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”朽ちたシーサー“みたい? 沖縄で取材を続けて28年の今、私だから語れること

「沖縄局に何年いるの?」
「秘密です!離島だから、東京の人事が気づいてないのかもw。このまま退職まで気づかれずにずっといられるといいんですが」

今まで出張で沖縄に来た人たちと、何度となく交わしてきた会話です。もはやそうした質問すら出ないほど、沖縄での勤務が長くなりました。

東京での3年間を除いて、沖縄勤務は通算28年。取材にも子育てにも、奮闘しながら何とか続けています。

メディアで働く若い人や記者志望の学生さんの中には、地方への転勤や、育児しながらの仕事に不安を感じている方も少なくないと思います。

屋根の上の「シーサー」のように出身地の沖縄を見つめ、全国に発信する機会を与えてもらっている記者として、地域で働き続けることのだいご味をお伝えできればと、このnoteを書きました。

長くいるから取材先にとことん向き合える

私の現在の担当は「遊軍記者」という、記者の中でもいわば「何でも屋」です。去年までは沖縄の本土復帰から50年の取材がメインでした。
ことしに入って、もともとの担当の「沖縄戦」や「教育」「環境」などの取材をしています。

地域に長くいることで感じるやりがいと言えば、まずは取材先にとことん向き合えることだと思います。

ことし1月、沖縄戦の語り部のシンボルのような存在だった中山きくさんが、94歳で亡くなりました。

中山きくさん

環境問題の取材に出ようとした矢先にきくさんの訃報を聞いた私は、短い速報を書いたあと、取材に向かう車の中で詳しい原稿を書き進めました。

きくさんと初めて出会ってからもう18年になります。きくさん御用達のホテルのラウンジでお茶したり、マイカーの助手席に乗ってもらったり、なぜか取材での話より合間のやりとりばかりを思い出して、涙で原稿が進みません。

早く書き上げなきゃという焦りと、心をこめてもっと書きたいという思いとが交錯するなかで、何とか原稿をまとめました。

年々、沖縄戦の体験者が逝ってしまう中で、きくさんの死は思った以上に私にダメージを与えたようで、きくさんが夢に出てくるほどでした。

「亡くなった人は夢に出てきても声を出してくれない」と親から聞いたことがありますが、きくさんは私の夢の中で確かに「西銘さ~ん」と声を出して呼んでくださいました。沖縄戦で焼失した、きくさんの母校の跡地のバス停の前で。

その母校の女子学徒などを悼む慰霊の塔を、きくさんは毎年の「桃の節句」に訪れていました。そのことを聞いたのは、きくさんと出会ってしばらく(12年!)たってからのことでした。

きくさんや沖縄戦を知らない人にも読んでもらおうと書いた記事が、こちらです。

デスクは私が最初に書いたバージョンの原稿も残してくれていました。
そこにはきくさんとのやりとりをより詳しく書いていて、読んだ後輩たちは、
「ずっとつきあいがあったからこその記事でした」
「知らなかったきくさんの一面がわかりました」
「涙が出そうでした」
などと言ってくれて、同じ地域で取材を続けることの意味とかやりがいとか、少しは若い人たちにも伝わったかなと思いました。

どんな取材でも「次につながる」

長くいることのだいご味のもう1つは、どんな取材でもほぼ100%、次の取材につながる実感があることです。

4年前に夜のニュース番組で、アメリカ軍普天間基地の、名護市辺野古沖への移設をめぐる特集を組むことになりました。

ニュース番組の担当者からは「賛成、反対ではなく、どちらも言えず悩んでいる複雑な沖縄の人たちの声を届けてほしい」という要望がありました。

私たち記者にとって、「市井(しせい)の人」の声を紹介することは大切ですが、「肩書き」のある人や「運動体」の人ではない一般の人、「市井の人」ほど難しい取材はないと感じています。

「多くの人の中でなぜこの人を、この意見を紹介するのか」ということが問われます。私に任されたのはその「市井の人」の取材でした。

何人かにあたりましたが、「普天間や辺野古に関する取材は受けられない」とみなさんに断られました。

基地問題は沖縄にとって本当は暮らしの問題でもあるのに、もはや「政治問題化」されてしまっているので、「政治的発言はしたくない」と断られるのが常なのです。

新たにリサーチする余裕はなく、これまで取材してきた人たちの名刺をひっくり返しました。

普天間基地のある宜野湾市に自宅や職場がある人を見ていると、以前、アマチュア写真展の短いニュースの取材で出会った方の名刺がありました。作品を撮影させてもらったあとで話し込んだ方だったので、連絡をとると先方も覚えてくれていました。

そのときは取材に快諾していただいたものの、ロケの前日になって、「やっぱり(テレビには)出ない方がいいのでは」と、かなりナーバスになっていて、電話の向こうで半泣きのようになってらっしゃいました。

沖縄でアメリカ軍基地についての取材を受けることへの精神的なプレッシャーは、私も、わかっているつもりでも毎回思い知らされます。

それでもこの方は最終的に取材に応じてくださって、番組が放送されたあと、東京の番組担当者からは「沖縄の特集は見応えがあった」と言われました。

取材の様子

毎日のニュース番組の中の、わずか1分40秒ほどのニュース。
その1分40秒にこそ、次のヒント、そしてその次のヒントが眠っています。

取材のあとで数年たってつながることもあります。だから数年ごとの転勤が多い全国メディアでは、どの記者にも当てはまるわけではないと思いますが、「これがいつかはつながって生かせる」と思えるのは、長くいるからこその強みであり、その確信があるからこそ日々の取材をより大事にできるという、好循環なのかもしれません。

特に思い出深いのは、毎月提案を出す5分の特集コーナーで取材した、ある戦争体験者との出会いです。
その出会いは戦後70年の大型番組(NHKスペシャル)と、私にとって思いもかけなかった受賞につながりました。

向き合い続ける沖縄戦

ことしも6月23日が近づいてきました。太平洋戦争末期の沖縄戦で、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日です。沖縄県が「慰霊の日」と定めています。

去年の「慰霊の日」のニュースより

この日は県の条例で公休日になっていて、戦没者を悼む行事が各地で行われます。沖縄の記者にとっても、1年で最も重要な日といっても過言ではありません。

私が毎年大切にしているのは、「慰霊の日」の意味を全国に伝えることです。

戦後70年の「慰霊の日」に向けて制作した番組、NHKスペシャル「沖縄戦全記録」も、その取り組みの1つでした。この番組が走り出したのは、5分の特集コーナーでの取材がきっかけでした。

NHKスペシャル「沖縄戦全記録」(2015年放送)より

1959年、アメリカ統治下の沖縄で、アメリカ軍嘉手納基地を飛び立った戦闘機が宮森小学校に墜落し、児童を含む18人が犠牲になり、200人以上がけがをする大惨事がありました。

事故から55年、この記憶を風化させまいと、事故に遭遇した当時の児童が初めて一堂に会する同窓会が開催され、私は取材に行きました。

仲間の児童が亡くなった当時の記憶を証言した佐次田満さんは、取材に来た私に、沖縄戦で生き残った父親のことを話し始めました。

佐次田満さん(2014年のニュースより)

父親は沖縄戦の終結を知らずに、アメリカ軍が上陸した沖縄の離島、伊江島の木の上で、2年もの間隠れ続けていたこと。
そして数年前に亡くなった父親の戦争体験の証言がテープに記録されていて、大学の名誉教授が持っていることなどを話してくれました。

そのときは、沖縄戦とアメリカ統治下の悲劇をそれぞれ体験した佐次田さん親子の体験を伝えようという気持ちで、テープを持っているという沖縄国際大学の石原昌家名誉教授を訪ねました。

石原さんはテープを貸してくださっただけでなく、数十年にわたって聞き取った沖縄戦の体験者の証言などを記録した約1000本のテープも、私に託したいと言ってきたのです。
「あなたらなら活用してくれるだろう」と。

体験者の証言などを記録した膨大な量のテープ

私はまず数本のテープをお借りしたあと、職場の隣の電器店にカセットデッキを買いに行きました。

家族が寝静まったあとでテープをデッキにかけて再生ボタンを押すと、聞こえてきたのは沖縄戦の、凄惨な、生々しい体験の証言です。

私がそれまで沖縄戦の体験を聞いてきた人たちは、当時まだ10代から20代前半の世代の人たちでした。

もっと上の世代、子どもを抱えながら銃後の母親として沖縄戦を生き延びたり、戦場に動員されて九死に一生を得たりした男性など、悲惨な体験をされた人たちからは、「思い出したくない」と、ほとんど証言を拒まれてきました。

ですので音声による鮮明な記憶の証言は、これまでにないリアルさで迫ってきました。

東京や沖縄局のディレクターや記者などとタッグを組んで、日本だけでなくアメリカ軍の当時の兵士など多くの体験を追跡取材して、番組「沖縄戦全記録」は完成しました。

番組の取材風景

いろいろな人が見てくださって、「全国に伝える」という思いはある程度、達成できたと自負しています。そして一連の取材は、2015年度の新聞協会賞を受賞しました。

「沖縄戦」を取材すること。それは、重い口を閉ざしてきた戦争体験者の心に「土足で踏み込むこと」だと私は思っています。
でもなぜ踏み込ませて欲しいかを粘り強く説明し、理解してもらい目的を共有するという過程は、他の取材にも通じる作法だと思っています。

そして「土足で踏み込んで」証言をしてもらったからには、確実にその記憶を放送を通して継承していくという、取材者としての意志と覚悟と責任を、私の中に植え付けてくれました。

沖縄戦から今の沖縄の課題が見えてくることも多々あります。米軍基地、都市計画、福祉、医療、文化などなど。

何より人生の先輩である体験者の人たちと知り合えたことは、仕事でもプライベートでも参考になることが山のようにありました。

取材されることをためらっていた体験者の方々も、放送を見たあとは「取材してくれて伝えてくれて、ありがとう」とよく言ってださいました。でも、「ありがとう」を言うべきなのは私のほうです。

多くが天国に逝ってしまった体験者の方々を、がっかりさせないような記者であり続けたいと、背中を押してくださっているんですから。

※ここまで読んでいただきありがとうございました。まだちょっと続きます。後編の記事はこちらから。


西銘むつみ NHK沖縄放送局記者

2人の息子の母。バタフライピーという真っ青な色のハーブティーを愛飲。
局では毒薬を飲んで不老不死を目指しているのではとささやかれています。

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