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法はなくても行政は存在する──法治主義と行政裁量

 ちょっと専門的で堅い話だが、前回取り上げた「法治主義」についてさらに論じてみたい。

法律による行政の原理 
「わが国の法運用の実態と“法治主義”」で述べたように、わが国では、公共的な目的のために必要な場合でも、行政機関は、個人の権利制限を伴う法を規定通りに正面から適用することはせず、行政指導という一見ソフトではあるが、国民が裁判で争うことが難しい手法を使って目的を達成しようとする。

 そこには、権限を濫用しがちな行政機関に対する法の縛りが効いておらず、法の隙間を埋める広大な行政裁量の領域が存在し、国民の権利が侵害される可能性が高い。したがって、法律学の視点からは、行政機関の裁量といえば制限すべきもの、行政機関の権限の濫用を防ぐためには最少であるべきものと主張されることになる。

 そもそも統治機能の一つである「行政活動」の多くは、国民の自由や権利を制限するものである。それが、濫用された歴史的経験から、市民革命ののち、行政機関が国民の権利や自由を制限し義務を課する場合には、被治者である国民が同意したルール、すなわち国民の代表が構成する議会の制定した法律に基づくことが要求されるようになった。これが法治主義ないし「法律による行政の原理」の考え方である。

 この考え方が発展し、今日では、行政活動の前提としてまず法律の根拠が必要とされる。言い換えれば、法律の授権なき行政活動は認められないという考え方だ。法律の枠内では、行政機関の裁量が認められるにしても、それはあくまでも法を具体的なケースに適用する場合であり、法の定める目的以外の目的のために、法で定められた権限を使うことは許されない。こうした法律学の考え方は、権力を濫用しがちな行政機関に対する 民主的統制の仕組みとして合理的なものといえる。

行政学の視点
 しかし、行政学・政治学の観点からみると、異なる理解も可能である。

 それを規律する法があろうとなかろうと、社会があり、人々が生活し、経済活動を行っている以上、国民が安心して暮らし、経済活動が円滑に行われるためには、犯罪や不正行為を抑制する活動は必要であり、そのような信頼できる社会を形成・維持することは、国家の責任である。そして、それを行うには、権力が必要である。

 ただし、この権力は、むき出しの権力ではない。統治システム、すなわち国家の基本的な制度に基づく正統な権力、要するに“公権力”である。行政の機能は、この公権力を行使して、社会の安寧、平穏な秩序を形成維持することにほかならない。この機能は、法の有無、その規定の仕方の如何を問わず、国家にとって不可欠のものである。

 それゆえ、行政学──より広く国家統治──の観点からは、まずこの機能があり、その根拠、目的、手段等を規定するものとして法が位置付けられることになる。法があってはじめて行政機能が存在するのではなく、国家の統治機能としての行政があり、それを規律するものとして法があるという理解である。

 当然のことであるが、複雑な統治活動を巨大な行政機関が担う以上、何らかのルールがなくては、活動はできない。社会を規制する根拠を定め、予見可能性がなければ円滑な社会活動ができないからだ。だが、そのような法の枠内に行政の機能はとどまるものではない。

行政に対する法的統制
 このように考えたとき、では、そのルールを誰がどのような手続を経て作るのか。かつては政治的リーダーが、統治の都合の観点から、それを上から決定した。もし、聖人君子がいて、彼が統治し国民が皆幸福で豊かに暮らせるならば、強制を伴うような法は不要であろう。漢の武帝の「法三章」の世界である。しかし、そのような名君はまずいない。

 多くの君主の統治が国民の権利の不当な侵害を招いたことから、ヨーロッパでは、市民革命を経て、国民の基本的人権を制約する場合や国民に義務や負担を課す場合には、国民の同意、つまり国民が選出した議会の同意を必要とする制度に改められたことは前述の通りである。そして、議会が制定した法に反した場合には、国民は裁判所に救済を求めることができるようになった。

 だが、あくまでもこの場合に行政機関の行為が議会制定法で縛られるのは、国民の権利を制限し義務を負荷する場合だけである。これが、「侵害留保」の考え方である。

 この考え方について留意すべきは、それ以外の行政活動に関しては、法の規制は及ばないという点である。これらの行政活動──たとえば、補助金等の金銭給付や社会のインフラ整備事業の実施──は、統治行為の一環ではあるが、行政機関の裁量に委ねられる。現実の行政活動においては、この裁量に委ねられる範囲が圧倒的に広い。

 こうした侵害留保の考え方が取り入れられた背景には、19世紀の欧州諸国における歴史的な君主の権力と台頭する市民勢力との対立がある。議会を基盤として勢力を拡大してきた市民階級に対して、保有してきた統治権を守ろうとした君主勢力はさまざまな正当化のための理論、学説を動員したが、これもその一つといえる。

 ただ、現実の歴史は、このような君主サイドの防衛や抵抗にもかかわらず、次第に議会勢力が拡大し、多くの国で君主制は消滅し、行政権は、「国権の最高機関であって、唯一の立法機関である」議会の統制に服することになった。

 その結果、行政機関の活動については、国民の権利制限や義務負担の場合に限らず、広く法律上の根拠を求められるようになってきたといえよう。極端な場合には、すべての行政機関の活動に法的根拠を求める「全部留保説」まで、登場する至っている。

 たしかに、公権力行使の主体である行政機関は、その権限を濫用する危険な存在であるという認識に立てば、すべて行政活動を法で縛ろうとする発想も理解できないこともない。

想定外への対応
 しかし、現実にこの考え方を貫徹して国の統治を行おうとするならば、社会で生じている、そして将来的に生じるであろう事象をすべて見通し、法がカバーしていなければならない。そんなことは可能なのか。

 それが可能であるためには、立法府は全知全能でなくてはならない。さもないと、法がカバーしていない領域については、必要な行政活動も行うことができず、立法の不作為の責任を問われることになる。

 東日本大震災のあと、「想定外」という言葉は禁句とされたが、現実の問題として、将来起こりうる事象をすべて想定することは、神でもない人間には不可能である。事実、昨年来の新型コロナ感染症の蔓延を誰が想定できたか。

 そうした事態にも、国家は、国民の生命財産を守る責任を負っており、対応しなければならない。プログラムにバグがあるとコンピュータは作動しないが、行政機関は、根拠法がないからといって、何もしない、何もできないのでは、国民の基本的な権利を守ることができない。

 もちろん、このような想定していなかった緊急事態が発生したときには、緊急立法を行う、あるいは予め緊急事態に対する包括的な授権法を制定しておくことによって、法治主義の原則を貫くという方法も考えられる。

 しかし、状況が時々刻々変転するような状態のとき、緊急立法は間に合わない。また、緊急事態を対象とした包括的授権法は、どの程度詳細、具体的に授権内容を定めているかという規律密度が低いと、すなわち広く必要な措置は何でもできる、と定めてしまうと行政機関に過剰な権限を付与することになり、国民の権利にとってのリスクは高まる。非常事態対処法制の問題点として指摘される点である。

 現在のように、社会が複雑になり、しかもその動きが速くなった時代には、このように法によって行政機関の活動を統制するには限界がある。繰り返しになるが、技術的にすべての将来の事象をカバーすることは不可能である。仮に緊急に立法化するにしても、立法過程における政治的要素が、作られる法制度の歪みや立法の遅延をもたらす可能性がある。

 こうした課題状況を念頭に置いて、法律学の視点だけではなく、異なる視点からも、この課題に最も適した解決方法を検討してみるべきであろう。

行政裁量の活用を!
 行政学の視点からは、あえて優れた行政官の専門知識に基づく迅速かつ的確な裁量的判断をもっと高く評価すべきと主張することになろう。

 行政官の権力の濫用や恣意的決定のリスクを防ぐために、基本的な法的規制はもちろん必要であるが、具体的詳細に法で縛るよりも、手続の整備と公開の原則を徹底することによって、また、法以外の人事や財務、政策評価等の手段による行政の民主的統制を図ることによって、行政官の裁量的決定をもっと活用すべきである。

 立法の完全性は期待できない以上、不完全な法で細かく縛るよりは、効果的な裁量に委ねるべきだ。複雑化した社会において行政に対する政治の介入を排除し、政治から切り離された合理的で専門的な行政の確立を唱えたアメリカ行政学の「政治・行政分断論」がなぜ主張されたのか、今こそ、その考え方をもう一度想起すべきであると思う。

 法治主義は、法制度が完全であって初めて貫徹されるものであることを忘れてはならない。