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「沖縄に雪が降る?!」50年前に広まったうわさ話の真相追いかけたら"おばあ"にたどりつきました

「沖縄が日本に戻ったら雪が降る!」

これ実際に今から50年前、沖縄がまだアメリカ統治下だったころに広まったうわさ話です。

SNSのない時代に、
どうしてこんな突拍子もないうわさ話が広まったのか?
いったい誰が広めたのか?

ふだんの取材では”ライバルどうし”の「NHK」と「沖縄タイムス」が今回はタッグを組んで、うわさの真相を追いかけました。

どうしてタッグを?

うわさの真相を追いかけることになった経緯を、はじめにちょっと説明させてください。

沖縄は戦後27年の間、アメリカの統治下に置かれていました。
ことし5月15日で、アメリカの統治下から日本に復帰して50年の節目を迎えます。

「日本復帰」は沖縄の歴史上、まさに大転換期といえるものでした。
当時を知らない人はなかなか想像しにくいかもしれませんが、復帰前の沖縄では、通貨はドルで、車は右側通行だったんです。

復帰後、銀行ではドルから円の切り替え作業に追われ、道路ではバスなどの大型車両の事故も相次いだそうです。当時の県民の生活に大きな影響を与え、それは今の生活にもつながっているといえます。

ですが歴史の教師などで作る「沖縄歴史教育研究会」による調査では、「復帰の日」を知っている沖縄の高校生はわずか22%という衝撃の結果も…。

50年も前の出来事だけど、今の沖縄、これからの沖縄を語る上で欠かせない「日本復帰」という重要な出来事を沖縄や本土の若者に知ってほしい。そして次の世代に伝えていかなくては。

危機感を持った私たちは、ライバルどうしというメディアの垣根を超えて取材班を立ち上げ、異例とも言えるプロジェクトを始動させたのです。

「復帰」を知らない私たち

プロジェクトに加わったのは、20代中心の若手メンバー。NHKは、入社5年目でカメラマンをしている私、斎藤大幹と、入社4年目の荒木さくらアナウンサー、沖縄タイムスは入社5年目の豊島鉄博記者など、総勢10名ほどのメンバーが参加しました。

ロゴ入り集合写真

私も荒木アナウンサーも沖縄には縁もゆかりもなく、「復帰」について恥ずかしながら教科書で習った程度の知識しかなく、なかなか実感を持つことができませんでした。

一方の沖縄タイムスの記者たちも、自分たちの両親が子どものころに起きた出来事で、沖縄出身ではあってもどこか遠い話のようで、身近に感じられないといった声があがっていました。

危機感を抱いて動きだしたものの、私たちも復帰について「よく知らない」という若者たちと同じ立場だったんです。

そんな私たちが何を伝えられるのか、このプロジェクトにどう関わったらいいのか戸惑いましたが、そんなことを言っている場合ではありません。

縁あって復帰から50年という節目に立ち会い、伝え手としての役割を担った以上、少しでも復帰について関心をもってもらいたい、そのためにはどうすればいいのか、そんなことについて、ぐるぐる頭を巡らせる日々が始まりました。

#復帰検定 、始めます

若者に届けるなら…“復帰をラップで伝えてみたらどうか”

復帰からの50年間で一番印象的だった思い出をラップでメドレーしてもらおうと大真面目に提案したものの、私の案はあえなく却下。映画「この世界の片隅に」のすずさんのように戦時中、懸命に暮らしていたエピソードを募る「#あちこちのすずさん」の復帰バージョンをやったらどうかといった意見なども出たのですが…

メンバーの関心を最も集めたのが「京都検定」でした。京都の歴史や文化について理解を深めてもらおうと2004年に京都商工会議所が実施して話題となり、ご当地検定がその後、全国各地に広がり、ブームになったのです。

「京都検定」のようにクイズ形式にしたら、復帰でよく語られる基地問題や日米間の交渉といった難しい話も、とっつきやすくなるのではないか?
SNSを使ってクイズを出して解答してもらえば、伝えるばかりの一方通行じゃない、双方向のやりとりもできるんじゃないか?

歴史的な出来事から人々の暮らしに関するエピソードまで幅広く出題し、少しでも「復帰」を身近に感じてもらい、知ってもらおうと、私たちは「#復帰検定」を作ることにしたのです。

うわさの真相、追いかけることに

ただ、肝心の問題は何を出したらいいか…
議論している中で、ある本に書かれた一文が目にとまりました。

「子どもたちの間では『復帰すると、沖縄にも雪が降る』という噂があった」
(ぼくの沖縄〈復帰後〉史プラス 新城和博)

復帰について語られるのは、通貨や交通の変化といったよくある話か、基地問題や日米間の交渉といった話が多いように感じていました。

雪のうわさ話はいったい誰が言い出して、どのように広まったのか。
うわさの真相を追いかけたら、これまで報道やニュースから取りこぼされてきた市民の目線からみた復帰の側面を知ることができるんじゃないか。

当時の資料や映像に出てくる、路上でドルを片手に野菜を売る女性たちや、手作りの日の丸をかかげる子どもたち。彼らが日本への復帰についてどう感じ、何を考えていたのかを取材し、伝えたいと思いました。

ここから「復帰」を知らない私たちの取材が本格的に始まったのです。

子どもたちの想像力がうわさ話に?

「あのさ、雪ってみたことある?」
「ないさぁ。お前はあるの?」
「あるわけないだろ。沖縄は雪ふらないんだぜ」
「ナイチは降るんだよね」
「うん、テレビで見た。いいよね。ナイチは雪が降るから。雪だるまとか作ってみたいさあね。雪合戦とかしてみたい。なんかさ、雪でおにぎりみたいのを作ってそれを転がしたらどんどん大きくなって雪だるまが作れるってよ。テレビで見た」
「いいなあ。ナイチは」
「でもさあ。沖縄もフッキしたら日本になるんだよね。そしたら、雪も降るのかな?」
「だーる。降るかもよ」
「降らないかなぁ」
「降ったらいいよねー」

(「ぼくたちの1972年 沖縄の少年と家族の日本復帰」宮城能彦)

これは書籍「ぼくたちの1972年」の一場面。当時小学6年生だった宮城教授が体験したエピソードがつづられていて、復帰前に実際に友だちと交わした会話です。

当時のうわさ話は、雪だけではありませんでした。

いったい日本に復帰したらどうなるんだろう?
そんな疑問に子どもたちの想像力が働いたのか、子どもたちの間ではいろんなうわさ話が広がっていました。

「日本に復帰したら、沖縄と九州地方がくっつく」
「日本に復帰したら、沖縄に電車が通る」

沖縄の子どもたちは変なうわさ話をしていたんだなと思った人もいるかもしれません。そんなあなた、こちらの絵をご覧ください。

ロゴ入り「写真提供 浦添市美術館」 琉球八景 龍洞松濤 (1)

(写真提供:「浦添市美術館」 琉球八景 龍洞松濤)

江戸時代に葛飾北斎が描いた「琉球八景」のシリーズの1枚。
当時の沖縄は琉球王国で、一度も異国の琉球に足を運んだことのない北斎は「沖縄に雪が降っている」風景を描いていました。それどころか、富士山まで描かれています。異国への想像力とは、こんなにもロマンチックで、とっても豊かなものだったのかもしれません。

沖縄に雪降ったことある?

そういえばこれまで沖縄に、雪って降ったことあったのだろうか。
気象について知るには、沖縄気象台に聞くのが一番早くて正確。ということで担当者に聞いてみると「沖縄に雪が降ったのは過去に複数回(琉球王国の時代だった1700-1800年代には「あられ」は52回以上)古くは江戸時代にも降った」と歴史書「球陽」に記されていると教えてくれました。

驚くことに沖縄に雪が降ったことはあったというのです。
復帰後の1977年2月17日、最低気温が6.7度だった久米島でみぞれを観測し(みぞれは分類上は雪なので)1890年に気象台が設置されて以降、沖縄で初めて雪を観測したといいます。

ただ「復帰直前に雪が降ったという観測はない」とのこと。
ということは、復帰前の沖縄の人たちは一度も雪を見たことがない?
雪のうわさ話は、あくまで想像上の話だったのだろうか?

担当者によると50年前の年間平均気温は今より1、2度低かったそうで、当時は暖房設備も整っていなかったため、体感としてはけっこう寒かったのではないかといいます。こうした寒さが、雪が降るんじゃないかとうわさにつながった可能性はあるのかもしれませんが、これだけでは、うわさの真相にはたどり着けませんでした。

うわさ話、知っている人はどこに?

知り合いやこれまでお世話になった取材先に片っ端から当たり話を聞いてみると、うわさ話を知っている人がいました!

「雪のうわさ話は学校で友だちと話していたけど、あくまで冗談の範囲。実際には信じていなかった」

当時小学4年生だった南風原文化センターの平良次子さんの話では、住んでいた沖縄中部だけではなく、遠く那覇の友人も知っていたらしいので、どうやら局地的なうわさ話ということではなさそうです。

ロゴ入り平良さん

それに当時、次子さんの周りでは「雪」だけでなく、「名字が変わる」といううわさ話も流れていたといいます。

沖縄には独自の名前の読み方が多く、これが本土の読み方になるのでは、といううわさが広まっていたようで、実際に次子さんの友だちは、両親が営んでいた商店が「桃原(トウバル)商店」から「桃原(モモハラ)商店」に変わったそうです。

次子さん自身も、名前が「平良(タイラ)」から「平良(ヒララ)」になると信じていたといいます。

雪のうわさ話を知る人にはたどり着けましたが、うわさの出どころやどうやって広まったのか、まだまだ謎につつまれたままです。

うわさの出どころは、デパート?!

取材先に片っ端から当たったものの、平良さん以上の情報を持っている人はおらず、思っていた以上にうわさ話を知っている人はいませんでした。どうしたものかと取材に行き詰まった私たちは、実際に街に出て、突撃取材することにしました。

NHKは那覇市の商店街へ、沖縄タイムスは那覇市から車で20キロほど離れた沖縄市の商店街へ、それぞれ取材を分担。同じ取材班とはいえ、やはりライバル意識とプライドもあります。

相手よりいいネタを見つけてやろうと意気込んでいました。

ロゴ入り2ショット

   (左:沖縄タイムス 豊島記者 右:NHK荒木アナウンサー)

そこでNHKアナウンサーの私(荒木)が訪れたのは「まちぐゎー」と呼ばれるエリア。沖縄最大の観光地「国際通り」に隣接する、市場や商店街がひしめく場所です。

「笑わかすんじゃないよ」
「沖縄に雪が降るはずがないだろ」

朝から日が暮れる時間まで声をかけ続けましたが、雪のうわさ話を知っている人がぜんぜん見つからない…もうダメだと、心が折れそうになったころ「雪のうわさ話、聞いたことがあるよ」という人を発見しました!

当時小学5年生だった翁長巳酉さんです。

ロゴ入り翁長さん

「たぶんデパートの雪まつりが出どころじゃないかな?」

当時、沖縄にあったデパート「沖縄三越」では、子どもたちを喜ばすために、本土から毎年雪が送られてきたというのです。

調べてみると、沖縄アーカイブ研究所に、デパートの屋上遊園地の映像が確かにありました。

ロゴ入り屋上遊園地

(映像提供:沖縄アーカイブ研究所 1975年 沖縄三越の屋上遊園地)

残念ながら、雪で遊ぶ子どもたちの映像は残っていませんでしたが、翁長さんによると遊園地いっぱいに雪がまかれていたといいます。

どんな味がするんだろうと雪を食べてみたり、どんどん雪が溶けていってTシャツがびしょびしょになっても遊んでいて親に叱られたりした思い出を、懐かしそうに話してくれました。

2日間かけてヘトヘトになりながら30人ほどに声をかけ続けた結果、雪のうわさの出どころかもしれない話を聞くことができたのが、何よりの収穫でした。

大人の冗談だった?!

一方で沖縄タイムスの私(豊島)は、沖縄県内で2番目に人口の多い市町村、沖縄市の街なかへ。沖縄市は通称「コザ」とも呼ばれる地域で、2019年から約2年間担当していたこともあり、個人的になじみが深い場所でもあります。

コザで最も大きな商店街「一番街」。復帰当時、コザの街は、米兵相手の商店が軒を連ねていました。復帰前からコザで暮らし、街の歴史に詳しい「まちづくりNPOコザまち社中」理事長の照屋幹夫さんなら何か知っているのではないかと思い、話を聞きに行くことにしたのです。

予感は的中でした。

「子どもたちが雪のうわさについて話しているのをよく耳にしたよ」

当時高校3年生だった照屋さんは商店街の店先で、大人が子どもたちに「復帰すると雪が降るかもよー」と話している光景をよく目にしたといいます。

ロゴ入り照屋さん

日本への復帰という社会が大きく変わる出来事を「暖かい沖縄で雪が降るくらいの変化」に例えた大人たちの冗談だった。それぐらい「復帰」は誰にとってもインパクトのある出来事だったんだと、当時を振り返って語ってくれました。

あわせて当時、同級生の間では「米軍関連の事件・事故が減るのでは」という期待も広がっていたと教えくれました。復帰前、コザの街では米軍関係者による事件・事故が相次いでいたのです。照屋さんは、復帰の1年半前の1970年12月、アメリカ兵が運転する車が住民をはねたことを発端に起きた米軍関係車両の焼き討ち事件、「コザ騒動」を目撃していました。

ロゴ入りコザ暴動1

集まった人々が約80台の車両に火をつける事態にまでなったのです。アメリカ統治下の沖縄では、米軍関係者による事件や事故が起きても裁く権利はなく、差別的に扱われてきたことへの怒りが、こうした「暴動」へと発展していったともいわれています。

「米兵は何をしても裁かれないという状況が変わるのではとみんな期待していた。けれど、復帰後もそれは全然変わらなかった」

雪のうわさ話をたどる取材でしたが、コザの街を生きてきた人の話を通して、沖縄の人たちが長年抱えてきた怒りや痛みにも触れ、戦後史の一端が垣間見えた気がしました。

そしてうわさ話の出どころはというと、大人の冗談だったのではないかという説も飛び出したのでした。

おばあの存在

「『ナイチ(日本)になったらユチ(雪)も降るってさ』って"おばあ"が若い人をからかって言っていたよ」

私(荒木)が那覇市の商店街で取材を続けていると、複数の人から「おばあ」と呼ばれる人が、雪のうわさ話を広めたという情報が入ってきました。

「おばあ」とは、いったい何者?

「おばあ」を掘り下げるべく話を聞きに向かったのは、那覇の市場や商店街の歴史について詳しい那覇市文化協会の野原巴さん。野原さんは「おばあ」とは、復帰前のまちぐゎー(市場や商店街)で働いていた女性たちのことだと教えてくれました。

ロゴ入り野原さん2

歴史をさかのぼると、戦前の那覇市の中心地は海岸側にありました。しかし、戦後まもなくは米軍の占領下に置かれ、中心地に住民が立ち入ることはできませんでした。そんな中で住民にいち早く開放されたのが、いまの那覇の中心地になっているエリアでした。

そこで食器などの生産が始まると次第に県内各地から大勢の人が集まり、「闇市」が形成されていきました。

徐々に整備が進んでいくと市場や商店街へと姿を変えていき、まちぐゎーは誕生したのです。そんな戦後のまちぐゎーで特に目立ったのが、戦争で家族や夫を亡くした女性たちの姿でした。

ロゴ入り那覇市歴史博物館提供

        (写真提供:那覇市歴史博物館)

ロゴ入り大里喜誠氏所蔵 那覇市歴史博物館提供

(写真提供:大里喜誠氏所蔵 那覇市歴史博物館)

太平洋戦争の末期、沖縄は本土防衛の最前線とされ、激しい地上戦が行われました。沖縄戦では20万人を超える人が亡くなり、県民の4人に1人が命を落としました。戦後まもない1946年1月調査では、男女の比率が3:7という試算(16歳~65歳。1946年1月沖縄諮詢会調査)も出ています。

復帰当時、あたり一帯は、商品や洋裁を売る女性たちであふれていました。まちぐゎーは、そんな女性たちが互いに支え合いながら懸命に生き抜いてきた場所だったのです。

復帰を控えた70年代初頭、経済状態は改善していくものの、まだまだ生活は苦しかった時代。「おばあ」たちは朝日が昇る前から働き始め、夜遅くまで商売を行う生活を送っていました。そんな「おばあ」にとって、貴重な息抜きだったのが、仕事途中のわずかな「ゆんたく(おしゃべり)」だったそうです。

おばあ 野菜売る

野原さんによると「おばあ」たちは苦しい中でも必死に明るく前を向いていくために、積極的に冗談やうわさ話をしていたといいます。
雪のうわさ話が広がった背景を探ると、戦後の苦しい生活の中でも、たくましく、そして楽しく生きようとしていた沖縄の人々の姿が浮かびあがってきました。

真相を追いかけたら…

雪のうわさ話の真相を取材班で追いかけましたが、調べれば調べるほどいろんな説が出てきて、結局のところ、これが真相だ!と言い切るところまではたどりつけませんでした。

それでも、当時の子どもたちの想像力や大人の冗談が「沖縄に雪が降る」といううわさ話を生み出したのではないかということ、そこには当時の沖縄の人々の復帰への不安や戸惑い、期待といったさまざまな感情が映し出されていたこと、そして戦後の厳しい暮らしの中、前向きに強く生きようとしていた人々の姿があったことを知ることができました。

もしかしたらうわさ話は、当時の人々の生きていく活力にもなっていたのかもしれない。

取材を深める中で、私たちの意識にも変化が生じていました。復帰当時を知る人たちと出会い、話をすることで、「復帰」が血の通ったことばになり、自分たちの生活にも関わる出来事として、今までよりも身近に感じることができるようになっていました。

コラボで伝えました

この雪のうわさ話の内容は、テレビと紙面で大きく伝えました。NHKと沖縄タイムスのコラボ企画として、沖縄タイムスの紙面には荒木アナウンサーの取材報告を掲載し、NHK沖縄放送局では豊島記者がスタジオ解説を行ったのです。

ロゴ入り番組2ショット

Twitterでもこのうわさ話を「#復帰検定」にして伝えたのですが、正直なところ、若者にはまだまだリーチできていないと感じています。復帰についてもっと関心をもってほしいけれど、どうやったら、届けることができるのか、どうやったら、伝わるのか、そう簡単なことではないと改めて痛感しています。

これからのこと

それでも、試行錯誤しながら、雪のうわさ話以外にも、クイズ形式の問題をつくって発信しています。

「戦後まもないころ、あるものでウエディングドレスが作られました。あるものとはいったいなんでしょう?」

「米国統治時代の1958年、沖縄から首里高校が日本の甲子園に参加しました。この時の球児たちの経験は、のちの復帰運動につながる要因の一つになったと言われています。それは何でしょう」

ロゴ入りTwitter復帰検定

これまでおよそ50問の復帰検定を発信し、取り組んだ人からは、好評の声もいただいています。どれも思いを込めて作ったので、みなさん、ぜひチャレンジしてみてください。(Twitterアカウント「#復帰検定~オキナワココカラ」@okinawakokokara/@okinawa_nhk)

復帰検定について知ってもらう機会をもっと増やそうと、著名人に検定にチャレンジしてもらったり、大学や高校の授業でも検定が活用され始めています。

気持ちが空回りして時にはうまくいかないこともあるけれど、「復帰」を知らない私たちらしく、等身大でこれからも沖縄の歴史のこと、文化のこと、人々のことを見続け、掘り下げ、発信し続けていきたいと思っています。

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「50年前の沖縄にタイムトラベル」

今回取材した那覇市のまちぐゎー、沖縄市のコザ、その50年前の姿がなんとCGでよみがえります!5月11日放送のクローズアップ現代では、歴史資料や取材から、1972年の沖縄をVR空間で再現。50年前の沖縄に何があったのか?人々はどんな思いで本土復帰を迎えたのか?番組でお伝えしました。ぜひご覧下さい。

クローズアップ現代の見逃し配信はこちらです。

【執筆者】

斎藤大幹 カメラマン NHK沖縄放送局

斎藤1S

沖縄に来てから、1年半経ちました。復帰とは何だったのか?まだまだ分からないことも多いですが、ひとつひとつの出会いを大切にして、沖縄の歴史や文化を勉強しています。沖縄の戦後に向き合い、これからの沖縄を考えていけるような取材ができるように頑張ります。

荒木さくら アナウンサー NHK沖縄放送局

荒木アナ切り取り

本土復帰について取材をする中で、私が今まさに住んでいる沖縄で当時どんなことがあったのか、もっといろんな人に話が聞きたい!もっと知りたい!と思うようになりました。興味深いと感じてもらえるようなクイズをたくさん作ったので、復帰検定にチャレンジして、少しでも沖縄について知る・考えるきっかけになればと思います。

豊島鉄博 記者 沖縄タイムス 

豊島記者

NHK職員以外の記者がNHK取材ノートに初めて登場するのが自分になるとは、びっくりです。新聞記者でテレビに出ることができましたし、メディアの垣根を越えてチームで取材することのおもしろさや良さを感じることができました。「復帰って何?」という平成生まれの世代にも刺さり、沖縄が独自の道のりを歩んでいったことを知ってもらえるような企画を作ろうという心意気で取り組んでいます。



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