原理主義と選択的夫婦別姓制度
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原理主義と選択的夫婦別姓制度

一般社団法人次世代基盤政策研究所(NFI)

 8月にタリバンがアフガニスタンで権力を掌握してから、かつてのタリバン支配の時代のように、厳格なイスラム原理主義に基づく統治の下、女性の権利が否定され、女性の行動規制や教育を受ける機会の剥奪等が行われるのではないかと懸念されている。

 わが国では、憲法で男女同権が保障されている。さらに近年では、ジェンダーの平等は、社会的にも多くの分野で認められつつある。

 しかし、現在の民法のもとでは、結婚に際して、男性または女性のいずれか一方が、必ず姓を改めなければならない。そして、現実には、男性の姓を選び、女性が姓を改める例が圧倒的多数だ。

 だが、近年では女性の社会進出等に伴い、改姓による社会的な不便・不利益を指摘されてきたことなどを背景に、選択的夫婦別姓制度の導入を求める意見が強くなり、政治的争点となっている。

 当事者である女性が改姓を望む場合は問題ないが、そうではない場合には、夫婦で別姓、すなわち女性が旧姓を名乗り、夫婦で異なる姓を名乗ることを認めてもよいのではないか。特段の社会的障害がないかぎり広く自由は認められるべきであるし、人権や自由を尊重する観点からも、選択制にすることにどのような不都合があるのか。

 このような選択的夫婦別姓制度の導入論に対しては、とくに保守層において、わが国の伝統であるとか、古代以来の麗しき家族制度に基づくものとか、子供の姓をどうするか等々の理由を挙げて消極的な意見が聞かれるが、世の中は変わってきているのであり、伝統的な制度であるからといって維持すべき積極的な理由にはならない。

 海外では、決して珍しくない制度であり、それが問題となっていることはないようだ。このように考えると、選択的夫婦別姓制度の導入に反対する根拠はそれほど明確で説得力のあるものではない。

 消極的意見に関して、二つ論点を挙げてみたい。一つは、わが国の文化というか、家族についての意識のあり方であり、二つ目は、本人確認、すなわち姓が変わることによって、当該人物の同一性の証明が困難になるという問題である。

合理性を欠く「家」制度への執着

 第1の、家族についての意識の問題とは、現代民主主義社会における個人の自立を重視するか、あるいは、伝統的な「家」制度をわが国の個人生活の基本的単位と考えるかという考え方の違いである。

 かつては、家族は、一緒に暮らし家計や住空間を共にするのが通例であった。いいかえれば、生活の一体性が存在すると考えられたのであり、それが社会の規範としても望ましく、その基盤である「家」制度を維持することで、社会秩序が成り立っているという考え方をベースに制度が形成されていた。

 しかし、現代ではそのような家族の形態は大きく変化し、核家族、単身世帯が増加し、離婚も増えた。社会の仕組みは、実質的に家族ではなく個人を単位として構成されるようになってきている。選択的夫婦別姓制度とは「選択することができる」という制度であり、「選択しなければならない」という制度ではない。

 にもかかわらず、それに反対する人たちは、こうした変化が、麗しきわが国の家制度の伝統を壊しつつあることを憂い、男性である家長を中心に構成された古き家制度へのノスタルジーから、そのような態度をとっているものと思われる。

 社会の実態を無視して、男性優位の家制度を美化する意識の根底には、個人の権利を基礎として社会のあり方を考えるという合理的な制度観ではなく、過去に存在していた歴史や伝統に対して心情的に憧れる感性が存在しているといえよう。

 同姓を選ぶ人はいうまでもなく、自分は選ばないという人にも同姓を受け容れることを強いる姿勢は、わが国が採用する民主主義の原理とは相容れないのではないか。実際には、自分は同姓を選ぶという女性が5割近くいるそうだが、それでも別姓を認めてよいという人はそのうちの8割いるという。

 しかし、人間の考え方は、必ずしも合理的な根拠に基づくとは限らない。ある種の信仰か思い込みに基づく制度の構想は、タリバンに限らず、歴史上の多くの原理主義にみられた現象である。

 あえて蛇足を述べれば、現在の戸主をおいて家族の名を連ね、伝統的な家を単位とする戸籍制度は、現行憲法が個人の人権を中心に構成する社会のあり方を定めている憲法の観点からは違憲であるという解釈もありうるといえよう。

本人確認のツールとして姓名は必要か

 第2の本人確認は、技術的な問題である。しかし、現代社会において、ある人物が誰であるか、どのような属性をもち、どのような経歴を有しているかを確認することは極めて重要である。

 従来は、このような本人確認のために、姓名、性別、生年月日等を照合していたが、それでは手間がかかるとともに、同姓同名の場合など、正確性に欠けるところがある。そこで、一人ひとりに振られるマイナンバー制度が設けられたが、社会の誤解もあり活用されていない。現状は、多大なコストをかけて、従来の方法で本人確認が行われている。

 極論すれば、この点は、マイナンバー制度によって、本人確認、すなわち実際の人物とその者に関する情報とを結合できれば、姓は固定的なものでなくてもよいはずだ。姓は、本人の好みに応じて、ペンネームか芸名のように変えても、マイナンバーに紐付けられていれば、問題はないといえよう。

 大学教員の知人から聞いた話だが、ある大学の教員採用の選考において、一人の女性候補の資料に、学部と大学院で取得した学士、修士と博士の学位記のコピーが添付されていたが、その学位記に記された姓が、学士と修士、博士ですべて違っていたという。

 理由は、独身時代に大学を卒業し、結婚して修士号を取り、その後、離婚し再婚して博士号を取得したというのだ。それらの学位記の取得者が同一人物であることを証明するために、個人情報に満ちた何枚もの戸籍謄本のコピーが添付されていたとのこと。

 もし、学位がマイナンバーに紐付けられていたら、この候補者のマイナンバーを介して、容易に取得している学位を確認することができる。一々姓の変化を追跡して本人確認する必要はない。

 また、シンガポールに滞在したときに聞いた話だが、この国の国民の多くは中国系で、たとえば成龍という漢字表記の名前を持っているが、欧米系の企業等のビジネスで便利なように、ジャッキー・チェンのような通称ももっている。ビジネスの相手は、同一人物かどうか確認しなければ安心して取引はできない。

 そのような場合、名刺に書いてあるID(マイナンバー)によって、当該人物の情報を確認できるサイトがあるとか。ちなみに、香港の映画スター、ジャッキー・チェンは、もちろん芸名、Wikipediaによると、中国名が成龍、出生名は陳港生、本名は房仕龍といろいろと名前をもっているそうだ。

 このような例を考えると、本人確認が適正にできるならば、名前はかなりフレキシブルに考えてもよいように思われる。文化とか伝統も重要だが、それを受け容れていない者をも縛るのはいかがなものか。

 もちろん、社会には、皆が守らなくてはならないルールも存在しているが、それは少ない方がよい。少なくとも、異なる考えをもつ人に対してその合理性を説得できないような原理原則は根拠とすべきではない。

 神を含む歴史的な教義を社会を規律する根拠とすることによって、社会を成り立たせている場合があることはまちがいない。しかし、技術の進歩や環境の変化によって、前提とする社会状態は変わるのであり、昔作られた教義が普遍的に妥当するわけではない。

 何を信じるかは個人の自由であるが、現代社会にそぐわない原理主義的制度を押しつけることは、自由と民主主義を標榜する社会では、その進歩を妨げることになろう。

一般社団法人次世代基盤政策研究所(NFI)
新型コロナ感染症の蔓延をはじめ、激動する現代社会には、さまざまな問題が発生しています。 このNOTEでは、現代社会が直面している課題について、NFIのメンバーが、専門家の目でそれらのトピックについて書いた辛口のコメントを掲載いたします。