学びを進めると陥りやすい依存の罠の話
排卵日調べない40歳妊活記#48
今日はちょっと違う角度から。
学びを進めていくうえで我々夫婦が大切にしていることの一つを書いてみます。
学びと依存の関係
このnoteで書いていることって大きく分けたら、食と生き方(考え方)なのかなと思うんですが。食も生き方も、これかなり学びだなと思っていまして。
食についてはかなり知識をインプットする必要がありましたし、日々作り手さんや八百屋さんに色々と教えてもらっているし、毎日の食べること自体が体験学習です。生き方も実践が一番大事だけど、算命学という奥の深い学問を学び、鑑定したりスクールでお伝えしたりと、これも日々学びを行っているかなと考えています。
これまでもお互い色々なことで自分に投資をしてきました。
これは自分への投資だ!なんて意識したことないものから、まあまあ高額なものまで色々あったように思います。そんな中で、痛い勉強代になったこともあったりするけれどすべてが血となり肉となっているのかなーと思います。
そう考えると何十年と学び続けているわけなのですが、よく陥ってしまっていたことが「その学びに依存すること」です。その学びの本質を捉えられずに、ファッション的に学んでしまっていたり、打算的に学んでいたり、自分自身に結局自信がないと依存が起こってしまうような気がします。
なぜ依存が起こっていたのだろうか
ファッション的に学ぶパターンは、なんかカッコよく見えて、それを学べば自分もそうなれるように短絡的に思ってしまったりするようなパターンです。芸能人やすごい人のコマーシャルにひっかかります。キャッチーなコピーにハマって、自分の目の前に近道が現れたような気になります。
打算的に学ぶパターンは、これをやれば儲かる。これをやれば評価がアップする。そういう感じでしょうか。全然悪くないし、直接そういう効果があるものはもちろんあるのですが。
こと「学び」という観点からすると、意外に直接出る効果に惑わされて、こじれてしまうことがあると思っています。
いずれも結局は自分に自信がなくって、何かを手に入れたい、その何かがないと自分は売れないとか、条件がないと評価されないとか、自分がそのままで幸せになって良いということを自分が自分に許可出せていないパターンが依存を生むと思います。
自分にしっかりとした芯と自信があれば上に書いた打算的なパターンも、これは戦略的だというポジティブな表現に変えられるものになるので、ここの所の順序を間違えないようにするということを、今も非常に意識しているような気がします。人間気づかぬうちに自分の弱さから、依存に陥ってしまうので、夫婦でチェックしてる感じがあります。
(実際は指摘されるとかなり腹立ちます笑)
依存したらどうなっていただろうか
依存すると例えば、「そうじゃなきゃいけない」「べき」みたいなのが強くなってしまいます。それ以外を受け入れる度量がなくなり、対立関係や闘い、争いが起こってしまう。
例えば無農薬野菜のことを学んでいったとして、ある農家さんに気に入ってもらえて色々教えてもらって、その農家さんで農業体験なんかしたりして、帰りにはたくさんの野菜をいただいちゃったりなんかして。
そうするとその人がなんか超素敵で、世の中の農家の中で最高な人なんじゃないか!って感覚になってきたりします。で、他のがんばってる農家を下にみたり、例えば減農薬でとか有機肥料で育てた野菜を否定しはじめたりしちゃうんですよね。
これまずい現象ですよね、
でもこういった光景よくありませんか?
または経験したことはありませんか?
全ての学びの場面でありえる構造な気がするんですよ。
人間がかかりやすい罠じゃないかなと思っています。
どっちも良いってなかなか思えなくって、自分が学んでいることを肯定したいんですね。そりゃ時間とお金をたくさんかけてこれだと信じた学びだもん!当たり前の感情です。
でもこれは本当の意味で全然学べていないことだと思うんですね。繰り返し同じことをやっている。実は自分の自信の穴埋めだけをやっていて、色々学んでいる風であんま身になっていないんですね。本当にこういうことを繰り返す人っていますよね。なんでもいいんです。ファッション学びです。いやー自分もそうだったし気をつけないと気づいたらそういうことやっちゃうんですよね。
まとめ(超抽象的ですみません)
長渕剛の歌の中にこんな歌詞があって
だから差別も拾え! 苦しみも悲しみも拾え! ついでに神も仏も拾ってしまえ!
根こそぎ拾ったらあの巨大な大海原へ すべてをお前の両手で破り捨てろ!!
なんかこんな感じのことを考えていますね。
マニアックなこと取り込むし、話聞くし、議論するけど、最後全部捨てて、自分の感性で決めるみたいな。
めっちゃおもろい、やべー深い、変態すぎるー、そこまでやる人すげー、って小学生みたいな感想になって、最後はなんか好きーとかなんかええやん!で決めちゃう。そういう感じ。
理屈に偏ったらつまらない。感覚に偏ったらアホ。両極やって両方あって面白いし、両方必要で両方を極めて文武両道。
勝ち負けや良い悪いというジャッジの世界からの脱却って感じでしょうか。
ということで無分別智と分別智と仏教では言われていたりするもののことですけど、偏って偏って、最後偏らないというそんなことを気をつけて楽しく学んでいるというお話でした。
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