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「施す」を考える

東京に戻ってきた。まだ家の中が段ボールだらけだが、とりあえず今、夫が子の面倒を見ているのでゆっくりしている。
ここ一ヶ月で分かったことだが、休める時は本当に一分、一秒、一瞬でもいいから休んだ方が良い。でないと人間性が壊れる。このnoteは「休む」の一環として書いている。

意外と壊れてない

相変わらず毎日毎日分刻みのスケジュールをこなしている。私は子どもの頃からかなり軟弱で怠惰なタイプなのだが、今生活がめちゃくちゃ激変しているのに、なぜか今メンタルが壊れていない。不思議で仕方がない。

もちろん周りのサポートのおかげなのは間違いないが、他に壊れない理由として一つこれかな?と思うことがある。我が子に対してだけ湧き水のようにドンドン溢れてくる欲。「何かしてあげたい」「施したい」欲だ。

常に「何かしてあげたい」

おむつ、授乳、温度や寝床の調整、抱っこ。
すべてを満たされた子がゆっくり眠っている。眠っている間くらい子のことを忘れて自分のために時間を使えばいいのに、私は子の寝顔を覗き見てみたり、子が少しでも快適に過ごせるようあれこれを調べたり、相談したりしている。
それは「この子を死なせちゃいけない」という使命感というより、なんというか、自分でやりたくてやってる感じがすごくある。

子育てってやる気ゼロ状態でやりたいことは我慢して、あれもやらなくちゃ、これもやらなくちゃばかりになると出産前は思っていたが(いや実際あれもやってこれもやっての連続ではある…)意外と「あれもこれもしないといけない」ではなく、「あれもこれもしてあげたい」と私は思ってやれている。
やりたいことをしてると思ってる自分に自分で驚いている。

腕の中で子が眠る。そのまま抱いていたら身体が疲れるし一刻も早く子を寝床に置いて楽をすりゃいいのに、なんだかそのまま何分でも何時間でも抱いて、子の顔を見ていたい気持ちに襲われる。
自分のために、子に何かしてあげたくなっている。

「施し欲」を見つめる

子に何かを施すのは、子のためではなく他でもない自分のためにやっていると自覚してから、また一つ私は気持ちがラクになったような気がしている。
毎日毎日、何か子にしてあげても想像したような結果にならないことばかりだ。でも私が想像した「子の反応」はあくまで私のエゴ(施し欲)が生み出したものであって。それとは違う結果になるのはごく自然なことだと自覚する、自分の施し欲に自覚的でいることが大切なのかもしれない。
そして「やりたいことをやってるだけ」と自覚することで、やりたくないことにぶち当たった時は「これはやりたくないことだ」と早々に自覚でき、早めの対処に繋げられたら良いと思う。

まぁそんな悠長なこと言ってられない時がそのうち来るかもしれないが…今は己の施し欲が暴走しないよう監視しつつ、このひとつひとつの「一人相撲」を少しでも楽しみながら、やつれながら、休みながら、また日々を一日一日こなしていければと思う。

さてそろそろ睡眠をとろう。
また明日もたのしい一人相撲が待っている。