体罰や宗教は想像力がない人間を正しい道に導く荒療治説

最近管理職となり、仕事で若い人の管理をすることが増えました。
やはり、近年では自分で考えることができない若者が増えており、
1から10まで全部説明して5くらいしか理解できてないような方が多い印象です。

そういった際にどうすればよいか、いつも悶々と考えております。

理想は、この作業がなぜ必要で、誰にどのような影響があるか、
この仕事でミスした場合どのような影響が会社に影響があるかを自分で想像できるようになり、仕事の意味を見出して前向きに取り組んでもらうこと。
上司はその領域に導くようにすることが理想だと思ってます。

ただ、近年の日本社会は若者が自分の考えで未来を進むことを拒んでいます。
受験戦争、新卒一括採用。
この2つに勝ち上がることを正義として親や教師にプログラミングされていきます。
そうなると小さい頃から自分のやりたいことは抑えて、親や教師が言っていることに頑張らなきゃいけないという思考停止状態になります。

そのプログラミングが色濃く残ったまま自分で考えて行動しなくては行けない社会に放り出されることになります。

そりゃ自分で考えて行動できませんよね?
頭ではわかってても行動に移すことに抵抗があるはず。

そんな彼らに我々中年はどう接すれば良いのか。

そんななかぼんやり考えたのは体罰と(もちろん体罰を推奨しているわけではございません。)宗教

体罰は倫理的にダメなことをした際に物理的に痛みを与えてダメだとわからせる教育方法。
私も昔中学生の頃はサッカー部の顧問に頭ひっぱたかれたりしました。
ただ、子供というのは経験と知識が乏しく、想像力が足りてないため、なぜダメだのかを考えるより先に物理的痛みという即効性のある教育をしていき、大人になってからなぜダメだったのかを気付ければよいのだと思います。
現に中学時代のサッカー部の顧問に関しては体罰をしてムカつくという感情はなく、あの時厳しくしてくれたおかげで今の自分があるという気持ちが全てになっております。

宗教に関しては、崇める存在がいてその存在がダメだと言っていることはダメ、という理論性が無いものにはなるのですが、
それが却って想像力が無い若者には考える必要がなく楽に自分のやるべきこと、やってはいけないことが導かれるから安心できるのではないかと思いました。

古くは聖徳太子が制定した十七条の憲法。
仏教の教えを国民に浸透させて統治を図ろうとしたもの。
つべこべ考えずにこの教えを守っておけば幸せに生きていけるんだよと伝えたかったのかなぁなんて想像してしまいます。

体罰や宗教。
どちらも日本ではいいイメージは一切ありません。でもこういった側面もあるんだなという気付きと
同じような気持ちになっている管理職サラリーマンに同情の念を送れたらなと思ってます。
なにが言いたいかモヤッとしてますが、
大変なことがたくさんあるけど皆さん仕事頑張りましょうね(泣)

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