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「入ったら15秒で死ぬビルがある」などといわれるのに「日本よりここがいい」と家族が話すヨハネスブルクで支局長が見た南ア社会の深い断絶

おととし(2022年)の末から南アフリカのヨハネスブルクに駐在している。去年からは妻とふたりの子どもたちも日本から合流した。
ネットで「ヨハネスブルク 治安」などと検索すると、「世界一治安が悪い」「最恐都市」「入ったら15秒で死ぬビルがある」などと物騒なタイトルの記事が表示される。確かに治安がよいとはとても言えないから正直、家族を呼ぶことはためらった。
それが今では妻も子どもも「日本に帰りたくない。ずっとヨハネスブルクがいい」などと話すほどになじんでいる。

そこに、ヨハネスブルクが抱える巨大な矛盾があるのだけど。

いつかはアフリカに

先月(2月)11日、私は西アフリカのブルキナファソの首都・ワガドゥグに向かっていた。ウクライナへの軍事侵攻を続けるロシアがアフリカでどのような活動を行っているか、現状を探るためだ。

2024年3月2日ニュース7で放送

ヨハネスブルクからまずエチオピアのアディスアベバに飛び、そこから飛行機を乗り継いでワガドゥグに。乗り継ぎ時間も合わせると16時間以上かかり、アフリカ大陸の広さを痛感する。

経由地のアディスアベバでは肌寒さを感じたが、ワガドゥグで飛行機を降りると40度近い強烈な暑さに襲われる。夜通しのフライトで寝不足の私は強い日差しで頭がクラクラしながら、空港ビルの入国審査の列に並んだ。長旅も気温や気候の変化も、もう慣れっこだ。

アフリカ取材に関わり始めて10年あまり、これまでに訪れた国は25か国ほど。アフリカには島しょ国を含めて54も国があるので、まだ半分にも達しない。いつまでたってもアフリカは私にとって「未知の大陸」のままだ。

「いつかはアフリカに行ってみたい」という想いは、1990年代、私の学生時代から常にくすぶり続けていた。

そのころのアフリカには希望と絶望とが入り混じっていた。南アフリカではアパルトヘイト(人種隔離)政策が撤廃され、1994年に全人種が参加した選挙を経てネルソン・マンデラが大統領になった。同じ年にはルワンダで80万人以上が殺害される大虐殺が起きた。

1994年 マンデラ大統領就任式

冷戦の終結によってアフリカへの大国からの支援が細り、不安定化した国々では内戦が頻発した。大学の講義では、母親の腕を切り落とすよう強制された少年兵や、暴行されて妊娠し行き場を失った少女の話などが、私の心に強く刻まれた。

2004年、NHKの記者になって最初に赴任した場所は広島。核廃絶運動を続ける被爆者たちがどれだけ声を上げても、核兵器は無くなるどころか、より強力になり世界中に拡散していった。被爆者は声を上げ続け、メディアはさまざまな形で伝え続ける。それに意味が無いとは思いたくなかった。世の中にはすぐには解決できない問題がたくさんある。でも解決できないから無視したり放置したりしていいわけではない。

これから自分はどういう記者を目指そうかと考えたとき、広島でも感じた「すぐには解決できないけど声を上げ続けなければいけない問題に取り組もう」と思った。

そうした問題が最もたくさんあると思ったのがやはりアフリカだった。貧困と格差、紛争、飢餓、病苦にもだえながらなんとか発展しようとしているアフリカを追いかけることが私の目標になった。

広島局から国際部に異動し、2012年からはアフリカ大陸と中東地域を管轄するカイロ支局に赴任した。それから日本に戻って番組のキャスターをつとめたあと、もっとアフリカにどっぷりつかりたいという希望がかなって、2022年末にヨハネスブルク支局に赴任した。

ヨハネスブルクで忘れてはいけないこと

NHKのヨハネスブルク支局に日本人の職員は私ひとりで、ほかに現地採用のカメラマンとドライバー、会計担当スタッフのあわせて3人が働いている。

支局はヨハネスブルクの中心地のやや北寄りにあり、大きなショッピングモールやオフィスビルが立ち並ぶ地域にある。この文章を書いている2月末は南アフリカでは夏が終わり、街路樹の緑が映える、爽やかな季節だ。

しかしNHKの支局前の通りといっても外国人が歩くことは危険だ。たとえ昼間でもスマホ強盗やひったくりに遭う可能性がある。私もほとんど歩くことはない。原則は「どんなに近くても車で移動すること」だ。

NHK支局前の通り。普通のビジネス街のようだが外国人には危険。

それでも毎回車を使うのもおっくうになって、支局の近くのショッピングモールやコンビニまで、歩いて行ったことがある。そのときはクレジットカードだけ持って、ビクビクしながら歩いた。交差点で横に人が立とうものならスリかひったくりではないかと疑う。たった数百メートルの距離でも、じっとりいやな汗をかいた。

この国の治安がどれほど悪いのか。南アフリカ政府が発表している犯罪統計によると、2022年4月からの1年間に起きた殺人事件の数は約27500件。1日75件の殺人事件が起きている計算だ。
日本は1日3件に満たない程度だから、人口が日本の半分ほどでも25倍の殺人事件が起きていることになる。殺人以外に強盗も性犯罪も誘拐も多発しているから、中学生の息子と小学生の娘を連れて赴任している身としては、身震いする数字だ。

「車での移動が原則」だが車をねらう強盗も多いので、後ろに不審な車が着いてきていないか、常に気にしながら走る。

もし後ろからついてくる車がいたら?

「目の前が赤信号でも止まってはいけない」と言われている。クラクションを大きく鳴らして交差点を突っ切って逃げる。車強盗の犯人はたいてい銃を持っているから、もし不幸にして強盗に銃を突きつけられたら絶対に抵抗してはいけない。さっさと車から降りて、おとなしく車を渡してしまうのが身を守る最善策だという。

南アフリカは銃社会だ。一般人でも免許をとれば銃を持てる。そのため強盗犯も、相手が護身用の銃を持っていないかと身構えている。下手に抵抗したり不審な動きをしたりすると、犯人側が恐怖に駆られて発砲するケースも多いという。

車強盗でさらに心配なのは車に子どもが乗っているときだ。どんなに嫌がっても怖がっても、子どもを先に車から降ろさないといけない。運転席の親が先に降りてしまうと、強盗犯が車に乗り込んで子どもごと連れ去って誘拐し、身代金を要求する事態に発展しかねないという。

わが家の子どもたちとは、「強盗に遭ったら落ち着いて、親よりも先に車道とは反対側に降りる訓練」をした。学校でも強盗への対応を学ぶ訓練が行われている。

そんなヨハネスブルクで強盗からねらわれるアイテムといえば、スマートフォンだ。日本のように路上で歩きながらスマホをいじろうものなら奪い取られてしまう。レストランでテーブルの上に置くのも要注意。スマートフォンは高値で売れるため、「手のひらに札束をのせて街中を歩き回っているようなものだ」といわれている。

住宅への侵入強盗も多い。空き巣だけでなく銃を持った強盗が家に押し入るケースも珍しくない。赴任したとき、自宅選びの第一条件はセキュリティーだった。

私が今住んでいるのはヨハネスブルクで最も治安がよいと言われる地域だが、それでもアパートの敷地のゲートには、24時間、銃を持った警備員が立って出入りを厳しくチェックしている。

アパートの入り口は電子キーで制御され、住民はタグをかざして出入りする。アパートのテラス側の窓にはよろい戸のようなシャッターがついていて、すべての部屋にはカギがかかるようになっている。家族とは、「最悪の事態が起きたら窓のない浴室に立てこもろう」と話している。

「街で最も危険な場所」で見た現実

治安が悪いヨハネスブルクの中でも特に危険だと言われる場所がある。
「CBD=セントラル・ビジネス・ディストリクト」と呼ばれる地区だ。支局のスタッフも「めったに近づかない場所」といい、日本の外務省もヨハネスブルクでこの地区だけを、危険度「レベル2」にしている。歩行者の首を絞めて金品を奪う強盗などが相次ぎ、日本人旅行者の被害も出ている。

2023年11月14日放送「南アフリカの格差の象徴“ハイジャック・ビル”」

そんな地区も以前はその名の通り「ヨハネスブルクの経済の中心地」で、企業のオフィスが建ち並んでいた。それがアパルトヘイトの撤廃後、これまで差別され移動を制限されてきた人たちが職を求めてCBDに押し寄せてきた。

しかし多くの人の期待に応えられるほどの仕事はなく、失業者があふれて治安は悪化。企業はCBDから撤退し、空き家になったオフィスビルに貧しい人や外国から移ってきた人たちが住み着くようになった。こうして占拠されたビルを、地元では「ハイジャックされたビル」と呼んでいる。冒頭に触れた「入ったら15秒で死ぬビル」と噂されている建物も、このハイジャックされたビルのひとつだ。

去年(2023年)8月、この地区の「ハイジャックされたビル」で火災が起きた。多くの人が煙に巻かれ、70人以上が死亡した。私たちはこの現場を取材しようと11月初旬、CBDに向かった。

火災が起きた”ハイジャック”ビル

支局からCBDまで車でわずか15分ほどだが、準備は入念に。地元に詳しい協力者を探し、今回は政党支部の現地視察について行くという形でCBDに向かった。いつもならどこへ行くにもカメラマン1人と記者(私)の2人行動だが、今回は不測の事態に備えてもうひとりのスタッフにも同行してもらった。

地元政党の幹部の案内で「ハイジャックされたビル」のひとつに入る。9階建ての、もともとアパートだったというビルに入るとすぐに、ゴミで埋め尽くされた空間が目の前に。エレベーターのあった場所だという。上層階の住人達がエレベーターのシャフトにゴミを捨て続け、累積していった結果が目の前のゴミの壁だった。無数のハエがあたりに飛び交っている。

”ゴミの壁”

今は電気も水道もガスも通っていないこのビルに1000人以上が暮らしているという。日差しもほとんど入らない薄暗い建物の中で、幼い子どもたちが母親に連れられて歩いている。廊下で住民の取材をしていると、突然上の階から生ゴミがドサドサと落ちてきて驚く。

政党幹部とそのスタッフが私たちを案内してくれたが、彼らも少し中を見ただけですぐに出ようとする。何とか粘って撮影を続けていたが、政党スタッフのひとりから「早く出た方がいい」と耳打ちされる。住民たちが外国のジャーナリストの“侵入”を快く思っていないらしい。こちらに向かって何かを叫んでいる人もいる。地元のことばが分かるカメラマンたちも不安になっていた。

早く撮影を終えなければと焦りながら、住民のひとりに部屋の中を見せてもらうことができた。このビルに20年以上住んでいるという40代の男性が暮らすのは6畳間くらいの部屋で、明かりはろうそくを使っていたが数日前にろうそくが倒れてベッドに燃え移り、もうすこしで大火事になるところだったという。あわてて火を素手で叩いて消したと話し、手にやけどをしていた。

過酷な暮らしの中でも男性の部屋は整頓されて掃除も念入りにされていた。日差しは入らず風通しも悪く、カビ臭い匂いが漂っていたが、可能な限り人間らしい生活を保とうと努力しているように見えた。

「犯罪の温床」などと呼ばれるビル。しかし一緒に訪れた政党の幹部に住民たちは、「仕事さえあれば一生懸命働く。私たちも南アフリカ人だ。犯罪者扱いせずに支援の手を差し伸べてほしい」と訴えていた。

治安悪化の背景に失業率の高さがある。全体の失業率は30%以上、24歳までの若者となると60%以上に仕事がない。生きていくために都市に流れ着いても仕事はなく、行き場を失って空きビルに流れ着く。

長年の闘争の末にアパルトヘイトが撤廃され、30年前の1994年に全人種が参加する民主選挙が実施された。この成功は当時、世界中に希望と感動を与えた。南アフリカの人だけでなく周辺のアフリカ諸国も、明るい未来とまともな生活を得ようとヨハネスブルクを目指した。しかし期待に胸を膨らませた人たちすべてを満足させることはできなかった。

新たに生まれた政権は人々の流入を適切に管理できず、住宅などの準備にも間に合わなかった。運良く利権にありついた人たちはその利権を手放すまいと不正や汚職に走るようになった。警察組織もアパルトヘイト時代の反対者の弾圧機関からの脱皮が思うように進まず、犯罪の抑止に失敗していく。警察官自身が腐敗の病巣に冒され、犯罪組織に買収されるケースも後を絶たないといわれる。

日本人駐在員の間でも、車の運転中に警察官に呼び止められ、言いがかりを付けられて罰金と称して賄賂を支払うよう強制される事が、幾度となく起きている。警察官の服装をした偽物のこともあるが、本物の警察官が不正を働くこともしょっちゅうだ。

アパルトヘイト撤廃が生み出した希望は今や見る影もなく、過酷な現実によって色あせてしまっている。

でもいいところを挙げればきりがない


外出先では一瞬たりとも気を抜けない生活。そんなヨハネスブルクにあなたは住みたいだろうか?
実は私自身も家族もヨハネスブルクでの生活を大いに楽しみ、気に入っている。怖がりのはずの長女ですら、「ずっと南アフリカにいたい」と言うほどだ。

ひとつは気候が過ごしやすい。ヨハネスブルクは標高1700メートルほどの高地にあって夏でも気温は30度くらいまでしか上がらず、からっと乾燥した爽やかな日が続く。日差しは強いが日陰に入ればすぐに汗は引く。日本のじっとりとした猛暑を知る身には、天国みたいに感じる。

真冬でも晴れた日の日中は20度くらいまで気温が上がる。ことしは一度だけ雪がふってそれが11年ぶりということでニュースになるほどだった。

緑の多いヨハネスブルク市街地

ヨハネスブルクは市街地に街路樹が多いことで知られ、世界の都市のなかで最も多い、1000万本の木が植えられているという。1年を通して街は緑にあふれ、アパートのテラスから見える風景はなんとも美しい。

数少ない日本人駐在員の家族は互いに助け合って暮らし、子どもたちが通う日本人学校は究極の少人数教育で、先生と生徒が1対1や1対2で対面授業をしている。

南アフリカの人々はとてもフレンドリーで、どこでも誰とでも笑顔で挨拶を交わす。地元の人の大半は英語が第一言語ではないので、私の英語がまずくても笑ったり不快がったりせず、我慢強く理解しようと努めてくれる。子どもたちは英語がほとんど話せない状況でこちらに来たが、数か月で地元の野球クラブやバレエ教室に入り、ことばは通じなくても楽しく練習しているようだ。

物価も上がってはいるがヨーロッパなどに比べるとそれほど高いとは感じず、特に新鮮な肉や野菜、果物は、お手ごろ価格で手に入る。休日には家族や友人が集まってバーベキュー(こちらでいう「ブライ」)をするのが定番だ。わが家もラグビーワールドカップの決勝戦の際は自宅でささやかなブライを行い、ビールを片手に肉を頬張りながら観戦した。

郊外に出ればアフリカの大自然が広がり、野生動物の保護区もたくさんある。ハイキングをしながらシマウマやインパラの群れを見るのはこちらでは手軽なレジャーで4、5時間も車を走らせれば、クルーガー国立公園などでゾウの群れや肉食獣を見られる本格的なサファリが楽しめる。

サファリで出会う光景

持てる人と持たざる人との深い断絶

こんなふうに生活の良いところを上げれば切りがないが、それは私たちが享受できる側にいるから感じられること。そこに南アフリカ社会の大きな矛盾と断絶がある。

民間の警備会社に24時間365日守られた家に住める人と、電気もガスも来ない空きビルに住み、警察にさえ守ってもらえない日々を生きる人。

大きなショッピングモールに車で乗り付けて新鮮な肉や野菜を買い、週末はブライやハイキングを楽しめる人と、わずかなお金を得るために一日中交差点に立って物ごいをする人。

富裕層のエリアのビル
劣悪な環境の”ハイジャック”ビル

持てる人と持たざる人、富める人と貧しい人、その格差は日本の比ではない。

政府や公的な機関への信頼が薄い南アフリカでは、持てる人々はみずからのお金で安全と平穏を手に入れる。壁と電気柵に囲まれ、銃で守られた住宅団地を作り、病院や商店も備えたその中で生活のほとんどを完結できる。

同じ都市でも壁の内側と外側の人々はまったく別の世界で生活している。そして凶悪犯罪の大半は壁の外で起きている。

貧しい人たちの住む地区の遠くに都市エリアがある

日本の企業や団体から派遣され、駐在員として生活し安全を保証された私たちは間違いなく「持てる者」の側だ。私や家族がこれまで怖い目にも遭わずなんとか楽しく暮らせているのは、私たちが持てる者の社会に守られているからにほかならない。

制度としてのアパルトヘイトは無くなったが、この国にはまだ社会の断絶が深く残っている。その断絶があちこちにひずみを生み、それが犯罪という形で社会をむしばんでいる。

5月の総選挙で問われる、あの熱狂と期待

南アフリカではことし5月に総選挙が行われる。これまでマンデラ氏の大統領就任以降、30年にわたって政権の座にあった与党の得票が初めて過半数を割り込むのではないかといわれている。

どれほど政権与党への信頼が失われてしまったのか、今後の取材では、持つ者、持たざる者、双方に話を聞いていく。
10年以上にわたって約束されていた水道整備事業が汚職によって頓挫し、与党を長年支え続けてきた黒人の間にも、深い失望とあきらめが広がっている。また白人だけのコミュニティーを築いて独自の通貨まで作り、自分たちの生活様式と安全を守ろうとする動きもある。

南アフリカは今大きな岐路に立っている。アパルトヘイト撤廃の熱狂と期待は消え去り、これから社会をどう立て直していくか、真剣な模索が始まっている。黒人の間でも一部では「アパルトヘイト時代の方が良かった」という声も出ている。だが大半の人々は人種で人をより分け、世界中から軽蔑されたあのいびつな社会にはもう絶対に戻るべきではない、と考えているだろう。

去年、ラグビーワールドカップ優勝の際には、黒人も白人も分け隔てなく歓声を上げ、抱き合って喜ぶ姿が見られた。それは本当にまぶしい光景だった。

ラグビーワールドカップ優勝を喜ぶ人たち

ヨハネスブルクに単身で赴任する選択肢もあったが、好奇心旺盛な妻や子どもたちは不安を抱えながらも一緒に行くことを決断してくれて、私はそのことにも深く感謝している。出不精で付き合いの悪い私ひとりではのぞき見ることもできなかっただろうさまざまな南アフリカの姿を、子どもや妻とのつながりを通してたくさん見ることができているから。

この先もどうか無事にアフリカでの生活を送れますように。そのことをまず祈りながら、この国がこれからどのような道を歩んでいくのかを、つぶさに見て伝えていきたい。

小林雄 ヨハネスブルク支局長
2004年、広島局で記者の仕事をスタート。国際部、カイロ支局、鹿児島局などを経て2020年から2年間「キャッチ!世界のトップニュース」のキャスターを務めました。2023年からヨハネスブルク駐在。
最近夢中になっているのは草野球。地元のリーグに日本人チームとして参加しています。5月のシーズン開幕に向けて現在、筋力増強中です。


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