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法治主義と非常時体制

コロナ感染症の第5波は、それまでとは異なる拡大を示している。また、最近の豪雨による洪水、土砂崩れ等の被害も記録にない規模のものが多く発生している。こうした災害に対して、行政は被害者の救済、被害の拡大防止、そして復旧に取り組まなくてはならないが、コロナの感染抑制のためのロックダウンをめぐる議論にみられるように、想定外の事態にいかに法治国家の下で対応するかは、これまで指摘されながらも、充分な回答を見いだせていない課題である。(ロックダウン問題については、JBpress「ロックダウン」という幽霊に怯える日本人の悲しい固定観念:コロナ禍を乗り越えるには国民の行動制限の法制化が不可欠を参照されたい。)

11年前の東日本大震災のとき、同様の問題に遭遇していた。その後、一定の法改正は行われたが、非常時における法制度については、その悪用の危険性も指摘され、しっかりとした議論も、まして法制化も進んでいないといえよう。11年前に書いた文だが、今でも当てはまると思われる。(以下は、2011年8月5日、東京大学政策ビジョン研究センターのホームページのコラムに執筆したものである。)

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東日本大震災では、多くの医療機関が津波で被災し、高齢者を多く含む入院患者が他の病院に緊急移送された。患者の命を救うために行われた行為だが、多数の患者を混乱状態で移送したため、受け容れた病院では、それらの患者の病状や投薬の状態を把握できなかった。そこで、受け容れた医療機関では、病名や投薬の情報を得るために、その患者のレセプト(診療報酬請求書)の閲覧を求めたそうだが、それを所管している県の担当者は、レセプトは個人情報なので、本人の同意なしには閲覧は認められないと回答したそうである。認知症の高齢者も多く、困った医師からの要望が多数寄せられたため、厚労省は、本人同意があったことにして閲覧を認めたという。

また、津波で役所も被害を受け、住民基本台帳も流失していた自治体で、津波で自家用車を流された人が、移動手段がないために中古車を購入しようとしたところ、住民票や車庫証明の提出を求められたという。

ヘリコプターが着陸できる場所がないので、救援物資を投下によって渡そうとしたところ、わが国では空中からの物資の投下は認められていないので、震災直後の救援できなかったという。

被災者が避難してきた地域で、観光庁の通知『宿泊施設における県域を越えた被災者の受入体制について』によって、避難所として使われたホテルや旅館も災害救助法の適用を受けられるようになった。しかし、ある県では、この通知を狭く解釈して、「民宿」に避難した人たちには適用を認めようとしなかったそうである。

さらに、建設が強く求められている仮設住宅であるが、建設は都道府県が行うが、用地の手配は市町村の事務である。そのため、海に面した平らな土地が少ないところでは、公有地だけでは足りず私有地を使わざるをえないが、現行制度の下では、それには所有者の同意が必要である。しかし、所有者の所在は容易に確認できず、用地確保ができない状態が続いているところがあるという。

このような話はまだまだあるが、ここでいいたいのは、非常時における法令運用の問題である。非常時であり、ルールの規定の方が合理性を欠くことは自明と思われるが、では、現場の裁量でルールを無視してもよい、といえるのか。その結果について、誰が責任を負うのか。今回の震災では、こうした事態への備えの不備が多数明らかになったと思う。

ルールが前提としていない事態への対応

そもそも行政活動とは、多様な住民や社会の状況に対して、きめ細かく対応することによって、いいかえれば社会システムを精密に制御することによって、われわれの住む複雑な社会を快適で安全な状態に保つ活動である。

社会は複雑であり絶えず変化しているが、それらは精緻に作られたルール──法令等──というプログラムによって管理されている。プログラムによって管理されているといっても、もちろんコンピュータが管理を行っているわけではない。精密機械の部品のように、多方面の前線に配置され訓練を受けた公務員が、自分に与えられた職務を、それを定めたルールを適用することによって行っているのである。

こうした前線の公務員は、彼の行動を律するルールをマニュアルによって解釈し、目の前のケースに適用していくことが任務である。もちろん多様なケースについて、裁量の余地はあるが、多くの場合、それをも織り込んだルールが作られているし、どうしても解釈に困るときは、いわゆる上級機関に問い合わせて指示を仰ぐことになる。

このような公務員は、当然、複雑な社会を律しているすべてのルールについて知っている必要はない。そもそもそれは無理であり、また広く社会で起きる出来事を一々考慮してルールの適用を行うことは、いかにその公務員が有能であったとしても不可能である。前線の公務員は、自分に与えられた職務に関するルールだけを知悉していればよいのである。

社会全体を管理するという観点から重要なことは、幹部の公務員──これが、「官僚」と呼ばれる人たちである──が、広く生じうる事態を予想してそれに対処できるような体系的なプログラムを作成し、その解釈の方法を前線の一般公務員にきちんと伝達することである。

こうしたメカニズムのゆえに、前線の公務員が与えられた職務をルールに従って処理することによって、社会全体が精密に管理されるのである。現代国家のこのような精密で巨大な仕組みは、一朝一夕でできるものではないし、一度形成されると、容易に抜本的な変更や改革を行うことも難しい。

こうしたルールと多数の公務員からなる体系が、現在国家における「官僚制」であり、一度構築されると、政治的リーダーの交替によっても容易に変えることはできず、またもしこの体系が破壊されると、社会機能は麻痺することになりかねない。このことを鋭く指摘したのが、マックス・ウェーバーである。

しかし、これはあくまでも社会で生じることが予測でき、対処方法がルールのどこかに書かれている「平時」の場合である。まさに「想定外」のことが起こりうる「非常時」には事情が異なる。ルールが前提としていない事態の発生や平時と異なるニーズは、平時とは異なる対応を必要とする。

冒頭の例のように、平時では尊重されるべき個人情報の保護や財産権保護のルールも、緊急に本人の生命を救い、生活の場を確保しなければならないようなときには邪魔になることもある。また、非常時には多少のリスクを冒すこともやむを得ない場合があり、そのようなときには、安全のための規制が障害となりかねない。平時とは異なる価値が優先されなくてはならない場合があるのである。

今回の震災では、このような平時の状態、さらにいえばある程度の非常事態を想定していたルールの、その想定の範囲を超えた事態が発生した。プログラム上で、そのような事態への備えがなかったため、前線の公務員が平時と同じ対応をした結果、冒頭のようなさまざまな問題が発生したといえよう。

恣意的にルールを解釈するよりは、どのような事態であれ、ルールを守り、ルールに従って、職務を遂行する公務員は優秀である。しかし、非常時であることを認識し、その状況下で客観的にみて、最も適切な判断ができる公務員はもっと優れている。とはいえ、そのような状況認識と、まして客観的に見て適切な判断を行うことは極めて難しい。現在の制度の下では、公務員がルールに従って職務を行うことを重視し、ルールに反する行為は、それがいかに裁量として的確であっても違法とみなされる可能性があるのである。

弾力的な運用のために

では、どうすればよいのか。その正解を示さずに、公務員の不合理を批判することは無責任であろう。

今回のような対応への反省を込めて、今後採るべき対応策を考えてみるならば、概ね次のようなことがいえるのではないだろうか。

第1に、平時のルールの弾力性を高めることも重要であるが、それ以上に、非常時を想定したルールをきちんと定めておくべきである。つまり何をもって非常時とするかをはじめ、非常時にはいかなる価値を優先すべきか、限られた資源をどのような優先順位で配分するか等の原則を示したルールであり、とくにどのような権利を制限できるかを明示することは重要である。

第2に、いかに平時と異なるルールを定めるにしても、非常時に発生する出来事は想定を超える可能性がある。そのため、対応策の詳細については、現場の担当者の裁量的判断に委ねざるを得ない。そのような場合に、的確に対応できるように、担当者の権限と義務を明確に、しかし弾力的に運用できるように定め、その適切な運用の方法についての研修・訓練を常に行うことが重要である。

第3に、想定外の事態に遭遇する可能性がある以上、重要なことは、決定を行う責任者と手続をしっかりと定めておき、指揮命令系統を明確にしておくことである。合議によって知恵を集めることは望ましいが、緊急時の最も稀少な資源は時間である。軍事組織がそうであるように、情報と権限をトップに集中し、トップが適切な決定ができるようにすることが必要である。そして、トップが指揮をできなくなることをも想定して、命令系統のバックアップシステムの構築も忘れてはなるまい。

そして最後の第4は、こうした非常時に行った決定・判断についての法的責任のあり方である。直面した状況、入手可能であった情報、動員可能であった資源等を踏まえて、そのときなされた決定が合理的であると考えられるならば、その決定によって生じた結果については免責される仕組みも必要であろう。ルールに則った厳格な責任の追及は、ルールに縛られた解釈や行動を産み、それが非常時に必要とされる大胆な決断や行動を萎縮させることになりかねないからである。このことは、非常時のトリアージにおける医師の判断に対する責任の問題と共通である。

非常時には非常時の仕組みを

今回の震災への政府の対応をみていて感じるのは、非常時において尊重すべき価値と平時のそれとの区別がなされていないということである。非常時には、何よりも迅速な決定・行動が求められる。それを可能にするためには、誰かに権限を集中させ、その者の判断ですべてのシステムが動くようにしなければならない。そして、その決定者は、犠牲を伴う決断をしなければならない以上、批判は覚悟の上で決断できる資質をもった人材でなければならない。

そうした責任あるリーダーの下にすべての情報を集中させ、最善の決定を行わせることができるような環境を作ることが重要である。非常時には、何よりも多数の人命の救済が、場合によっては民主主義の手続よりも、情報の公開よりも、まして形式的な法令上の義務よりも優先されることがあることを認識すべきである。

ただし、これはあくまでも期限の限られた非常時の仕組みであり、非常事態が終了したときには、速やかに平時の体制に復帰されなければならないことはいうまでもない。