雛たちのフライト
【ロサンゼルス紀行#2】
飛行機に搭乗。我々の席は三つ並びのうち窓側と真ん中の席である。行きはテンションが上がっているので景色が見える窓側、帰りは疲れ果てて景色などどうでもよくなっている可能性が高いのでトイレに立ちやすい通路側にした。これも旅行代理店のギャルのアドバイスである。
機内安全のビデオが日本とは一味違って面白かった。乗客と乗務員が中華街、南極、砂漠、マラソン大会など、いろんなシチュエーションに入り込み次々とシーンが切り替わる。南極で「脱出の時にカバンは持たないでください」と言ったらカバンが凍ったり、いちいち演出が凝っていて見飽きない。さすがエンタメの国の航空会社である。
100円ショップで買った膨らますタイプのネックピローを持ってきていたのだが、席にはクッションタイプのネックピローがあらかじめ用意されていた。これがあるならとりあえずいいや、と私は備え付けのもので済まそうとしたが、夫はさっそく100均のピローにも空気を吹き込んで、ダブルで首につけていた。ムチウチの人みたいだった。
国際線に乗る楽しみといえば、機内食である。エコノミーなので特に豪華な食事が出るわけではないが、注文という行為を介せず、「座っているともらえる」ことに妙な嬉しさがある。CAさんたちが機内食らしいものを詰め込んだカートを押して通路を移動しはじめると、私と夫は途端にそわそわして、イヤフォンを外し、座席のテーブルを下ろし、「なんかもらえるらしい」「ね、もらえるらしい」と小声でコソコソ噂しながらその時を待った。しかし、カートは我々の横を何度もスルーし、なかなかもらえない。二人して通り過ぎるCAさんを期待に満ちた眼差しで追いかけるその様は、まさに巣で餌を待つ雛の様相である。
この日の機内食はチキンorパスタで、両方頼んで二人で半分ずつ食べた。チキンはてりやき風の味付けのものがごはんの上にのっていた。パスタはクリームのショートパスタ。それぞれに中華風の春雨サラダと、丸いパンと大福がついている。パンと大福である。規定のカロリーを摂取させることだけを考えて構成された感のあるめちゃくちゃな献立が面白い。どれも普通においしかった。夫はビール、私は赤ワインをもらった。赤ワインは小さいボトルに入っていたので、食事のあともちびちび飲めてありがたかった。これは自分史上最高高度で飲んだ酒だな、とくだらないことを思った。
途中で軽食として配られたお菓子が妙にうまかった。プレッツェルと、せんべいみたいな塩気のある薄いやつが入っている。せんべいみたいなやつが最後まで何かわからなかった。
機内のモニターで『グレイテスト・ショーマン』を観た。吹き替え版だったが、ミュージカル映画の要である歌の部分は吹き替えも字幕もなかった。登場人物たちが歌って踊りながら互いに分かり合ったり、何かを決意したりするのだが、歌詞がわからないので、どうやら分かり合えたらしい、どうやら決意したらしい、ということしかわからなかった。それでも面白かったが、この映画が伝えたい重要なメッセージを見逃しているであろうことは否めない。他にも映画やドラマ、バラエティなどいろいろあったが、唯一入っていた日本のバラエティが『ウドちゃんの旅してゴメン』だったのはかなり謎である。
少し疲れてくると備え付けのネックピローだけでは物足りなくなったので、持参した方のピローを膨らまそうとしたのだが、いかんせん肺活量がなさすぎてなかなか膨らまない。夫はすでに爆睡していたのでどうにかこうにか自力で膨らませたが、息を吐きすぎて途中で意識が遠のきそうになった。これは睡眠を助けるアイテムとしては理にかなっている、と変な納得をした。
ちょこちょこ寝たり起きたりしたのち、アマプラでダウンロードしておいた中から、ずっと見損ねていた侍ジャパンのドキュメンタリーを観た。半年前のWBC優勝の瞬間の興奮が蘇ってきた。栗山監督とコーチ陣の選手招集会議の様子が興味深かった。また、大谷が裏で「あ〜全然ダメ!」とか言って自分の投球内容を悔しがっている姿もよかった。もうすぐこの大谷をこの目で見れるのだと思うと気持ちが空高く舞い上がる心地だったし、実際、私の体は高度1万メートルを飛んでいた。
窓の外を見ると、真っ暗だった世界が少しずつ明るくなりはじめていた。雲海が薄紫色に染まっている。私は今、理科の先生が暗闇で球体にライトを当てて地球の昼と夜を表現していたアレの、明るいところと暗いところの狭間を明るい方に向かって飛んでいる、ということなのだろう。普通、朝は「来る」ものであるが、朝に向かって「行く」のはとても変な感じだ。いやそもそも、これは本当に朝なのだろうか。東京とロサンゼルスでは東京の方が時間が進んでいる、ならば、東京からロサンゼルスに向かっている今、私は時間を遡っていることになるのだろうか。時差というものが未だによくわからない。計算の仕方は理解しているつもりだが、感覚としてよくわかっていない。わからないまま時間の上を飛んでいく。頼りない神の気分で、雲海を見つめる。
フライト終盤、2度目の機内食が与えられそうな雰囲気を感じ取り、私と夫は再び雛と化した。今度はオムレツor焼きそば、それとバタークッキーであった。特に言及することがないくらい、普通のおいしさであった。出発前、「俺は着いたらすぐに空港でハンバーガーを食べる」と高らかに着陸バーガー宣言していた夫だったが、この時間にご飯を食べてしまったので予定は変更となった。雛は食事の時間を選べない。与えられるがままに食すのみである。
フライト中、私は通路側のおじさんがトイレに立ったタイミングを見計らって、一度だけトイレに行った。トイレに行きにくいのは窓側のつらいところである。驚くべきことに、夫は10時間のフライト中、一度もトイレに立たなかった。夫は器のでかい男だが、今回膀胱のでかさも見せつけられた。
着陸間近。高度が下がってきて、アメリカ西海岸の大地が見えた。山が連なっているが草木が全く生えておらず、ハゲ山の色彩が延々と続いているのが、日本の景色でないことを明らかに示していた。また、市街地に近づいて驚いたのは、街がきっちり碁盤の目になっていて、それが果ての果てまで続いていることであった。日本の市街地を上から見た感じとまるで違う、ダイナミックな印象を受けた。興奮しながら夫に理由を聞いたら、「平野が半端ないんじゃない?」と言われたので、「平野が半端ないのか……」と納得した。そして、車の量もすごい。太く伸びる道路はどれも5車線くらいあって、景色の中の道路の存在感が日本の比ではない。大量の車が上空から見てもわかるくらいのスピードで互いを縫うように爆走している。そして、その道路沿いには、幹がやたら長く、てっぺんにファサッと緑がついた木、すなわちヤシの木が、アクセントのように並んでいる。「アメリカだ!」と思った。
着陸して機体から降りると、警備員がシェイクみたいのを飲みながらプラプラしていた。「アメリカだ!」と思った。空港に入ってすぐのトイレに行ったら、噂に聞いていた通りドアの足元がだいぶ丸見えのトイレだった。「アメリカだ!」と思った。そして一番手前の個室の床には吐瀉物がぶち撒けられていた。流れで、「アメリカだ!」と思ったが、さすがに濡れ衣な気がした。
入国審査はかなり待たされた。窓口はいくつかあるのだが、列がなかなか進まない。ずっと立ちっぱなしなので疲れる。アメリカ人らしきおばちゃんが少し進むたびに床に置いたヴィトンのボストンバッグを足で蹴りながら前進していた。投げやりにもほどがある。
我々の近くに同じ飛行機に乗っていたと思われる家族が並んでいた。見た感じ、お父さんはアメリカ人、お母さんは日本人。そして、小学生くらいの女の子と男の子。何の気なしに、「お母さんの実家に里帰りして、アメリカに帰ってきたんだろうね」と言うと、夫は「いや、日本に住んでて、これからお父さんの実家に里帰りするんじゃない?」と異を唱えた。夫はその証拠として、女の子が背負っているピンクのランドセルを提示した。「アメリカの小学生はランドセル持ってないでしょ」と。確かにそれは一理ある。しかし、私はそのランドセルに違和感を覚えた。
まず、重くてかさばるランドセルをわざわざ海外に持って行くだろうか。私が親なら、もっと扱いやすいリュックを背負わせるだろう。また、そのランドセルは少々年季が入っていて、微妙にデザインも古い感じがした。背面のど真ん中にポムポムプリンのシールが貼ってあるのだが、表面がかなりすすけている。私は推理した。このランドセルは今回の帰省で母方の親戚(いとこなど)からもらったお古ではないだろうか。アメリカにはランドセルの文化がなく物珍しいだろうから、気に入ったならあげるよ、という話になったとしてもなんら不思議ではない。
夫はまだ「うーん」と納得していないようだったので、私はさらに畳み掛けた。女の子はTシャツにレギンスという服装だが、日本に暮らす人はレギンスを一枚で履くことはあまりない。これは海外の女性がよくやるスタイルである。さらに、お父さんの着ているTシャツだが、「SOUNDSET 2018」と書かれている。デザインからしておそらく音楽フェスのTシャツと思われるが、日本でSOUNDSETという音楽フェスは聞いたことがないので、おそらくアメリカの音楽フェスに違いない。頭にかぶっている迷彩のサンバイザーも、日本で暮らすお父さんの服装としてはちょっと違和感がある。そして、極め付けはお父さんのスニーカー。踵のところに日本では見たことのないメーカーのロゴが入っている。
スニーカーでとどめを刺されたらしい夫は、「確かに、これはアメリカ暮らし……」とついに降参した。推理対決に勝利し高笑いする私だったが、名探偵コナンこと工藤新一曰く、「推理に勝ったも負けたも上も下もねーよ」とのことなので、夫をやり込めて喜んでいるうちは探偵として所詮小物である。
一時間近く並んでやっと審査の順番がきた。ちゃんと受け答えできるように入国審査での英会話を調べておこうと思ったのだが、なぜか入国審査の列に並んでいる間レンタルWi-Fiが繋がらず、結局ぶっつけ本番になってしまった。ここで我々の英語力について言及しておくと、私は全てにおいて中学生レベル、夫は英語の論文を読んだり書いたりしているので読むことはそれなりに得意だが、リスニングに関しては私よりちょっとマシな程度である。ただ、1人ずつではなく、同行者はひとまとめに審査していたので、二人一緒に受け答えできる安心感はあった。
とりあえずヘラヘラしながら「Hello」と言ってみたが、入国審査官の女性はニコリとも笑わず、出鼻をくじかれた。パスポートを渡すと、いくつか質問された。Sightseeing(観光)くらいは言おうと頭に入れてあったのだが、もたもたしているうちに夫が答えて、私の出番はなかった。二人とも聞き取れなくて何度か聞き返したらそのままスルーされた質問もあった。気まずい。
指紋を取るらしく、fingerがどうのこうの、とジェスチャー付きで言われたが夫はピンとこなかったようで、それをたまたま指紋を取るのだと理解できた私は、「ほら、fingerだよ、finger」なぞと、これ見よがしにfingerを連呼した。fingerくらいで威張れるあたり英語力がしょうもない証である。夫は言われた通りカウンターの上に置かれた機械に指を押し付けたのだが、うまくスキャンできず、何度もやり直しさせられていた。見た感じ、夫の指の出し方が下手くそというか、親指の指紋を取るのにやたら体を捻って、コギャルがプリクラを撮るときみたいなポージングをしていた。妙なところで不器用である。私は一発で取れた。
OK、と素っ気なく言われ、我々は入国を許された。
預け荷物も無事に受け取り、通路を抜け、空港の外に出る。思っていたよりも涼しかった。脳内で世界地図を開く。アメリカ西海岸にピンを立て、今ここにいるのだとイメージする。飛んできた。日本からここに、飛んできた。どゆこと? 現地時間は土曜日の夕方。土曜日の夜に出発したはずなのに。どゆこと?
海も時間も飛び越えて、我々はロサンゼルスに降り立った。
続く。
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