見出し画像

サムズアップ、そして沼底へ

赤ちゃん言葉(笑)

今だから白状するが、私は赤ちゃん言葉が苦手だった。赤ちゃん言葉というのは語尾に「でちゅね」と付けたりするアレのことだ。

友人達が子に「でしゅ〜」と声をかける度に、私は心の中で(なんでわざわざそんな言葉遣いにしてるんだろう?普通に声をかけたらいいのでは?)と疑問に思っていた。赤ちゃんだって一人の人間なんだから、普通に声をかけて、普通の言葉遣いに慣らしていくべきなんじゃないか。でしゅとか、でちゅとか、なんかアホッぽいよな…なんて、口に出すことは決して無かったが、私は思ってしまっていた。
そして将来私がもし子を持つことになったら、決してアホみたいな言葉遣いはすまいと心に決めていた。

うんちっちできてえらいえらいなのでしゅ

それは自然だった。びっくりした。
我が子に対してだけ、自然に赤ちゃん言葉が出る。未だに自分で自分に驚く。
赤ちゃん言葉が嫌いだった自分。
他人の子どもに対して決して赤ちゃん言葉を使ってこなかった自分。
それらがいとも簡単に、ニコニコ笑って親指を立てながら、心の中にある沼へ沈んでいくのを自分でも止められなかった。

発するようになってわかったことは、赤ちゃん言葉は、子のための言葉じゃないということだ。
まるでクリスマスを彩るイルミネーションのように、子に向き合う時間、子に対する気持ちに飾りをつけて盛り立てる役割があると気づいた。

赤ちゃんの世話はハードだ。体力も気力もどんどん奪われる。「最愛の我が子との時間」を少しでもラブリーなものにして気持ちを盛り立てていかないと、やってられない時が往々にしてある。そういうときに私は口から「でしゅ」が出る。
自分で発した「でしゅ」に自分で癒されている。

三つ子の「でしゅ」百まで?

最近気づいたことがある。
夫の声かけの仕方が、義母さんの声かけの仕方と驚くほど似ている。声の抑揚の付け方や、語尾までそっくりなのだ。では夫と義母さんの話し方が普段から似ているかというと、そこはそんなに似ていない。
(義父さんには似ていると感じる時があるが、子への声掛けは似ていない)

恐らく、夫の記憶のどこかに、赤ちゃん時代義母さんからかけられた言葉が残っていて、夫は無意識のうちにそれを引き出して子に使っているのだろう。三つ子の「でしゅ」百まで説が私の中で立証されつつある。温かくて、不思議な繋がりを感じずにはいられない。

私も無意識のうちに父や母から貰った言葉を使っているのかもしれない。もしそうなら、私の父や母も、しんどい中気持ちを盛り立てながら私の世話をしてきたと想像できるわけで、両親の苦労に思いを馳せつつ、なるほど言葉というのは形だけではなく、気持ちも含めて引き継がれていくのだなぁと私はしみじみと思ったりするのである。

まぁ色々持って回った書き方をしてしまったが、赤ちゃん言葉、最高。
これからも自分のために使っていきたい。

今まで心中で馬鹿にしてきてすみませんでした。