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【禅 ZEN】意識、無意識、阿頼耶識

意識、無意識、阿頼耶識


 さて教室にいる多勢の生徒たちがこの私のすべての内容だとすれば、
ふだん外側からわかるのは担任教室
つまり代表的な自己からだくらいだと申し上げた。
ここで担任というのが、意識である。
しかし私という教室の中身はむろん担任だけではない。
多くの生徒たちがいる。
教室のなかに入ると生徒たちの顔も見えてくる。
これが、外側からは見えない無意識
フロイト(注2)の言う「潜在意識」というものだろう。
さらにその生徒たちにはそれぞれ違った生活環境や歴史があるから、
彼らの心は一様ではない。
そこまで把握しないと、本当に一丸になることは難しいわけだが、
彼ら個々の心の総体を、ユングは集合的無意識と呼んだ。
それは教室の外側からの命名だが、つまりどんな個人にも、
その中に多くの生徒のいる教室があるということだ。
そしてその生徒たちの顔ぶれは、
どの教室もだいたい同じではないか、ということなのである。
「集合的」の原語はCollectiveだが、
これは人によっては「普遍的」と訳している。
つまり、誰の心の底にも、
普遍的に存在している原初的無意識があるというのだ。
 心に対するこうした分析は、もともと唯識仏教の認識である。
 それによれば、
眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官によって生ずる五感
さらに六番目のによって捉えられる、つまり(第六)意識
そしてその奥の教室内の生徒たちの存在が第七末那識
また生徒一人ひとりの心まで立ち入ると、
たとえば三千人の心のパターンがあれば、
大概どの教室も同じだろう、という認識で、
この三千の心の総体が阿頼耶識と呼ばれる。
末那識というのは、
どの生徒も自分がいちばん愛しいと感じていること、
と思っていい。
だから意識の言うことをなかなか聞かない無意識が存在するわけだ。
それが、意識(担任)によって一丸になれない第一の原因である。
さらに無数の生徒たちの個別の心情となると、
どんな人もほぼ同じ構成メンバーだといわれても、
なかなかこれは把握できない。ベテランの担任教師でも難しいだろう。
しかし我々は、
そこまで行かなければ
本当の自分をトータルに受けとめることはできない。
 だから我々は、
坐禅」して阿頼耶識を見ようとする
全員の生徒の気持ちを感じようとするのである。
 キリスト教徒であった遠藤周作さんは、
神はどこにいらっしゃるのか、
と訊かれて「阿頼耶識」と答えている。
むろんそれは、典型的なキリスト者の答えではないが、
少なくとも東洋人には、そう考えることも可能ではないかと思える。
当然のことながら阿頼耶識には、素晴らしい心ばかりがあるわけじゃない。鬼も蛇も、そこに住んでいる。
遠藤周作さんは、そういった邪悪と見える事柄にも、
神は「働いて」いると仰るのだが、
それはじつに『大乗起信論』(注3)の考え方に似ている。
 あらゆる行ないや思いの残り香が染みついているとされる阿頼耶識は、
そのままではむろん濁っているわけだが、
あるときそれが一斉に澄む。
パタパタパタっと裏返るように、すべてが清らかになる。
その心が「自性清浄心」と呼ばれる。
むろん構成メンバーであるクラスメイトは、
濁った阿頼耶識とまったく同じなのである。

「坐禅」で生命の歴史を遡る


「坐禅」を組んでいると、いろんなことが思い浮かんでくる。
 まあじっとしているのだから、
何かしているよりも余計に浮かんでくるに違いない。
これは先生がいなくなった教室と思えばいい。
 初めは自己意識という担任教師が、あれこれ話している。
だから頭の中にも理屈が浮かぶ。
これはまだ「坐禅」になっていないといえるだろう。
一つの理屈からいろいろなことが連想され、
眼球は左右に揺れる。
ここで思考をやめないと、やがて揺れはからだに及んでくる。
熟練した禅僧であれば、この眼球が揺れた時点でわかるから、
警策と呼ばれるあの痛い板で叩いてくださるのである。
 しかししばらくすると、担任教師が出ていってしまう。
これはつまり、自己意識が保ちにくくなるということだ。
 理由はいろいろ考えられるが、
まず薄暗い空間で長いこと眼を半眼に開いていると、
焦点がぼやけてくる、ということがある。
目線がきっちり何かに向かっていて、
初めて我々の「自己」もしっかりしてくる。
これはからだと心の重要な関係である。
「坐禅」に慣れてくると、初めから全体視を心がける。
つまり目線が向かう中心点と、視野の輪郭を同時に意識するのだ。
意識というのは、
二点以上に分散されると文字どおりアイデンティティを保てなくなる。
そうして教室には、生徒たちだけが放置されるのである。
 放置された生徒たちは当然のことながら、はしゃぎ廻る。
おとなしく椅子になど、坐っているはずがないだろう。
これが、初期の「坐禅」における脳内の賑やかさだ。
 この状態で「坐禅」をやめてしまうと、
「坐禅」っていったい何なの、
と思うかもしれない。
「坐禅」中の脳内の変化などを調べている人たちによれば、
しばらくするといわゆる人間独特に発達した大脳皮質、
つまりヒューマン・ブレイン(注4)の血流が少なくなってくるらしい。
簡単に言えば、厚さ4ミリ程度のこの脳の、
約30パーセントを占めるのが前頭連合野、それを含め、
左半球が主に言語認識や計算機能を司る左脳、
右半球が空間認識や音楽・絵画などの鑑賞に働く右脳、
ということだが、
刺激レベルの低い状態がつづくことで、
まず理知的な左脳が休息し、右脳が優位になり、
それにつれて今度は、
ヒューマン・ブレインよりも内側の古い脳が活性化してくるようだ。
 新皮質のすぐ内側には、旧哺乳類型のアニマル・ブレインがある。
これは情動脳とも呼ばれるように、
理知的に考えても収まらないようなもっと深い情動に関わり、
自律神経などもこの脳に支えられている。
またそのもっと奥には、フェアリー・ブレインと呼ばれる脳があり、
これは爬虫類型ともいわれるもので、
反射など、さらに原初的な感覚を司っているのである。
 つまり「坐禅」をすると、まるで人類の進化史を遡るように、
新しい機能が休息していって古くからの脳が目覚めていく
つまり生命体としての人体が、より根源的な状態に変化していく
ということだ。
 想像してもわかると思うが、生命力とは、きわめて根源的なものである。DNAは、一度も死んだことなく受け継がれてきたのだ。
だから、脳の状態が原初に戻っていくことは、
即ち生命力が昂まっていくことだと思っていい。
 しかし初めにも申し上げたように、
生命力が昂まるということは、両刃の剣。
つまり、煩悩の材料もお悟りの材料も同じ生命力、
同じ構成メンバーだったわけだから、
「坐禅」しはじめてしばらくは、この煩悩に悩まされることになるのだ。

こちらの内容は、

『実践!「元気禅」のすすめ』

現代に活きる知恵がある
いまこそ見直すべき日本人の心

発行 株式会社宝島社
著者 玄侑宗久 樺島勝徳
2005年11月30日 第1刷発行

を引用させて頂いています。


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