見出し画像

【4月33日】 バーベキューの解釈違い

某日

職場にて、スラックスのホックが壊れる。私が公衆の面前でパンツ丸出しになるか否か、その責はすべてファスナーに託された。

この世には、2種類のファスナーがある。忍耐強いファスナーと、意気地無しのファスナーだ。前者のファスナーであれば、ホックがなくとも己の踏ん張りだけで閉じ続け、スラックスを私のウエストに留めてくれるであろう。もし後者のファスナーだったら、数メートル歩いたところでジャッとなってバッと落ちて丸出しである。

幸運にも、このスラックスのファスナーは前者であった。ホックが壊れたまま、誰に悟られることもなく、平穏な一日を過ごした。


某日

祖母が作ったカレーを解凍して食べる。祖母のカレーは玉ねぎの甘みがしっかり出ていて非常に美味しいのだが、定期的に送ってもらえるので、冷凍庫のスペースの都合もあり、「食べたい」というより「食べてしまわなくては」という感じで食べてしまうことも多々ある。今回もそうだった。祖母も昔ほど元気ではなくなり、「定期的」の頻度はだんだん少なくなっている。前にレシピを聞いて作ってみたこともあるが、到底及ばない味だった。祖母が作れなくなったら、きっともう二度と同じものは食べられない。毎回心して食べるべきだ。しかし、油断して食べているからこそ、こんなにも美味しいのかもしれない。


某日

電車に乗っていたら、向かいの席にギンガムチェックのシャツを着たおじさんが3人並んで座っていた。ギンガムチェッカーズだ。いいものを見た。


某日

夫とコメダに行く。夫はタコの本を読んでいた。夫は最近、イカとタコにご執心である。夫の研究対象であるアンモナイトと生き物として最も近いのがイカやタコらしい。

夫はタコの本に紙ナプキンを細長く千切ったものを何枚も挟んでいた。「そんなのしおりにしてんの」と指摘すると、「これはふせん」と言われた。

私としては、ふせんと呼ぶからにはペタッと貼り付ける機能がほしい。貼り付けることのできないただの紙切れをふせんと呼ぶのは、なんだか違和感がある。しかし、しおりは「どこまで読んだか」の印で、ふせんは「大事なところ」の印として使う認識だ。それ故、しおりは基本一箇所で、ふせんは複数箇所のイメージがある。そういう意味では、夫は「大事なところ」に「複数」の印を挟んでいるので、これはふせん、と言われたら、まあ確かにそうか。いやでも、貼れないし。

しおりのような、ふせんのようなそいつらは、本の綴じている側に重なるようにして集まり、エアコンの風でゆらゆらと、海の生き物じみた動きをしていた。


某日

夫と二人で奥多摩の山小屋に泊まり、バーベキューを執り行う。あいにくの雨。かなりの雨。奥多摩が近づくにつれ、空が暗くなっていく。

車内で「2010年代ベストヒッツ」というプレイリストを流していたら、いきものがかりの「風が吹いている」が流れた。夫が、「なんだっけこれ、なんの曲だっけ。確か、なんかのスポーツ大会だと思う」と言った。調べたら、ロンドンオリンピックのテーマ曲だった。一番でかいスポーツ大会だった。

奥多摩は思った以上に山だった。公園に毛が生えた程度の自然を想像していた。東京を舐めていた。

早速、昼からバーベキューをはじめる。テラスに屋根があったので、雨でも問題なかった。

今回、計画段階で私と夫でバーベキューに対する解釈の不一致があった。肉の量、酒の量、私がやりたいと目論んだ燻製について、山小屋で本を読む暇などあるのか、カップ麺を持って行くか袋麺を持っていくか。他にも細々したあらゆる解釈違いがあり、多少モメながら当日を迎えた。しかし、数多の解釈違いを擦り合わせる過程で、我々は互いの思考の限界を超越し、結果として、人生におけるバーベキューのベストを更新する快進撃をみせたのだった。

山小屋は2段ベッドで、夫が上、私が下で寝た。夫のおならが頭上で響いて新鮮だった。



ーーー

※今回はこちらでも日記を書いてます。毎日いろんな人が日記をリレーしていく面白いサイトです。ぜひご覧ください。

「あちらのお客様からです」的な感じでサポートお願いします。