見出し画像

【奈良本辰也 訳編】『葉隠』

下記の本からの抜粋となります。

第2章 いかに「覚悟する」か


◇ 一つの極意――「その日を最期」と定める


 五、六十年前までの武士は、
毎朝、行水をして身体を清め、
髪を調え、髪には香の匂いをつけ、
手足の爪を切って軽石ですり、
こがね草で美しく磨き、
少しも怠ることなく身なりを整えたが、
もちろん武具の類にいたっては少しも錆をつけず、
埃りも払って、磨き立てておいたものである。
 身なりについて格別な心づかいをするということは、
いかにも外見を飾るようであるが、
これは何も数奇者を気取っているのではない。
 今日は討死か今日は討死かと、
いつ死んでもよい覚悟を決め、
もしぶざまな身なりで討死するようなことがあれば、
平素からの覚悟のほどが疑われ、
敵からも軽蔑され、卑しめられるので、
老人も若者も身だしなみをよくしたものだ。
いかにも面倒で、時間もかかるようであるが、
武士の仕事というものはこのようなことなのだ。
ほかには忙しいことも時間のかかることもない。
 いつでも討死する覚悟に徹し、
まったく死身になりきって、
奉公も勤め、武道をも励んだならば、
恥辱をうけるようなことはあるまい。
このようなことに少しも気がつかず、
欲得やわがままばかりで日を送り、
何かにつけて恥をかき、
しかもそれを恥とも思わないで
自分さえ気持ちがよかったら
他人はどうでもよいなどと言って、
勝手気ままな行ないをするようになってきたのは、
いかにも残念なことである。
 平素から、
いつ死んでも心残りはないという覚悟を決めていない者は、
きっと死場所もよくないだろう。
そして、平素から必死の覚悟でいるならば、
どうして賤しい振る舞いができよう。
このことをよくよく胸にたたんでおくことだ。

◇ いまこのときに「すべてがある」と思う


1 とにかく「出端をくじく」

 まさに現在の一瞬に徹する以外にはない。
一瞬、一瞬と積み重ねて一生となるのだ。
ここに考えがおよべば、
ほかにあれこれとうろたえることもなければ、
探し回ることもない。
この一瞬を大切にして暮らすまでのことだ。
一般の人は、
ここのところを間違って、
別に人生があるように思い、
それを尋ね回って、この点に気づく者がない。
この一瞬をいつも大切にして怠ることがないようになるには、
年功を積まなければならないものである。
しかしながら、
一度その境地にたどりつけば、
いつもそのように思いつめていなくとも、
その境地をはなれることはない。
 この一瞬にすべてがあるということを十分に心得たならば、
物事は簡単に運ぶものだ。
この一瞬に忠節の心が備わっているものである。

 いまというときが、いざというときである。
いざというときは、いまである。
そのいまと、
いざというときとを二つに分けて考えているから、
いざというときのに合わない。
いますぐに殿の御前に呼び出されて、
「これこれのことについて、その場で答えてみよ」
と言われた場合、きっと困るであろう。
 それは、
いまといざというときを二つに分けて理解していることの証拠だ。
 いまのいまがいざというときだと、
一つのものとして頭に入れておくことは、
殿の御前に出て物が言える身分の奉公人には最後まで、
ならないかもしれぬが、いやしくも奉公人であるからには、
殿の御前であろうと、御家老の前であろうと、
また江戸城内で将軍様の御前であろうとも、
よどみなく言って間違いがないように、
寝る前にも練習しておくことだ。
 すべてがこのような調子でなければならない。
何事もそれに準じてよくよく心がけることだ。
槍を突くことも、表向きの御用を勤めることも同じことである。
このように、突きつめてみると、
日ごろに油断があることも、
平素から心の準備が整っていないことも、
すべて明らかになると言えようということだった。

 公の場所と寝所、戦場と畳の上、
それをまったく別々に考えていて、
いざというときになって急に立ち上がるものだから役に立たぬのだ。
いつ、どのようなことが起こるかもしれない。
畳の上にいても武勇の働きができる者でなくては、
戦場へも送り出すことができぬ。

 武士たる者が武士道を心がけねばならないということは、
格別とりたてて言うほどのことでもないが、
ほとんどの人に油断があるように思う。
そのわけは
「武士道の根本を何と心得ているか」
と問いかけたとき、すぐに答えられる人は少ない。
平素から、心の中に納得ができていないからだ。
これによっても武士道を心がけていないことが分かる。
油断このうえないことではないか。

 覚の士、不覚の士ということが軍学の本に説明されている。
 覚の士というのは、
事に出会ってそれを経験によって体得したというばかりではない。
事に先立って、
それぞれ対処の仕方を検討しておいて、
遭遇したときにうまくしとげることである。
されば、万事あらかじめ用意しておくのが覚の士である。
不覚の士というのは、
その場にいたって、たとえ対処できても、
単に運がよかったというだけのものだ。
前もって物事を調べておかないのが不覚の士である。

◇ 「七つ呼吸する間」に腹を決める


 小利口では物事は成功しないものだ。
大きな観点がいる。
良し悪しの評判など、
いい加減にしないことだ。
ぐずぐずしてはならない。
思いきるところは早く思いきって、
遮二無二やって解決しないと武士とは言えない、
とのことである。

大雨の際の戒めということがある。
途中で俄雨にあって、
濡れまいとして道を急いで走り、
軒下などを伝って歩いても、
濡れることに変わりはない。
はじめから覚悟を決めて濡れたときは、
不愉快な思いはしない。
いずれにせよ濡れるのだ。
これはすべてに通ずる心得である。

◇ 大高慢の効用「自分に並ぶ者なし」


 武勇の者と年若い者は、
自分こそは日本一だと大高慢でなければならない。
しかし、
道を修行する一日一日のことでは、
己の非を知ってこれを改める以外にはない。
このように心の持ち方を分けて考えないと、
埒があかない。

(中略)
おおいに高慢な心を持ち、
自分は日本国中で並ぶ者がないほどの勇士だと考えていなければ、
武勇を表わすことはできないのだ。
武勇を表わすのにも気力の段階というものがあるのである。

 武士は、その場での一言が大切である。
ただの一言で武勇が人に知られるものだ。
平和な時代に武勇を表わすのは言葉一つだ。
乱世にあっても一言で剛の者か臆病者かを見分けることができるだろう。
この一言が、心に咲く花である。
口では説明し難いものだ。

 武士は、かりそめにも弱気のことを言うまい、
またなすまいと平素から心がけているべきである。
ほんのわずかなことで心の奥底を見すかされるものだ。

◇ 「勝つ」ための絶対条件――機会を読む



 成富兵庫という人が言うには、
「勝つということは、
味方に勝つことである。
味方に勝つということは、
自分自身に勝つことである。
自分自身に勝つということは、
精神力で勝つことである。
味方数万の武士の中にあっても、
自分に続く者は一人もいない
というくらいに平素から身心を錬えておかないと、
本当に敵に勝つことはできない」
ということだ。



こちらの内容は、

『葉隠』

発行所 株式会社三笠書房
訳編者 奈良本辰也
2010年7月10日 第1刷発行

を引用させて頂いています。


よろしければ、サポートよろしくお願いします❤ ジュニアや保護者様のご負担が少ない ジュニアゴルファー育成を目指しています❕ 一緒に明るい未来を目指しましょう👍