかった。
 レイラは強く抗議した。

「アンタはおなじ学校で顔みしりだし、足もわるいから、同情して三ヶ月もまえから雇っているのに、それがなによ、ひとの好意を逆手にとって、ひどいじゃないか、カネを払うのは、このダンナ様だよ、こんなにすぐ値上げされたら、あたいの信用、まるつぶれだよ、まさかアンタは、あたいの雇い主があたいのことを信用しなくなる方がいいと、思っているんじゃないだろうね!」

 少年は、父親の病気をタテに反論を続けた。だが、レイラはガンとして応じなかった。無理と悟った少年は、態度を一変、口から泡をとばしてオレのことを罵りだした。

「なにガダンナ様だい、なにがエンジニアだい、札束きって、いばり散らして、オレたちの宝を盗みにきた、ただの、スケベーオヤジじゃ、ねーか!」

 とたんにレイラが、眉間に青筋を立て、怒鳴りだした。

「あたいのダンナ様の悪口をいうな! アンタのトウさんは罪人で脳ナシだ! だからアンタは、捨てられたんだ、アンタなんか二度と雇ってやらない、もう、お終いよ、アンタにやるカネなんか、どこにもないよ!」

 オレは、見かねて止めに入った。
 年端もいかない子どもが二人、金銭がもとで口汚く罵り合う。見るにたえない光景だった。オレは、ポケットから十ディナール札を一枚とりだすと、レイラにかまわず少年の手に握らせた。少年は、それをわしづかみにするや、

「サッハ!」

と、礼をいった。そして、敏捷に態度を変えると、

「ほら、見ろ、レイラ、気前のいい外国人は、オレ、大好きなんだよな!」

と、こびた笑いで世辞をいった。
 レイラは、真一文字の口をゆるめようともせず、少年をにらみつけていたが、クルリと向きを変えてオレに抗議の一瞥をくれると、そのままスタスタと、行ってしまった。
 つぎの日、レイラは仕事にこなかった。

「オレの態度に腹を立てたか…」

 少し心配になった。金曜で仕事をする日ではなかったが、働けば収入になる。レイラは何ヶ月も前から、金曜日にも仕事にきていた。
 住居は雑事にこと欠かなかった。革命戦争中に、大家がフランス人から略奪まがいのテで手に入れたという、旧植民地時代の分厚い石造りの建物は、老朽の極みにあった。いくら修理しても、トイレや浴室の水漏れはなおらず、たえず床拭きが必要だった。湿気で壁の塗料はいつだって剥がれ落ちる。ネズミは出没するしゴキブリは止めどなく顔を出し、サハラで砂嵐の季節ともなれば、拭いても、拭いても、数分後には赤い砂塵が大理石の床を覆いつくした。だから、金曜日も仕事をしたいとレイラがいったとき、オレにことわる理由は、どこにもなかった。
 というより、毎日でもレイラに来てもらいたい気持ちが、そのときすでに、オレの中にあったのかもしれない。
 結局、その日、レイラは来なかった。オレは満たされない気持で、一日をすごした。

 翌日の土曜日、週はじめの朝、いつもより早く、レイラはやってきた。

 ドンドンとドアが鳴る。開けると、レイラが息急き切って、とびこんできた。ろくに眠っていないのか、目の周りに隈ができている。服と同じ白地にあざやかな花柄のスカーフで髪を覆ったレイラは、急に大人びて見えた。
 レイラはオレを見るなり、半泣きの顔でいった。

「バアちゃんがたおれた、急だったので、連絡できなかったよ、無断で仕事、休んだりして、許してよ…」

 両手を広げ、警戒を解き、潤んだ目でオレを見上げる。
 起き抜けに、いたいけない小女から泣き顔で哀願されたオレは、思わずレイラの手をとって抱き寄せ、両の頬にキスし、

「なにもあやまることはない」

となだめ、老婆の様態をことこまかに聞き、

「自分ひとりで対処するのはさぞ大変だったろう」

と、何度もその勇気を讃えてやった。
 手の中の、いくぶん、肉の厚みを増しはじめたレイラの手が徐々に温かくなり、熱をおび、やがて自分からにぎり返してきた。青かった頬にいつもの赤みがよみがえり、こわばった表情が和らいでいった。

「仕事のことは心配ないよ」

 両肩に手をかけて勇気づけてやると、いつもの元気をとりもどしたのか、少女は軽快な足取りで、厨房の方にかけていった。
 一時、小女が乱したわずかな空気の流れが、鼻孔を刺激した。そしてそのとき、小女の周りにいつもクミンの香が漂っていたことに、オレは初めて気がついたのだった。 
 老婆は病から回復することなく、一週間後、羊祭りの三日前に、入院先のムスターファ病院で死んだ。翌日、大家とレイラ、それにオレを交えた三人で遺体をひきとり、空港近くの墓地に埋葬した。遠巻きの数少ない弔問客の中に、スークの少年もまじっていたが、別に気にも留めなかった。死と隣合せで生きてきた人々に、身内の死も他人の死も、等しく同胞の死、だれであれ深い弔意で弔うのが常なのだろうと、そのころのオレは、考えていたのだ。
 レイラは健気な小女だった。
 身内が死んだ悲しみは大きかったが、それに懸命に耐え、仕事は一日も休まなかった。

「死ねば土に帰る、悲しむことでない」

 生前ことあるごとに、老婆が口にしていた言葉をくりかえしては、自分を励ました。
 老婆の死を境に、オレとレイラの間は、急速に近づいていった。
 オレは、小女の保護者としての立場を、自覚しはじめた。
 身寄りをなくしたレイラを保護するのは、当然、雇い主の自分だ。これもなにかの縁、いずれ住込みで働けるようにしてやればよい。生活の保証と安全の確保には、それが一番の解決策だろう。
 レイラに話すと、彼女は目を潤ませて喜んだ。オレは嬉しくなり、

「いっそオレの養女にならないか」

と提案した。

「どうせオレはひとり身、天から子どもが降ってきたと思えば、果報者じゃないか」

 レイラは、小さな口で、ありったけの感謝の言葉をならべたてた。そのあとで、

「でも、いますぐ、家から出ることは、できないよ」

と、残念そうにつけ加えることも、忘れなかった。

「家を空けたらおわりだよ、知らない人が勝手に住みついて、しまいにはとられてしまう、バアちゃんをなくしたうえに家までとられたら、あたいにはなにも残らない、だから、いままでどおり、通いの女中で働きたいよ」
「なるほど、オマエのいうとおりだ」

 オレに無理強いする根拠はどこにもなかった。
 なかば思い付き、なかば同情がらみで口にしたこの「養女」という言葉は、その後、オレの中で徐々に重みを増していった。

 事務所の登記で世話になった弁護士に相談してみた。

「養子縁組は可能ですが、まず養父がイスラム教徒であること、が先決ですね」

 憎しみ、侮り、蔑みを超え、慈愛に満ちたイスラムの血を、末代まで絶やさないためだという。
 今に始まったことではないが、相変わらず大仰な能書きを垂れる。 
 要は、レイラを養女にするには、オレがイスラム教徒になる必要がある、それにはまず、割礼に代表されるイスラム固有の儀式を経なければならない、ということだ。
 ひとまず考えることにした。
 オレは無神論者だから改宗の必要もない。陰茎の包皮を環状に切りとることも、簡単な小外科手術、大した問題ではない。ただ、偏見の愚を省みずにいえば、神の威光と戒律で人をしばり、他人の事情に頓着せず、自分がよかれと断じる理想の実現に力を行使する政教一致のやり方が、気に食わなかった。だから、即座に入信を決意する気にはなれなかった。

 一方、レイラは、オレの示した好意に応えようと、ますますこまめに働くようになった。動きもキビキビとたくましく、成長期で手脚も長くなり、床をふく腰付きも安定してきた。
 心なしか、顔つきも変わってきた。
 鼻の線が鋭くなった。反面、頬や顎、切れ長の目にいくぶん丸みが出て、少し女らしくなった。ただその中の、黒水晶のような瞳に目を移すとき、奥に潜むかたくなな意志がにわかに顔をのぞかせ、猜疑や警戒の心と微妙に干渉しつつ、栗色の長いまつげを通して、じっとこちらを窺っていることに、気づかされるのだった。
 オレは毎朝、その射抜くような視線をくぐって、熱くほてった両のホオに、保護者としてのキスを送った。
 その毎朝の儀式が、やがてもどかしく感じられるようになったのは、いつのころからだったろうか。
 実際、両手の中のレイラを、そのままギュと抱きしめてやりたい衝動にかられるのも、昨日今日の話ではなくなっていたのだ。にもかかわらずオレは、自分の行為が、あくまでも保護者としての、養父としての愛情の発露だと、心の中で思い続けていたのだった。

                        ◇

 

 雨期も終わって乾期の盛り、サハラで砂嵐の吹く八月のある日、うだる熱さに辟易しながら、中央郵便局に行った。

 紺碧の海に張り出した、コンクリート製の建屋に、秘書箱室がある。そこで郵便物を回収したあと、局の前の小さな本屋に、たちよった。

 革命後、旧宗主国を初めとする列強の影響を最小限に食い止めようと、海外との交易は極限まで制限されていた。そんな中で、欧州の新聞や雑誌が、ほぼ一週間おくれで、ごく限られた分野ながら手に入る、貴重で数少ない本屋の一つだった。オレは、先日スタートが切られたばかりのツール・ド・フランスの、第一報を知りたかった。

 あいにく、ニュースはまだ届いていなかった。その代わり、変わった本を一冊、見つけることになった。

 新学期用の教科書や、ノート類の間に挟んでおかれた葉書二枚大のその本は、マグレブ一円の寓話を集めたものだった。

 赤い表紙に、ターバンを巻き、ガンドゥーラ、足首まである長袖の男ものの上着、に身を包んだ男たちが十数人、フクロウが見下ろす立木の下で、火を焚きながら団欒する情景が、軽いタッチの線画で描かれていた。場所は多分、カビリー地方の山中だろう。見開きを見ると、国際フランス語協会発行とある。パラパラと目を通したオレは、話の展開に合わせた線画の素朴さが気に入り、ふとレイラのことを考えて一冊、買うことにした。

 湯の中を歩くような熱気をくぐり、いつもより早めに帰宅した。こういう日には、古くても涼がとれる、分厚い石造りの建物が、恋しくなる。

 鉄扉を押し開けて庭に入ると、生け垣の赤いジャスミンが、ムッとにおった。これだけ暑いと、せっかくの芳香も、胸のむかつく不快なにおいにすぎない。

 だが、オレはその日、もっとむかつく体験をしなければならなかった。

 カスバを真下に見下ろす庭の中央に、レモンの木が一本、四月末以降、一滴の雨も降らないというのに、ひとり青々と繁っていた。

 三段の大理石の階段をのぼり、白い壁に穿たれたアーチ形の大きなドアを開けて中に入ろうとしたとき、レモンの木がユサユサと揺れるのに、気がついた。別に変とも思わなかったが、揺れ方が異様に大きいので、はてと立ち止まった。

「レイラがレモンの実でもとっているのか?」

 それにしては動きが激しすぎる。

 しばらく様子を見ていると、レイラがスークで荷物持ちに使う、老婆の弔問にも来ていたあのホッシンとかいう足の悪い少年が、悠然とした様子で繁葉の間から降りてきた。青い労務服の両のポケットが、大きく膨らんでいる。たっぷり果実をとったのだ。

 少年は、鬼の首でもとったように得意満面だったが、オレの存在に気づくや、こちらが驚くほどギョッとして、その場に立ちすくんだ。横柄な館の主が、たちまち怯えた使用人に一変したのだ。一瞬の間をおいて素早く半身にかまえた彼は、汚れた節だらけの両手を、オレの前に突きだした。

「なにも盗んでない、なにもとってない!」

 空の手をバタバタ振り、これ見よがしに叫ぶ。

 日ごろから、近所の悪童どものいたずらに辟易していたオレは、おもわずカッとなった。見たくないものを、無理に見せつけられた気がした。少年の、貧相で俗悪で、それでいて横柄で生意気な様が、たまらなく不快になった。

 オレは反射的に少年を怒鳴りつけた。

「オマエはだれだ、これはだれの木だ、だれが採れといった、だれが採ってよいと許可した、オマエは盗人だ、悪いヤツだ、つかまえて手首をもぎとってやる!…」

 恐れをなした少年は、つめよるオレに手の平を指し示し、

「盗んでない、見ろ、盗んでない!」

と後ずさりする。相手の同情心につけ込む媚びた表情が、憎らしい。オレは、有無をいわさず木の幹に追いつめると、少年の襟首をつかんで叫んだ。

「この盗人め、カスバの屋根に放り投げてやる!」

 少年は、しかし、意外なすばしこさでオレの手からすり抜けると、辺りかまわず大声でわめきちらし、庭中を走って逃げまわった。

 けたたましいアラブ語が、庭の敷石や壁に当たってはね返る。労務服をダブつかせ、こわれた脱穀機のようなリズムで足をひきずり、少年は逃げる。その様は醜悪で汚らしく、滑稽で間が抜けていた。人をからかっているようにさえ、みえた。そのことが、ますますオレを、逆上させた。だから、少年が物干し用のロープに足をとられ、地面に顔面を打ちつけて倒れたとき、もしそこにレイラが止めに入らなければ、オレは少年の首筋をつかんで、真下に連なるカスバの屋根めがけて、本当に放り投げていたかもしれない。

 レイラが厨房からとび出してきた。

 来るが早いか、オレに体当たりで飛びついた。

「やめてよ! 頼んだのはこのあたいだよ、おねがい、やめてくれよ!」

 喉を引き裂かんばかりの哀願だった。しかし、この小女の介入は、オレの昂ぶった気持ちを静めるどころか、逆に煽る結果になった。

「なんだと、主人はこのオレだ、女中のオマエのどこに、オレのレモンをとる権利があるんだ!」

 怒鳴りながらオレは、蒼白の小女を突き飛ばした。

 空をかいて尻餅を突いたレイラは、ゴムマリのようにはね返ると、体中をブルブル震わせて、オレにくらいついた。

「ちがうよ! ダンナ様のために、冷蔵庫で冷やすつもりだったよ、ぬすむためじゃないよ、ホッシンを放してやってよ!」

 ポロポロと大粒の涙で訴える。少年は、首に青筋をたて、ゲーゲー咳き込み、掴んだオレの手にツメを突き立て、懸命にもがいていた。

 そのときの不思議な気分は、いまでも忘れない。

 実際、オレは、昂ぶる気持ちと苛立たしい焦燥感の中で、ツメが引き裂く手の痛みをこらえながら、とるに足りない二つの命を手中に収めた嗜虐的な喜びに、浸りきっていたのだ。またそうする自分を、まるで赤の他人のような冷静さで、もう一人の自分が見ていることにも、気がついていた。しかもそのことを、ごく当たり前で、周知の事実のように、なんの疑問もなく、オレは受け入れていたのだ。

 このレモン事件以来、脱ぎかけた猜疑と警戒のベールをもう一度かぶりなおしたレイラは、また当初の、無口で陰気な小女に、戻ってしまった。
 オレがあれほど逆上したことに、理由がなかったわけではない。
 三年前に住居を定めて以来、カスバの悪童どもとの抗争は、日々なおくりかえされていたからだ。

 オレの住居は、フランス領時代に建てられた贅沢な石造りの平屋の一軒家で、カスバを真下に見下ろす高台にあった。眼下には、白い壁と赤土色の屋根が交錯して連なる、緻密な積石細工のようなカスバが四方に広がり、様々な船舶が滞船する港湾埠頭まで、急な傾斜を一気に下っていくのが一望できた。夜ともなればベランダから、満点の星空をそっくりそのまま地上に映し出したような、きらびやかな夜景を観ることもできた。門を出て路地を右に上がれば国道一号線、左に下ればカスバに降りる階段の真上に出る。悪童どもは、毎日その階段を登ってきては悪戯三昧をくりかえし、飽きると、またその階段を下って帰っていった。
 彼らの興味は悪戯自体にあるのではなく、悪戯された相手が困り果て、腹を立て、辺りかまわず怒鳴りちらし、右往左往するのを眺めてはちょっかいを出し、思う存分からかう喜びを仲間と分かちあって楽しむことにあった。
この点で最も劇的だったのは、オレの自家用車にまつわる悪童どもとの抗争だった。
 赴任時に、車の盗難が多いと聞かされていたオレは、路上に駐車するしかない自分の車に、さっそく盗難防止用のサイレンをとり付けた。泥棒が手を触れるとサイレンが鳴る。夜中の盗難を想定した装置だった。一、二度はやられるかもしれないが、無駄と分かれば相手もあきらめるだろう。オレはひとまず安心した。
 それがヤツらの恰好の遊び道具になった。
 最初、深夜になり響くけたたましいサイレンにとび起きたオレは、パジャマ姿で外にかけ出した。暗闇の中をバタバタとかけていく複数の足音がある。

「ざまあ見ろ、盗人どもめ!」

 罵声を浴びせながらオレは、装置の確かな効用を目の当たりにして、安心した。
 ベッドに戻ってうとうとしかけたとき、またサイレンが鳴った。外にかけ出ると、やはり複数の足音が闇の中をかけてゆく。同じ連中ではないらしい。

「ざまあみやがれ!」

 オレはまた装置をリセットし、これでもう大丈夫と、安心してベッドに戻った。
 ところが小一時間もすると、またサイレンが鳴った。飛び出すと、同じように複数の足音が逃げてゆく。そこに至ってオレは、それがいつもの悪童どもの悪戯だったことに、初めて気がついたのだった。
 期するものがあったオレは、装置をリセットしてから寝室には戻らず、路地に面した食堂で外の気配を窺った。

「今度きてみろ、捕まえて、ぶん殴ってやる!」

 固い決意を胸に、オレは赤ワインの栓を抜き、時がくるのを待った。
 この時間にだれが聞くのか、遠くでライが流れている。まるで苛つくオレの気分をなだめてくれているようだ。踵と指先で拍子をとりながら、オレは待った。だが、待てばなかなかやってこない。とっくに夜中の一時を回っている。酔うほどに襲ってくる睡魔と闘いつつ、じりじりしてオレは待った。
 うとうととしかけたとき、突然サイレンが鳴った。闇を貫く異様な音だった。

「しまった!…」

 あわててとび出したが、時すでに遅し、遠のいていく足音だけが暗い路地に響く。敵もさるもの、こちらの出方を読んでいたのだ。怒りで体中が熱くなった。
 こうして、その夜の抗争は朝の四時まで続いた。心身ともに疲れ果てたオレは、ついに装置の導線を引き抜くことに決めた。安心して眠るにはそれ以外にない。

「車なんか、どうでもいい」

 タクシーを雇えば済むことだ。
 ただ、それであきらめたわけではなかった。

「そもそも触っただけで鳴りだす設計がおかしい」

 触る者すべて必ずしも泥棒にあらず、だ。
 メーカーに問い合わせ、少し割高になるが、ドアがこじ開けられたときに鳴りだすサイレンがあることを、知った。
 すぐにとり寄せ、装着した。
 だが、結果は同じことだった。悪童どもにすれば、ドアを開ければよいだけのこと。ロックを外すことなど、彼らには造作もない遊びの一つなのだ。
 オレは腹を決め、ついに盗難防止装置を全部、とり外すことにした。これでもう夜中に起こされなくて済む。盗まれることを恐れるより、眠ることを考えるべきだ。
 ところが今度は、起きてからが大変になった。
 朝、車に乗ろうとすると、ドアが開かない。キーが鍵穴に入らないのだ。変だとおもってよく見ると、鍵穴に木屑がしっかりと詰まっている。

「やったな…」

 よほど念入りに詰めこんだのか、穿りだそうとしてもできない。四苦八苦するオレを遠巻きにして悪童どもは、ニヤニヤしながら眺めている。千枚通しや針金でやっととり出すと、ちぎれたマッチ棒だった。

「だれだ、こんな悪質ないたずらをするヤツは!」

 オレはカッとなって怒鳴った。 

「カスバの屋根に叩きつけてやるぞ!」

 相手はどこ吹く風の平気の平座、互いに顔を見合せ、意味ありげに目配せしながら、

「なにも知らないよ」

と嘯いてみせる。憎らしい限りだ。どうにかしてやりたいが、手だてがない。やり場のない怒りに、歯がキリキリと鳴る。油汗が流れる…。
 それから毎朝、味をしめた悪童どもとの悪戦苦闘が、始まった。
 詰め込まれる材料も、マッチ棒から針金、土、砂、プラスチックと、日を追って進化した。復旧道具も千枚通し、針金、ハサミ、キリ、電気掃除機と変遷、ついにはバーナーまで持ち出す羽目になった。
 悪童どもは炎天下、汗だくでドアの鍵穴相手に苦闘するオレを、ニヤニヤしながら鑑賞する。怒鳴れば、それだけ乗ってくる。処置なしだ。時にはペンチやニッパーなどをこれ見よがしに振り振り、

「ホラ、こっちの方が使いよいよ」

などと、人を愚弄したアドバイスをよこしては、仲間同士で顔を見合わせ、ヘラヘラと笑う。

「クソッ…」

 屈辱と侮蔑の汗で体中をベットリ濡らしてオレは、黙々と鍵穴を掘り続ける…。
 この種のいたずら以外に、レモンやビワ、アロエ、その他、庭の果実を盗む罪のない悪戯もあった。それらが、日々の生活を、ひたひたと浸食していた。堪忍袋の尾はとっくに切れかかっていた。いつ爆発してもおかしくない状態に、あったのだ。
 それが不幸にして、まったく関係ないホッシンが、たまたま一身に引き受けることになったのだった。
 オレは少なからず後悔した。
 ホッシンはどうでもいい。ここでなければ、どうせどこかで殴られているだろう。

「だが、レイラは違う」

 なにも彼女まで怒鳴ることはなかった。突き飛ばすことはなかった。開きかけていた小女の心が、またかたくなに閉じてしまった。もとに戻るのに、どれだけの時間が要ることだろう…。
 いつか養女の話したとき、レイラは本心から喜んだ。それを思い出すにつけ、後悔はますます大きくなった。
 こうなれば、できるだけ早く養子縁組する以外にない。信用を回復するにはそれが最良の方法だ。割礼する覚悟はできている。

「政教一致が理念上頷けない」

などと言っている場合ではないではないか…。
 また雨期になり、枯れ草色の丘陵が、日に日に豊潤な緑に色づきはじめた。レイラが来てから二度目の雨期だった。
 熱風の吹く日に偶然手に入れた赤いマグレブ寓話集は、だれに読まれることもなく、居間の応接机の上に放置されていた。いくら忙しいといっても、目を通すくらいの時間はあったが、レモン事件の苦い体験をおもいだすのが不愉快で、読むのを意識的に避けていた。
 かといって、書斎の本棚にしまっておく気にもなれなかった。一度しまうと、買ったことすら忘れ、二度と手にとることはないだろう。だから寓話集は、応接机の上の、かろうじて人の目の端に触れるところに、いつも虚しく、置かれたままになっていた。
 クリスマスも近づいたある日のことだった。
 レイラが炊いたメシに仔羊のワイン漬けで夕食をすませ、いつものように応接用のソファーにゴロリと横になったとき、ふと、寓話集がなくなっていることに気がついた。

「?…」

 机の下やソファーのクッションの間、いろいろ探してみたが、どこにも見当たらなかった。
 明くる日レイラに聞いた。

「知らない」

という。変だと思ったが、たいしたことでもないので、そのまま忘れてしまった。
 ところが二、三日して帰宅すると、似たような本が一冊、机に置いてある。手にとると、紛れもなく、あの赤いマグレブ寓話集だった。パラパラとめくると、気のせいか、紙の締り具合に心なしかゆるみが出ていた。
 翌朝、レイラに本を見つけたことを話すと、

「ソファーの下に落ちていたので、机の上にもどしておいたよ」

という。

「妙だな…」

 あの日、オレは机の下も探したのだ。だが見つからなかった。それをレイラは見つけたという。ウソやごまかしをいうほど重要なことでもないが、合点がいかないことに変わりはない。

「多分、オレの探し方が足りなかったのだろう…」

 そのとき、ふと、ある考えをおもいついた。

「この本をクリスマスの贈り物にしよう」

 イスラム教徒には関係ないが、そこは気持ちだ。固くなった小女の心も、それで少しは和らいでくれるかもしれない。
 レイラに話すと、少し上気した様子で、こういった。

「もらってもよく読めないよ、でもなにが書いてあるかとても知りたい、だから、ダンナ様が読んできかせてくれるのが、一番いいよ」

 おもいがけない小女の反応に、オレは喜んだ。あのレモン事件以来、レイラが見せた初めての生の反応だった。オレは二つ返事で承諾した。

 翌日から、二人の生活はがらりと変わった。
 オレはできるだけ早く帰宅した。

「どうせ自分ひとりの事務所だ、時間の都合はどうにでもつけられる…」

 家に帰るとレイラが待っていた。
 簡単に洗顔し、普段着に着替え、メシとサラダの準備を終えた彼女を居間に呼び、ソファーに座らせる。となりに自分も座り、おもむろにマグレブ寓話集をとりあげ、ゆっくりと読みはじめる。小女は無心な目をオレにむけ、じっと聞き入る。やがて一つの話が終わるころ、ちょうど夕食の時間になり、オレは食堂へ、レイラは厨房の整理をしてからカスバへと帰っていく。
 かなり分厚い寓話集も、二週間もすれば読みおわってしまった。最後の話を語りおえ、バタンと寓話集を閉じようとしたとき、

「もう一度最初から読んで」

と、小女は頼んだ。

「それもそうだな…」

 これではせっかくの新しい生活も、二週間で終わってしまう。ものたりないどころか、精神衛生上よいことではない。そう考えたオレは、またマグレブ寓話集をとりあげると、第一話からゆっくりと読みはじめた。
 そのうちレイラは、一つの話が終わっても、帰ろうとしなくなった。六時をすぎても七時をまわっても、つぎの話を読んでくれとせがむ。
 オレは心配になった。
 読んで聞かせるのは楽しい。とりわけ小女が無心に聞き入る様を目にするのは、得がたい喜びだった。だが、食事もしないで、そればかり続けるわけにはいかない。いくら小女の胃袋が小さいといっても、腹は空くだろう。オレの胃袋だって、並の大人のサイズなのだ。時間がくれば物を入れてやらなければならない。
 オレの思案顔に不安を感じてか、レイラが提案した。

「もし、ダンナ様がよかったら、あしたから、ご飯をたべた後でよむことにしようよ、あたいは、ダンナ様がご飯を食べ終わるまで、まってるよ」

 オレは驚いた。

「まってる?」
「ン…」

 実際、そんなにまでして聞く話でもないのだ。動物や植物、王様や百姓が出てきて多彩だが、とどのつまりは、人の陰口をたたくなとか、体の傷は治るが心の傷は一生治らないといった類の、啓蒙色の強い教訓集だったのだ。
 それをレイラはくりかえし聞きたいという。その顔に邪気はなく、じっとオレを見上げる目は、真剣そのものだった。だから、こんどはオレの方が、提案する番だとおもった。

「オマエをまたせて食事をしても、うまくないし、食べた気もしないな、そうだ、二人で一緒に、食べようじゃないか、そうしよう」

 小女は頬を紅潮させ、目を輝かせた。

「それは、とてもいいことだよ、好きな料理をおしえてよ、一生懸命、つくるよ」

 翌日から小女は、オレが用意した一週間分のメニューどおりに、夕食の準備を始めた。海外での自炊生活になれる必要性から、ミソやショウユにあまりこだわらなくなったオレには、おあつらえ向きの料理人だった。
 こうして始まった半ば共同の生活は、二人をいっそう近づけることになった。
 小女は少しずつオレへの信頼をとりもどし、徐々に警戒をゆるめ、心を開いていった。一方、オレは、ますますレイラを養女にする決意を固めていった。そして、小女がカスバに帰るのをやめ、自分から住み込みで働きたい気持ちになったとき、それが彼女を養女にする決断を下す時だと、ひそかに心に決めていたのだ。
 雨期が終わり、また乾期がやってきた。
 マグレブ寓話集で結ばれた二人の生活は、一話ごとに親しみと緊張をましながら、毎日、休みなく続けられた。
 背筋をのばし、尻の半分でソファーに腰掛けていた小女も、いつの間にか深々とクッションに座るようになり、時には背もたれに頭をあずけ、ウトウトすることもあった。
 ある日、よほど疲れていたのか、話しはじめてまもなく、小女はすぐ居眠りを始めた。オレはなにげなく小女の肩に手をかけ、自分の膝にその頭を導いた。
 なんの抵抗もなく体をあずけた小女は、そのまま安心しきったように、眠ってしまった。
 真上から見る小女の寝顔は、日ごろの、周到で用心深い表情ばかり見慣れていたオレには、同じ小女とは思えないほど無心で、あどけなくみえた。
 切れ長の目が閉じたとき、それだけで顔中から不信の翳りが消えた。
 栗色の長いまつげが、生まれたばかりの元気な生き物のように、閉じた瞼の上でクルリと円弧を描いている。どう見ても平和で幼い、生に満ちた、無垢な顔がそこにあった。
 思えばレイラの表情の裏には、いつも多くの矛盾した心理が同居していた。
 外界への強い興味とかたくなな猜疑、周到な警戒心と抑えようのない好奇心、他人へのはげしい反発と熱い想い、その他もろもろの相反する心理が、小麦色の肌の向こう側で、いまかいまかと出番を待っている。

「この罪のない顔のどこに、相手の深奥部まで覗き見る、あの鋭い視線が隠されているのだろうか…」

 オレは小女のほそい首に手をまわし、親指の先でうなじの、小さな手の形をした青い痣を、そっと撫でた。一時、くすぐったそうに首を縮めた小女は、背筋をずらしてオレの太股を懐にかかえた。顔にはうっすらと、満足げな笑みさえ漂わせる。なにを夢見るのか、小さな体が徐々にほぐれ、ソファーに伸ばした両の脚が、囲いを解いて開いた。こうして小女は、オレの膝に完全に身をあずけたまま、スヤスヤと眠ってしまった。
 ひとりとり残されたオレは、青い痣をなでつづけながら、レイラの生身の、湿った肌の感触を、手の平でたしかめていた。
 それは、カスバで初めて会った時の、あの覚めた感触ではなかった。といって、子どもと大人の境目がかもしだす、不安定で不可解な、一過性の性欲をそそる感触でもなかった。それは、いってみれば、利己的で嗜虐的な所有欲をあおり立てる、執拗な誘惑への官能の昂りではなかっただろうか。
 そのくせオレは、それが保護者としての、養父としての愛情の発露だと、相変わらず信じていたのだ。
 だから、完全に寝入った小女を抱きかかえ、露出した脇の下からにおう甘いクミンの香りをかぎながら、居間の仮眠ベッドまで運んだ時でも、まだ自分を、幼く貧しい小女に善意を施す、思慮深く寛大な大人の一人だと、思いこんでいたに違いないのだ。

              ◇

 乾期もなかば、またラマダンが近づいてきた。この時期、きまって砂糖やビールが品不足になる。レイラを方々に走らせて情報を収集し、しばらく買いだめに奔走しなければならなかった。

 備蓄も順調に進み、明日からラマンダン入りという日の夕方、サハラを千二百キロ南に下った工事現場から、緊急連絡が入った。

 受話器をとると、現場主任の甲高い声が、耳に突き刺さるようにとび込んできた。

「事件だ!」

 相当あわてている。

「痴情沙汰で一人死んだ、一大事だ!」

 分けをきくと、下請けのトビ職人が二人、飲んだ勢いで女をとり合い、一人が刃物で相手を刺し殺したというのだ。

「バカなヤツらだ…」

 オレは汗を拭き拭き、呟いた。

 痴情沙汰といっても、軍専用の国営慰安所の慰安婦が相手じゃないか。こちらが望んでどうなるものでもない。慰安所でしか会えず、金でしか買えないオンナをとり合って、いったい何になるといのか。

「こんなことで事務所の仕事がおあずけになること自体、たえがたい」

 どこの国でも役所の手続きは煩雑なものだ。遺体の引取り、納棺、仮葬儀、国外搬出、これだけで二週間、へたすれば三週間はつぶれる。おまけに刑事事件だ。現場検証、司法解剖、取調べ、起訴、裁判、収監…これからの面倒を考えただけで、頭が痛くなる。

「とにかく現場に行かなければ」

 夕食後、仮眠をとって車をとばし、アトラス超えでサハラ入りすれば、明日の夕刻には現場に着ける。遺体の処置は葬儀屋にまかせ、集中して当局の説得にあたれば、なんとか特別措置で、緊急出国ビザをもらえるかもしれない。この暑さでは、ドライアイスの効き目もうすい。腐敗が進むまえに、早く国外へ持ち出すことが肝心だ。

 すぐ葬儀屋に連絡し、二日後に現場で会うよう段取りをとった。

「一週間後に帰る」

 頼んだ弁当と炭酸水ボトル一ダースを準備するレイラにそう伝えると、薄手の衣類をあるだけかき集め、車に乗り込んだ。乾期のサハラだ。車中はサウナよりも暑くなる。着替えと水は、いくらあっても足りることはない。

 猛暑と砂塵のサハラを突っ走り、脱水状態で現場に着いたのは、翌日の夕方近くだった。

 官憲による現場検証はすでにおわり、遺体は検死解剖のため国軍病院に移されていた。明日の午後解剖だという。目撃者や証人の調書取りは終わり、加害者も留置ずみだが、取調べはまだということだった。精神が混乱し、とても調書がとれる状態ではないらしい。

「ひと一人、殺したのだ。当然のことではないか」

 夕食時、事件の経緯を二度も聞きたくなかったが、タイ人コックのつくる日本食でビールをのむオレのそばで、現場主任があれこれと、グチとも報告ともつかない話を始めた。

「普段は仲のよい二人でね、週末にはいつも三十キロ先の、町の慰安所に通っていたんだが、そのうち、同じオンナが好きになってしまってね、最初は、譲り合っていたらしいが、回がかさなるにつれ、そうもいかなくなったらしくて、殴りあい寸前のイサカイも、何度かあたらしいよ、欝積する飯場生活のストレスもあったんだろうが、遂にこんな事件になってしまって、実に残念だな、民間人が、しかも出稼ぎの外国人が、軍のおこぼれを頂戴できるだけでも、ありがたいってのに、とり合ったあげくにさ、相棒まで殺してしまうとは、正気のやることじゃないぜ、まったく、ばかなヤツらだ」

 そこまで一気に話した主任は、胸のつかえがおりたのか、いつもの精気をとりもどし、たてつづけにビールを数杯あおってから、こうつけ加えた。

「本社にかけあって、もっとましな人間を送るよう、キミの方からも頼んでくれ」

 明けて早朝、憲兵隊の駐屯場に行き、被害者の遺体の確認を申し出た。やりたい仕事ではなかったが、本社と遺族への報告上、どうしても必要なことだった。

 応対に出た憲兵連隊長は、眼光鋭い壮年の軍人だった。
 人格者らしい徳にみちた笑顔でオレを迎えた彼は、

「不幸な出来事だが、人間は弱いものだ、それだけに、厳しい戒律と祈りが必要なのだ」

と述べ、オレの倍はある分厚い手で優しく握手すると、

「手続き上の問題があれば、できるだけ協力するので、安心したまえ」

と約束し、労をねぎらいながら若い隊員を一人、補佐につけてくれた。

 遺体置き場は国軍病院の地下にあった。

 ホルマリンと腐敗したタンパク質のにおいが鼻をつく。正面にだだっ広い部屋があり、死体を積んだ十数台のストレッチャーが雑然とならべてあった。盛り上がったシーツから、土色の足がのぞいてみえる。全部、交通事故現場から回収した遺体だと、若い憲兵隊員が注釈した。

 右手の白い壁に両開きの鉄扉があり、その向こうが解剖室になっていた。
 トビ職人の遺体はみにくく変色し、ホルマリンの注入痕と思わせる土色の斑紋が、全身に散らばっていた。五分刈りの頭髪は白く、額や頬に深いシワが無数に刻まれている。肉体労働者らしい鍛えた筋肉は、注入液のために凸凹に変形し、喉仏の真下が横一文字に切り裂かれ、パクリと開いた傷口が朱色に染まっていた。

「加害者は理想的な屠殺人だな」

 指で傷の深さを計りながら、若い隊員が呟いた。
 国軍病院の待合室で検死解剖の結果を待った。
 若い隊員は、アリ・アフメドと名乗った。南部の寒村出で、兵役で受けた教育をバネに独学で士官学校に入り、二年前に憲兵になった。

「いまは国際法を勉強中、将来はロンドンに留学して、諜報技術の専門家になりたいんだ」

これが将来の夢だという。

 敬虔なイスラム教徒で、またそうであることが相手にどう映るか、強い興味をもっていた。

「キミは、イスラム教を、どうみるのか?」

 そして、さかんにコーランを語り、仏教に関する意見をのべ、宗教の必要性について勢力的に話し、その都度、相手がどう反応するか、神経質にうかがった。信仰深い青年はきずつきやすい。深い議論は避けるにかぎる。オレは終始、卑俗な好奇心にかられた物見高い外国人の一人として、振舞った。

「オレは仏教徒でもなければ、クリスチャンでもない、ましてや、ヒンズー教徒でもない、無節操な日本の無神論者の一人、ってとこだな、世の中に人間を超えた力がある、とは思うが、それがアッラーだといわれても、ちょっとこまる、イスラムでいいのは、四人の女を妻にでき、いつでも勝手に離婚できることだ、わるい点は、サケが飲めないことに尽きるね、オレはサケを妻にしたいくらいの酒好きだから、一日だってイスラム教徒にはなれないな」

 アリ・ハフメドは真面目だった。オレの言葉を額面どおりに受けとった彼は、正面から真剣にイスラムを擁護した。

「不幸なことに、イスラムは、時代遅れで専制的な宗教、と思われている、が、実は、本来的に民主的な宗教なんだ、沢山の女をハーレムに囲い、贅を尽くした金品彫像を祭りあげて、享楽のかぎりをつくした邪悪な多神教を、予言者モハメットが駆逐し、唯一絶対神の信仰を唱えて、神の前で万人を平等にしたんだ、そして政治を、その理想を実現するための力としたんだ、それは、いってみれば、事実上の革命なんだ、つまりイスラムは、フランス革命より一千年もまえに、平等主義を実現していたんだよ」

 イスラム擁護は続く。

「一夫多妻にしても、男の身勝手な権利ではない、預言者モハメットは、メッカ奪還の闘いの中で、夫を失った未亡人を、わが身に引き受けた、その予言者に習って、男は不幸な女を四人まで保護することを、自ら課したんだ、これが始まりだ、巷間よくいわれている、四人までメカケを囲っていい、ということでは決してないぞ、男と女はおなじ人権をもち、女は男以上に保護される、なぜなら、イスラム教徒を生むことができるのは、女だけだからだ、現に、結婚して女が手にする結納金は、夫でも子どもでも、他人が手をつけることは絶対にできないんだよ」

 退屈しかけたオレの興味を惹きとめようとでもするのか、アリ・アフメドは、やおら立ち上がると、オレを指差していった。

「きみの好きなサケについても、おもしろい話があるぞ、滅ぼされたあるイスラム国の王妃が、酒宴の席で、勝ち誇った野蛮な敵の国王から、飲酒を強要された、もちろん、敬虔な王妃はそれを拒んだ、すると邪悪な王は、姦通をせまった、王妃は、ちょっとでも手を触れたら、すぐに自殺すると拒否した、すると王は、生き残った二人の王子を殺せと命じた、王妃は、自分の生命にかえても王子たちは守ると抵抗した、すると今度は、サケを呑めば王子の命は助けてやると王は約束した、王妃は、愛する王子を想い、罪を忍んで王にサケを注ぎ、自分もそれを呑んだ、とたんに王妃は、敵国の王と姦通し、その後にわが子を殺し、王の慰みものになってしまった、だからサケは、本当に恐ろしい飲み物なんだ…」

 がらんとした国軍病院の待合室で、勇ましい征服に身を固めた屈強な憲兵隊員が、口髭のいかつい顔に似合わない柔和な眼差しをこちらに向け、淡々とイスラムの法を説く。その間オレは、物心つくころから始める徹底した寺小屋教育の、いかに効果的かを痛感しつつ、さっさと手続きをすませ、早く家に帰れることのみ、ひたすら心で願っていた。

 検死解剖の結果、死因は頸動脈裂傷による出血多量死、鎖骨と肋骨に骨折のあと、左手の中指の湾曲、重度の肝硬変、すい臓に発達した腫瘍を認める、との報告があった。

 遺体の納棺証明がとれたのは、予定より一日早い五日目のことだった。現場から三十キロ離れた町の警察で棺に封印し、二十キロ先の国内空港まで運ぶ間、またイスラムの講和をはじめたアリ・アフメドに、オレはとうとう、我慢できなくなった。

 ハンドルを握りなおし、意を決してオレは反論した。

「なあ、アフメド憲兵どの、イスラムが、千余年もまえに人類を開放し、カミの前にすべての民を平等たらしめた理想の宗教なら、だよ、イスラムが、フランス革命より一千年もまえに主権在民を実現し、男女の平等を尊び、弱き者をあまねく守らしめる真に革命的で人道的な宗教だとしたら、だよ」

 語気の強さに、彼は戸惑ったようだった。

「なぜ、なぜいまだに、イスラム諸国に人権無視の王国が存在し、平民の上に王が、赤貧の上に億万長者が、のうのうと胡坐をかいているのだ!」

 あらゆる手持の知識と話術を動員してイスラムを擁護したアリ・アフメドは、しかし最後に、

「キミの見方にも、一理ある」

といって、うなだれた。そして、

「イスラムは理想が破壊されていく痛ましい軌跡でもあるのだ」

と、消え入るような声でつけ加えた。 
 力の失せた淋しげな瞳に、砂塵の舞う土漠の風景が車窓を通して映る。肩幅の広い屈強な彼の背中が、急に小さく、ひ弱で、哀れに見えた。
 翌日の午後、ダル・エル・ベイダ国際空港で遺体搬出の確認をすませ、事務所によってテレックスを打ったあと、ボロ雑巾のように疲れて家に帰り着いたのは、夕方も七時を回ったころだった。
 予定が一日早まったのでレイラはいないはずだったが、国道一号線を右に折れていつもの路地に入ると、厨房に明々と灯りのついたわが家が目に入った。
 門前に車を止め、妙に思いながら鉄扉を開けて庭に入ろうとしたとき、すばやい動きで奥の石垣をとびこえ、隣の庭に消えていく影を認めた。日没は終わり、辺りは闇と薄暮の境にある。はっきりとは見えなかったが、それが敏捷な子どもの姿であることは、たしかだった。

「また悪ガキの悪戯か…」

 オレは気にも留めず、そのまま家に入った。
 レイラは、いそいそと、オレを迎えた。

「あしたからラマダンだから、クースクースを用意したよ、早くフロに入るといいよ、ビールもよく冷えてるよ」
「予定より早く帰るのが、どうして分かった?」
「大家が教えてくれたよ」

 なるほど、この家の大家は事務所の大家でもある。なんの用かは知らないが、事務所の近辺をよくうろついていることがある。今日もどこかでオレを見かけ、しばらくこちらの動向を窺っていたのだろう。その目敏い視線から逃れるのは、容易なことではない。 
 オレはレイラのつくるクースクースが好きだった。キメがこまかく、口に含むと、ツブの一つ一つに生きた弾力と抵抗を感じる。スープをかけてもだらしなく膨らむことがない。手間ひまかけて、たっぷり油でまぶして仕上げるからだ。
 やたら塩辛い現場のタイ人料理に辟易していたオレは、レイラのクースクースを夢中で食べた。死体を国外に運び出すという殺伐とした仕事のあとだけに、思いがけないレイラの存在は、嬉しかった。
 ただ、事件の事後処理にかまけて思い出しもしなかったが、レイラはオレの帰りを心待ちにしていた。オレがそこいるかぎり、食後は必ず本を読んでもらうことになっていたのだ。
 極度に疲れていたオレには、それがとても疎ましかった。
 オレはドサリとソファーに腰をおろし、ガウンの帯をだらしなく緩めて、深々と溜め息をついた。

「あー、今日は、疲れた、本当にくたくただ…」

 レイラは即座に反応した。

「そうだよ、ダンナ様はつかれているよ、あたいはすぐかえるよ」

 そして立ち上がり際に、こう聞いた。

「クースクースはおいしかった?」
「ン、どこで食べても、あれだけの料理は食べられないよ」

 オレは、そう褒めたあと、

「ひとりでさみしく食べるかわりに、オマエがいてくれたので、とてもうれしかったよ、それに、偶然とはいえ、オレが早く帰ったことを報せてくれた大家に、感謝しなければな」

と、つけ加えた。

「そんな必要、ぜんぜんないよ!」

 冗談で出た言葉をまともに受けとったらしく、レイラは、意外な強さで反発した。

「あの大家は、おおウソつきで、信用できないよ、戦争のときだって、何人もナカマをうらぎった、アイツにどれだけ殺されたか、しれやしない、このイエも事務所の建物も、みなそうやって手にいれた財産だよ、バアちゃんが残したイエだってねらってる、こんな幼い子どもをだまそうなんて、とんでもない強欲者だよ!」

 額に筋立て、小女は訴えた。
 この手の告げ口に、オレは閉口していた。
 老若男女を問わず、仲間の悪口を他人に告げ口する輩のいかに多いことか。相手と利害関係があるとき、それはさらに執拗で悪質だった。世の中で信用できるのは自分だけだと、相手に吹聴するのだ。
 オレは、

「よく分かった」

と手を振り、話題を変えた。

「オマエは、何才からラマダンを始めるんだ?」

 思いがけない質問に虚を突かれたのか、レイラは少しためらってもじもじしていたが、やがて、思い切ったようにこう答えた。

「みなとおなじ、あしたからだよ」
「そうか、明日からか、男は七、八才からと聞いているが、女もそうなのか?」
「トシには関係ないよ…」

 いいながらレイラは目を伏せた。頬が上気して赤味をおび、小女らしい恥じらいが見える。オレはピンときた。

「そうか」

 追いつめる気はなかったが、本人の口からじかに返事が聞きたかった。

「トシに関係ないなら、なにに?」

 レイラは、膝までたくし上げた服の裾を揉みながら、しばらく黙っていたが、やがてこう答えた。

「オンナになったときからだよ…」

 充血した目がまばたきもせず、真正面からオレを見つめている。潤んだ黒い瞳が微妙にふるえ、小女と女の境目から伝わる危険で定まらない微波動が、オレの中のなにかと干渉した。猜疑は消え、警戒は去り、高慢に膨らんだ小さな鼻先が、挑戦的にこちらに向けられている。成長期が発散する過剰な体熱と意気が、そのとき、小女の輪郭をひとまわり大きく、官能的にさえ見せていた。

「多分、その時だったのだ…」

 自分の裏側に意外な欲望が潜んでいることに気づいたのは。
 そして、そいつは、日ごろの無関心なオレの顔を、内側からそっくりとり替えようと、狙っていたのだ。

「オレは小女の何なのか?」

 心おおらかな保護者なのか…。

「それとも、邪悪で周到な魔界の誘惑者なのか…」

 胸がつかえ、狼狽したオレは、目障りな邪魔ものをおいはらうようにレイラを帰らせ、ひとり部屋を歩きまわった。

 どれほど歩いたろうか。

 ふと、ソファーに妙なシミが着いていることに気がついた。ちょうどさっきまで、小女の尻が乗っていた辺りだった。ラクダ色の粗い編み目の布地が、一部分、赤くなっている。顔を近づけると、血の跡だった。それはほかでもない、いましがたレイラが残していった、小女がオンナになったことの、あからさまな生理の証だった。
 無性にそのにおいをかぎたいと思った。生まれて初めての衝動だった。そのことにオレは驚き、とまどった。
 目を閉じて無関心を決め込んだ。だが、滲んだ血の跡が、逆に瞼の裏に迫ってきた。疲労と後退する意識の中で、オレは、ズルズルとその衝動に押し切られ、ソファーにグラリとたおれ込んだ。両肘をつき、体を支えた。すると、そこに赤い滲みがあった。鼻を近づけ、辺りの澱んだ空気を、少しずつ吸い込んだ。
 クミンと血、様々な分泌物がにおった。気が昂ぶり、妄想で意識がかすんだ。カスバで初めて会ったときの、あの小さくて痩せた小女が、豊満で淫らな肉を揺らして迫ってくる。乾いた吸気が肺の湿気にふれ、生臭い呼気に変わって、喉の奥を遡った。
 吐き気をおさえ、辺りかまわず、なめまわした。粗い布地が唾液で濡れ、赤黒いシミが縞模様の上に広がる。それが顔ほどの大きさになったころ、やっと得心がいったのか、オレは長々とソファーに寝そべり、目を閉じた。サハラの現場を出て不眠不休の三十時間、力は尽きていた。オレはそのまま寝室にも行かず、ソファーに横たわったまま、深い眠りにグングン引きずり込まれていった…。
 
             ~~~
 
「キミはなぜ、あの国に?」
「砂漠に惹かれたのだろう」
「砂漠? それは妙だ、砂漠にはずいぶんうんざりした口振りだったが」
「オマエはどうだ?オマエも憧れた口ではなかったのか」
「憧れはしなかったが、魅力を感じたのはたしかだ」
「どんな魅力だ?」
「答えはキミに譲るよ」
「それはずるい」
「ただ、これだけはいえる、砂漠にいると、自分が白くなる、脳ミソの漂白作用みたいなものが、あそこにはある」
「稚拙な分析だな」
「キミは、砂漠で遭難しかけた人の手記を、読んだことがあるかい?」
「ないね」
「砂漠で方角を失い、遭難したと気づいたとき、まず、持っている物すべてが大切におもえるそうだ、だから、絶対になくすまいとする、しかし、何日も歩き続けるうちに一つ捨て、二つ捨て、持っていた物を次々に捨てていく、助かりたい一心からだ、そしてとうとう動けなくなったラクダまで捨て、最後には身につけたもの一切合財捨て切って、歩けなくなって動けなくなっても、それでもまだ助かるという希望だけは、捨てないそうだ」
「いうまでもない」
「ところが、とうとうその最後の希望も捨てることになったとき、どうなるとおもう?」
「分からない」
「不思議にも、これで助かった、とおもう瞬間があるというのだ」
「ほう」
「死期に近づいた人が一瞬よみがえる、あの瞬間に似ていると思わないか」
「壊死細胞の覚醒か」
「つまり、ひとの脳ミソも、そういうふうにできているのではないかな、必要と思っていた知識をどんどん捨て、最後にささやかな知性にも絶望して捨てきったとき、初めて知的な脳ミソの再生ができる、てわけだ」
「美しい幻想だな」
「真っ黒に汚れたシーツが、純白の布に漂白される、砂漠の中にいると、それまでの自分がなくなって、一から蘇生していくような気がする、だから、惹かれるのかもしれないね」
「幼稚な言説だな、未熟で盲目的な野性志向、それが行きつくところの、根も葉もないたわごと、てとこだな」
「それも捨てたものではないよ」
「オレには、ややこしい言説など不必要だよ、単純明快がいい、あそこは広くてムダがない、逆にいえば、ムダしかないのさ、その中を、ムダのない車でブッ飛ばす、これ以上の快感はないね、ほかのどこへ行っても味わえない、醍醐味だな」
「キミは矛盾しているね、単純明快をよしとするわりには」
「わりには?」
「ややこしい」
「だが、ウソはついていないぜ」
「それはどうかな、ツンドラと砂漠の服装は似ている、たしかに、両極端が必ずしも矛盾しているとはかぎらないさ、ただキミの場合、きのどくにも、恣意的に自分を矛盾に追い込んでいるところが、あるんだよ」
「余計なお世話だ」
「人は往々にして、生きる軸がぶれたとき、ある種の複雑さを求めるというが、ウソや冗談で人をケムにまくのはやさしいさ、だがね」
「だが?」
「本音を出すのは、むつかしいものだぞ」
「ホンネ? 簡単なものさ、未文化の世界に身を曝す焦燥感、分厚い文化の壁で守られた場所に身を置く安堵感、この二つの間を好きに行き来する、それは、それで、けっこうオツなものだぞ」
「それこそ、稚拙な言説だね」
「たわごとではないさ、あの所在なさ、不在感、高いところからとびおりて着地するまでの、あの尻のムズムズする感じ、実際、あのイライラとムズムズには、ドラッグまがいの、ひとをキレさせるなにかがあるな、もったいぶった押しつけがましい文化など、なんの役に立つ、きれいさっぱり捨ててしまえ、ってね」
「捨てられるものなのか?」
「捨てられるさ、ただ、捨てきれないのが問題なんだよ、だんだん辛くなってくるんだ、捨てたものが恋しくなって、これで終わってしまえば、いったいなんのための人生だったと、めそめそ考えるようになるんだよ」
「ほう…」
「なんだ、その疑わしい目は」
「いや、疑ってるわけじゃないよ、ただ、いつ、そうなったのか、知りたいだけさ、そして、そのきっかけについてもね」
「ウソでも冗談でも、ないさ、ただ、よくおもいだせない、よく、わからない、長い間、漠然と、予感はしていたが、そこへあの事件だ、あの辺りから、なにかが変調しはじめたんだよ」
「なにかが?」
「そう、なにかが…」
 
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赤の連還 3 赤いジャスミン 完 更新9(4 赤い浴衣 につづく)


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