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葬式では泣け

2020年12月1日。その夜、私たちはガストにいた。夫が「ガストには糖質控えめほうれん草麺がある」と言ったからだ。ダイエットを意識して夕飯は質素に済ませるつもりだったが、私も「糖質控えめならいいか」とまんまとのせられ、雪降りしきる中、田舎町の国道沿いにあるイオンへと車を走らせた。ガストに入店し、メニューを開き、意気揚々と糖質控えめほうれん草麺なるものを探した。しかし、そんなものはどこにもなかった。

ないものはないで仕方ないので、私はねぎとろ丼を、夫は何かしらの肉の丼を注文した。なぜ人は食べると太るのか。そんな素朴な疑問を胸に抱きながら、有り難くカロリーを摂取していた、その最中のことである。

iPhoneが震えた。旭川に住む母親からの電話だった。

私は一瞬、無視しようと思った。特に理由はない。母親からの電話というのは、母親からの電話というだけでなんかもう面倒臭いのである。三十路も過ぎ、結婚もしたというのに、反抗期の周回遅れ甚だしく我ながら呆れるが、いつもなら後からLINEで要件を聞き出すところである。

しかし、私は電話に出ることを選んだ。本当に不思議なのだが、出た方がいいような気がしたのだ。結果、勘は当たった。

電話に出た母は泣きながら私の名前を連呼し、おじいちゃんがなんとかかんとか〜と言っているがほとんど聞き取れない。こんなパニック状態の母は初めてだったので、一瞬息がヒュッと引っ込んだが、ヒュッのあとは意外とスッと落ち着いた。相手がパニックになっているとき、不思議と自分は冷静になるものである。

「おじいちゃんがなに? どうした?」

母を落ち着かせながら話を聞いたところ、どうやら風呂で祖父の意識がなくなり、救急車で病院に運ばれた、ということらしい。

父方の祖父母の家は私の実家から車で3分もかからない距離にある。この時、祖母は足を骨折して入院中、祖父の世話をするために札幌から叔母(父の妹)が長期滞在していた。その叔母から近くに住んでいる母親にSOSの電話があり、母は大慌てで祖父母家にかけつけ、叔母は救急車に同乗した、とのことであった。

「救急車送り出して一人になったら急に手とか震えちゃって、このまま病院まで運転したら事故っちゃうと思ってさ、それであんたに電話したの、はあ、でもよかった、落ち着いてきたわ。病院で状況わかったらまた連絡する。」

私はくれぐれも気をつけて運転するように伝え、電話を切った。

「どうした、なんかあった?」

席に戻ると、夫がなにかしらの肉の丼を食べる手を止め、心配そうに聞いてきた。

「おじいちゃんがお風呂で意識なくなって病院に運ばれたらしい。」

私は努めて冷静に振る舞い、とりあえず途中になっていたねぎとろ丼の続きを食べはじめた。しかし、箸が震えて食べにくかった。

89歳が風呂で意識不明、これは覚悟しなければなるまい。ついに来てしまった、と思った。私は32歳のこの時まで、身内の死というものを経験したことがなかったのである。


二十歳を過ぎた頃からだろうか。大人になっても祖父母が全員ピンピンしているというのは、なかなか珍しいことであると気づいた。祖父母の話をするとほぼ100%の確率で、「え〜っ全員元気なの? 凄い!」と褒められるので、「おう、凄いだろ?」といつも鼻高々であった。祖父母が元気でなぜ孫が威張るのか謎であるが、それはとても嬉しいことで、幸運なことで、重要なことだった。祖父母が元気というのを勝手に自分のアイデンティティに組み込んでいたようなところさえある。『花より男子』に出てくるイケメンたちが「F4」なら、私にとって祖父母は「S4」で、完全無欠の存在だった。来年の秋に予定している結婚式には、S4が全員揃うものと信じて疑わなかった。

家に帰って待っていると、しばらくして母から連絡があった。

祖父が死んだ。


私は急いで身支度を始めた。悲しみとは別のベクトルで、これから忙しくなるぞ、という謎の張り切りがあった。なんと言っても、私は長瀬家の初孫である。私の弟が2人、いとこが3人、計5人の孫を束ねる孫の長、それが私なのである。一体なにがどう忙しくなるのかはっきり言って何もわかっちゃいないが、この長瀬家の一大事、兎にも角にも私がいなくちゃ話にならないというわけである。とりあえず夫は残し、私だけJRで旭川へと向かった。

旭川駅に着いたときにはもう0時を回っていた。駅からタクシーに乗って祖父母家に行くと、父、母、叔母、そして札幌からいとこたちがすでに到着していた。

「いやはや、大変なことになりましたな。」

私が言うと、ほんとにねえ、まさかだよねえ、とみんな口々に言った。

父は一見いつも通りであったが、こういう時、あまり本音を表に出さないタイプである。本当は辛いに違いないと思った。

検査やら何やらで祖父はまだ警察に安置されているという。葬儀の日程を決めたり諸々やるべきことがあるわけだが、その前に何よりも重要な問題があった。骨折で入院している祖母のことである。そう、祖母はまだ祖父が死んだことを知らないのだ。

祖母はお喋りなひょうきん者である一方、極度のビビリである。骨折したときも入院が嫌で痛みを隠していたくらいだ。たった一人での長期入院。すでにかなり気が弱っていることが予想される。そんなときに祖父が死んだと急に聞かされたらどうなるのか。みんな心配していた。

翌日、午前中のうちに父と叔母が病院に行き、祖母に祖父の死を伝えた。

祖母の第一声は、「ええ~!? お父さん死んじゃったの!? なんでえ!?」だったそうだ。確かに「なんでえ!?」であろう。

大パニックになるのではと予想していたが、呆然とはしつつも意外と落ち着いて受け答えできたらしい。「お父さん、私がこれからお世話とか大変だと思って、気を遣って先に逝ってくれたのね」と言っていたそうだ。

お通夜は明日に決まった。警察での検査も終わり、祖父が葬儀場に運ばれたというので、まずは会いに行くことになった。

そこは小さい控え室のような場所で、靴を脱いで上がるようになっていた。一番奥に、祖父が寝ていた。顔にかけてあった白い布を取ると、それは確かに見知った祖父の顔であったが、やはり寝ているのとは違うとわかる顔であった。祖父は身長が高かったので、こんなに近くで顔を見ていることがまず変な感じだった。昔、信号機が倒れているのを間近で見て、信号機って近くで見ると大きいんだなと思った、あの感じに似ていた。

祖父の寝ている手前には小さいテーブルがあって、白い布の上にお葬式っぽい花だとか、白いふさふさした棒だとか、お鈴だとか、そういったものが一式並べられていた。私が死んだらこういった物よりミスチルのCDで囲うなどしてくれた方がよっぽどスムーズに成仏できるなどと今まで豪語してきたのだが、今日初めてその有り難みがわかった。もしこれらの葬具が一切なくて、祖父がただ床にデンと寝ていたとしたら、あまりに死体すぎるのである。この葬式っぽい花が、白いふさふさの棒が、お鈴が、祖父を「仏」たらしめ、我々の心を慰めている。私の中にも仏教がしっかり刷り込まれていたのだとわかり、ちょっと悔しかった。


翌日。斎場に行くと祭壇が出来上がっていた。夫や弟たちも全員集合し、車椅子に座った祖母も無事到着していた。こんな時だが、久しぶりに祖母に会えて嬉しかった。

祖父が亡くなった日、母は母方の祖母と電話をしていたらしい。その最中、チリリーンと玄関ドアについているベルの音がしたので、「あ、パパ帰ってきたわ、じゃあね」と電話を切って玄関に向かったが誰もいない、ドアを開けてみても誰もいなくて、「おかしいな、確かに鳴ったのに」と不思議に思っていたところ、すぐに叔母からのSOS電話がかかってきたのだという。

「あれ、きっとおじいちゃんだわ。おじいちゃんが知らせに来てくれたんだと思う。」

母は確信を持った口調でそう話し、聞いていたみんなも「そうかもしれんなあ」としんみり感じ入っていたのだが、祖母だけが「あらやだ怖い!」と完全に怪談話として受け取っていた。この手の話はお年寄りの方が好みそうなものだが、祖母の場合はビビリが勝るらしい。母は思いがけず稲川淳二と化した。

葬儀が順調に進んでいく中、私はずっとおだっていた。「おだつ」とは、北海道弁で騒ぐ、ふざける、調子に乗る、みたいな意味で、子どものテンションが上がりすぎてうるさいときなどに「おだつな!」と叱られたりする。

どのようにおだっていたかというと、例えば、祖父の傍にお鈴が置いてあったのだが、そのお鈴をいとこの子ども(1歳)が気に入り、満面の笑みでチンチンチーンと連打していたので、「おじいちゃん起きちゃうんじゃない?」とコメントしたら結構ウケた。
それで調子に乗り、誰かが大声を出したり笑ったりするたびに「おじいちゃん起きちゃう!」とすかさず言う“おじいちゃん起きちゃうノリ”に興じたり、そこから派生して、何かが見当たらないと聞けば「おじいちゃんじゃない?」、トイレの水が自動で流れたと聞けば「おじいちゃんじゃない?」と返す“おじいちゃんの仕業ノリ”を編み出したりと、とにかくもう隙あらばおちゃらけ倒していたのである。

弟たちは(姉に従順なので)ノッてくれるし、いとこたちも(優しさから)笑ってくれるし、母には「まったくあんたは!」と呆れられて、これくらいの感じがいい、と思った。一人くらいこんな奴がいたっていい。だって、みんながみんな落ち込んでいたら辛いじゃないか。道化となった私をみんなで指差し笑ってくれ。そう、これこそが孫たちの長である私の務めなのだ。

などと頼まれてもいないのにムードメーカーを気取っていたが、結局のところ、祖父の死を正面から悲しむのが怖かった。この悲しみはどれほど深いのか、予想できなくて怖いから、沈まないよう沈まないよう、必死でおだっていたに過ぎないのである。

お通夜は滞りなく終わり、そのあとは隣の部屋で会食だった。みんながわいわいしているのを、祖父の遺影が見守っていた。祖父はいつもそうだった。みんなが楽しんでいるのを、傍で静かに見守っていた。なんだか状況としては生きていたころと変わらないな、と思った。

翌日、告別式で祖母が車椅子から腕を伸ばし、祖父の棺に花を入れている姿に思わず涙した私であったが、そのあと火葬場に移動する頃にはまた気持ちを立て直し、しっかりとおだつことができた。

みんなで分担して遺影や葬具を持っていたのだが、私は白いふさふさの棒の担当で、それを揺らしながらウェイウェイ小躍りし、夫に「ちょっと、やめなって」と止められたりしていた。もはやどこまで不謹慎になれるかギネスに挑戦しているのか?という有様である。結局、私は最後の最後までへらへらおだち続け、祖父の葬儀は終了した。


私と夫は旭川から自分たちの家に戻った。初めてのことばかりだったのと、無駄におだっていたせいもあり、なかなか疲れていた。自業自得である。

夫と二人だけの空間に戻った途端、みんなの前で勝手に被っていた道化の面がするっと落ちて、考えないように、考えないようにしていたことが、次から次へと湧き上がってきた。

幼い頃、祖父母の家に遊びに行くと真っ先に祖父を二階へ連れ出し、アンパンマンのキャラクター人形で延々ごっご遊びをやっていたこと。

祖父は決して「もう終わり」と言わなくて、いつまでもいつまでも、その遊びに付き合ってくれたこと。

教頭先生をやっていた祖父が、教育大を卒業したのに教員にならなかった私をどう思っていたのか、結局一度も聞かなかったこと。

若い頃の祖父はめちゃくちゃな酒飲みだったらしいこと。酔っ払って帰る途中、橋まで遠回りするのが面倒になり川を渡って帰ったことがあるらしいこと。

私の酒飲みは間違いなく祖父からの遺伝であること。

酒を飲んでいるという近況しかなかった私が、科学者の夫を連れて結婚の報告に行ったとき、第一声が「話合うんか?」だったこと。

そんな祖父が、焼かれて骨になった。こんなことがあっていいのだろうか。こんな悲しい経験を、みんなは、人類は、ずっとしてきたというのか。こんな悲しみを知らないで生きてきた私は、なんて思いやりのない人間なのだろう。

「おじいちゃん死んじゃったああ〜〜〜。」

私は夫の腕に顔面を張り付けて泣き出した。この腕も、いつか焼かれて骨になると思うと怖かった。私はこれからまた何度も、大好きな人たちが骨になるのを見なくてはならないというのか。

「おじいちゃん骨になっちゃった〜〜〜こんがり焼かれて出てきたら骨だった〜〜〜怖かった〜〜〜!!!」

タガが外れて、子どものようにギャンギャン泣いた。葬儀で散々おだっていた人間の成れの果てがこれである。泣くべき時に泣かなかったせいで、謎のタイミングで決壊してしまった。

怖がらずにちゃんと悲しめばよかった。思い切り全力で泣けばよかった。葬式は、そのためにあるのだから。

祖父が最後に教えてくれた。

葬式では泣け。



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