「バイリンガル」な教育方針で日本語に自信がなくなった私を救ったのは、「特攻隊員」が人生を捧げた夢だった
突然だが、「人生、うまくいかない」と思い詰めて、自分ではどうしようもなくなる経験、みなさんにはないだろうか。
15歳の私が、そうだった。私は「言葉の壁」に直面していた。
外国人の親を持つわけでも、海外で育ったわけでもない。日本で生まれ、日本で育った。けれど、ある点が他の多くの子どもと違っていた。
その「壁」を超え、今の私がいるのは、ある「特攻隊員」の存在があったからだと後になって気づいた。そのことについて、語らせてほしい。
母の「特殊な」教育方針
私の生い立ちは、少々変わっているのだと思う。
山梨県甲府市で、小学校の教員の日本人の父と、英語塾を経営する日本人の母の間に生まれた。至って平凡な家庭だ。
特殊だったのは、母の教育方針。
母は大学で認知心理学を専攻し、子どもがどのように言語を認知し、習得していくかを研究していた。卒業後も英語塾を経営する傍ら、研究は続行。特に力を入れていたテーマが、「日本で日本人がバイリンガルを育てる方法」だった。
後に母に聞いたところ、学生時代、今ほど留学制度が充実しておらず、金銭的にもハードルが高くて海外留学を断念せざるをえない人が多かった。そんな経験が背景にあったようだ。留学しなくても、多くの人が英語を話せるようにしたい。研究者、教育者としての純粋な情熱だった。
研究を深めるには実践あるのみ、と考えたのだろう。母は思い切った方法に出た。私が家庭内で母や妹と会話する時には、原則、英語を使うというルールを課したのだ。
同年代の子どもたちが日本のアニメや漫画を楽しんでいるころ、私は海外のアニメや絵本を見ていた。
家庭内では英語を習得する。日本語は、学校などの社会生活の中で習得させるというのが母の狙いだった。
日本語に自信が持てない
「英才教育」というと聞こえはいいが、受ける本人にとっては苦労の連続だ。
まず、幼少期の私は2つの言語を器用に使い分けることができなかった。母と過ごす時間が長い幼少期は、日本語よりも英語に触れる時間が圧倒的に長かったため、日本語で話すことに自信が持てなかったのだ。
母は当時、そのことに気づいていたようだ。それを示す20年以上前の資料が実家に残っている。母が大学の研究会で発表したもので、2歳から4歳までの私の言語能力について、こう書かれていた。
「英語能力はネイティブの子どもと遜色のないレベル」
「だが、日本語能力は同年代の子どもと比べて著しく劣っている」
今では母とも笑い話として語れるようになったが、当時はあまり笑えなかった。
父の仕事でスペイン領・カナリア諸島に6歳から3年間移住したこともあって、日本の公立学校に通い始めたのは小学校4年生からだった。
日本語を話すことに自信を持てずにいた私は、周りにうまく溶け込めなかったのだ。同級生たちの「ちょっと変わった子だ」という視線を感じ、からかわれるようなこともあった。
ある日のこと、授業参観で母が学校にやってきた。
消しゴムを借りようと、後ろの席の友達の方を振り向くと…
“Kent, Concentrate in class!” (授業に集中しなさい!)
いきなり英語!?
そう、「母とは英語で話す」というルールは、家庭外でも適用されていたのだ。
母に英語で話しかけられるのが嫌で、授業参観は私にとって憂鬱なものになった。
「普通」の家庭がうらやましい…そんなことも思っていた。
英語はもう、話したくない
母の教育方針は当時、周りに理解されず、一番身近な父でさえそうだった。
私の教育方針をめぐって、両親が口論するのを聞くようになったのだ。
「英語だけできても意味がないんだよ」
父が発したその言葉に、そんなに深い意味はなかったのかもしれない。ただ感情に任せて口にしてしまったのだろう。
でも、私は自分が両親の不仲の原因になっているのではないかと考え、心を痛めた。英語しか上手く話せない自分には、価値がないのではないか。そんなことさえ思ってしまった。
当然、母としては私を苦しめようなどとはみじんも考えておらず、将来のためにという親心からやっていたことだ。ただそんなことが子どもの私に理解できるはずもなく、「なんで、こんな育て方をしたのか」と母を責めてしまうこともあった。
いつしか私は人前で英語を話すことを恥ずかしいと思うようになり、周りに隠すようになっていた。
自ら英語を、封印してしまったのだ。
しぶしぶ出場したけれど
転機が訪れたのが、中学3年生のときに参加した英語弁論大会だった。
人前で英語を話すって?勘弁してほしい…
でも中学の英語の先生の熱意に負けた。
「出場しないのはもったいないよ」
そう言って譲らない。根負けして、しぶしぶながら出場することになった。
自分の思いとは裏腹に、地方大会を勝ち上がってしまった私は、山梨県代表として東京で行われる全国大会に出場。この大会は「高円宮杯全日本中学校英語弁論大会」といって、日本で最高峰と言われる英語弁論大会だった。当時の私は、そんなことさえ知らなかった。
東京の会場に行くと、荘厳な雰囲気に圧倒された。広いホールは観客で埋め尽くされていた。
呪縛からの解放
壇上に上がると、緊張の糸が張り巡らされたかのように物音一つ無くなり、薄暗い照明の中、一筋のスポットライトが自分だけを照らしていた。
「ホールにいる全員が真剣に自分の話を聞いている」
その感覚は少しくすぐったいような、気持ちがいいような、不思議な感覚だった。
思いがけず、私は151人による予選を勝ち進んだ。大会3日目の最終日、勝ち残った27人による決勝戦が行われた。
5分間。スピーチはあっという間だった。
スピーチを終える瞬間、わき起こる大きな拍手。
「無事にできたんだ」
実感が湧いてきたのと同時に、これまで「恥ずかしくて、隠したかった英語」が自分の中で自信に変わっていくのを感じた。
「3位、山本健人さん」
入賞が発表されると、会場にいた母は涙を流していた。
周りに理解されない孤独は、母も同じだったのだろう。泣いて喜ぶ母を見て、つらかったのは自分だけじゃなかったと気づかされた。
「あなたが生まれたとき、これから生きていく上で役に立つ贈り物をあげたかった」
そうか、母の思いはそういうことだったんだ。
初めて、心から感謝の気持ちを口にすることができた。
長年の呪縛から、解放された気分だった。
大会を通じて出会った同世代の生徒たちが話していたのは、「将来英語を使って仕事がしたい」ということだ。彼らと語り合ううちに、自分にもそういう道があるのではないか、と考えるようになった。
そうだ、母から授かった「ギフト」を、最大限に生かす方法があるはずだ。
その日から14年。
30歳手前の私は、いまNHKで国際部の記者として仕事をしている。それは母の「ギフト」のおかげだと、言えるようになった。
さて、物語はここで終わり、のようにも見えるが、実はここからが本題だ。
私を呪縛から解いてくれたのは、いまは亡きある人のおかげだったのだ。その人は、「特攻隊員」だった。
運命の「出会い」
2015年。
私はNHKに入局し、初任地として縁もゆかりもない鹿児島県に配属された。
新たに赴任した職員を対象にしたオリエンテーションで訪れたのは、南九州市にある「知覧特攻平和会館」だった。鹿児島県は太平洋戦争中に多くの特攻隊員が飛び立った場所で、中でも知覧町(現在、南九州市)には特攻飛行場が作られ、特攻作戦の拠点となったことで知られている。
館内に、壁一面に特攻隊員たちの遺影が並んでいる場所があった。何気なく見ていると、1枚の遺影が目にとまり、私は釘付けになってしまった。
知っている…彼のことを知っている!
「富永靖」
飛行服をまとい、飛行帽の上から日の丸の鉢巻きを巻いた、まだあどけなさの残る男性。彼だ、彼のおかげなんだ。
転機を与えてくれた、あの英語弁論大会。
大学生になった私は、大会の運営団体を手伝うようになった。その過程で大会の歴史を学ぶ勉強会に参加し、こんなことを聞かされていた。
「弁論大会は、戦争で生き残った元特攻隊員によって設立された」
命を懸けて戦った”敵国”の言葉を、特攻隊員がなぜ。初めて聞いた時は、「英語」と「特攻隊員」というキーワードが、頭の中でつながらなかった。
「高円宮杯全日本中学校英語弁論大会」は、終戦から4年後の昭和24年に始まる。創設したのは、鈴木啓正。彼は、元特攻隊員だった。
鈴木には、大会の実現を約束した親友がいた。中学の同級生、富永靖。2人は将来、英語弁論大会を作ろうと約束していた。
しかし夢が実現する前に、日本は戦争に突入。2人は別々の特攻隊に志願し、富永は帰らぬ人となった。生き残った鈴木は、友との約束を果たすため、大会を設立したという。
私を救ってくれた大会は、命を越えて男たちが思いをつないだ果てにあったのだ。2人のエピソードは、強く心に刻まれていた。
その富永と、私は偶然にもここで会ってしまった。遺影から目が離せなくなり、気づくと臆面もなく涙をこぼしていた。
周囲は、随分と感じやすい新人記者が来たものだと思ったことだろう。でもそんなことはお構いなく、私はまるでここに導かれたように感じていた。
取材をしなかったら、一生後悔する
彼のことをもっと知りたい。
記者になったのだから、自分の手で取材がしたい。
しかし取材経験がほとんどゼロの自分にできるはずがなかった。そして入局直後の記者には、「サツ回り」が待っている。事件や事故の取材に追われる毎日。時間だけが過ぎていった。
そんな忙しさの中でも、私の脳裏から富永の遺影が離れることはなかった。
自らの夢を果たせず、特攻隊員として国のために死ぬことを命じられた青年は、どのような心境だったのか。
2019年。
鹿児島に赴任して4年余りの歳月が流れた。ここでの勤務も、終わりが近い。
「この話を取材せずに異動したら、自分は一生後悔するかもしれない」
なんとか、ニュースの取材につなげる方法はないか。気づくと私は、古巣である英語弁論大会の運営事務局に電話をしていた。
事情を話すと、事務局長は快く相談に乗ってくれた。彼女もまた、大会の歴史が参加者にすらあまり知られていないことを、残念がっていたのだ。
彼女が情報をくれた。ある大学4年生が、「英語弁論大会の成り立ちに興味を持っている」というのだ。あの戦争から72年がたち、戦争を知らない世代への継承が課題となる中、若者が歴史を探る。それは、ニュースの題材になるだろう。
私は大学生に密着する形で、取材の旅に出た。
友と描いた夢
取材を進めると、弁論大会を創設した鈴木の妻が存命であることがわかった。彼女は都内に在住しているという。
「ごきげんよう」
鈴木の妻、84歳の順子さんは、落ち着いた上品なたたずまいの女性だった。
まず尋ねたのは、弁論大会を思い立った背景についてだ。
「主人は純粋な人でした。世界に開かれていないと日本は孤立してしまうと、小さいころから考えていたようです」
実は鈴木の親戚に、ジャーナリストで歴史家としても著名な徳富蘇峰がいた。徳富やその周囲の大人の話も聞いたことで、鈴木は若いころから日本を動かす人たちに語学の知識がなく、世界情勢にも疎いことに危機感を抱いていたという。
そして中学生になると、同級生の富永とともに「英語を普及させよう」と英語弁論大会の構想を思い描き、2人で実現することを約束した。
鈴木(左)と富永(右)
しかしそんな夢の実現は、時代が許さなかった――
神様、もし生き残ることができたなら
2人は陸軍士官学校に進学。その後、別々の「特攻隊」に配属された。訓練に明け暮れる毎日だった。
終戦間際の1945年春。
鈴木のもとに突然、富永からの手紙が届いた。
「出撃のときは父から贈られた日の丸で鉢巻し、母から頂いた千人針を身につけて行きます。敵艦に突入するとき、君の名を叫びながら。さようなら」
友が、逝ってしまう。
もう二人でともに、あの夢を実現することはないのだ――
その1週間後、鈴木のもとにも特攻への志願書が届いた。友のために流した涙が乾ききらない中で、自らも、志願した。
志願すれば、夢は完全に潰える。断ることはできなかったのか。順子さんは「今の若い人にはわかりにくいかもしれない」と前置きした上で、こう語った。
「当時の若い人たちはもう、生きるか死ぬか、むしろ選択肢がないくらい日本の状況が切羽詰まっていました。お国のために戦わなければ誰が国を守るか、という時代でしたから」
その時の鈴木の心情を記したものが、残っている。
「神様、自分は国のために死ななければならない。でも生きたい。もし、生き残ることができたら私が富永君と中学時代から計画していた英語弁論大会の事業を必ずやります」
しかし鈴木が特攻に出る前に、戦争は終わりを告げた。彼の祈りが届いたのか。
「戦争で、大勢の若者の夢を打ち砕かれてしまった。今こそ、富永さんとの約束が生かされる時がきた」
順子さんは、そんな強い思いが鈴木の原動力だったと話した。
1949年。
鈴木は、大会を実現した。その後も運営に情熱を注ぎ、15年前、82歳で亡くなった。
取材を終え、順子さんにお礼を言って、家をあとにしようとしたとき、こう声をかけられた。
「取材をしてくださって、ありがとうございます。主人も喜んでいると思います。頑張ってくださいね。主人の願いは、あなたのような若者が夢を持って生きることですから」
彼らの描いた夢。そこに、私は確かにつながったのだ。その時初めて、英語弁論大会の「意味」を理解した気がした。
夢とは
大学生の時、バックパッカーとして、東南アジア、南米、中東を訪れ、貧民街や難民キャンプなどに滞在し、多くの人たちと交流した。母がくれた「ギフト」である英語は、人々との距離を縮め、視野を大きく広げる武器であることを実感した。
どんなに貧しく、厳しい環境に置かれても、笑顔でたくましく生きる人がいた。当たり前の暮らしがあった。そんな中から浮かび上がる、それぞれ国の現状や、問うべき姿があった。
目の前で起きていることを、ありのまま、少しでも多くの人に届けたい。それが私のいまの夢だ。
「自由に夢を持てる日本になってほしい」と、特攻隊員だった2人の若者が残してくれた遺産、それは少なくとも、言葉の壁で人生に絶望しかけていた15歳の少年を救ってくれた。この出会いは、決して偶然ではないと思う。
そして大人になったその少年はいま、あなたたちの遺志を継ぎたいと、これほどにも強く願っている。
「夢を持って生きる」というありふれた日本語は、こんなに重く、かけがえのないものなのだ。私はいま、それを胸を張って言うことができる。
山本 健人 報道局 国際部
2015年入局。初任地・鹿児島局を経て、2020年夏から国際部。今は特派員を目指す。鹿児島局では事件や災害取材のほか、2年間、世界自然遺産への登録を目指す奄美大島に1人住み込んで取材。時には地元の課題に厳しく切り込むことが、記者として自分の担当する地域への愛だと学んだ。