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マイナンバーカード問題──高齢社会が生む(?)非現実的な“ゼロリスク”の追求──

今、問題になっているマイナンバーカード問題について、山本一郎氏が文春オンラインに、下記のような記事を書いている。

https://bunshun.jp/articles/-/64160...

同氏の、さすがというべきか、いつも変わらぬ絶妙の文体は読者を魅了するが、論旨は明解で正論がブレずに展開されていく。

とくに「行政改革は何をやっても高齢者からの評判が悪くなる」はそのとおり。何となく落ち込んでいく今の社会に不満をもち、残り少ない人生に不安をもつ高齢者が、現状変更に反対する。

私を含め高齢者は、先行き不透明な世の中になり、今もっているものを失うのが怖いのだ。これまでの社会、今までのようなやり方が一番よいという気持ちはわからないでもないが、どう考えても現状維持はありえない。

行政にしても、日常生活にしても、金がない、人手が足りない。そしてそれが回復して元のようになる可能性はない。今の社会の質を保っていくためには、デジタル化して、合理化、効率化を図るしか方法はないのだ。

スマホを操作してSNSから情報を得ることが不得意な高齢者の多くは、テレビ、紙の新聞、週刊誌等、従来のメディアしか見ない。当然、売り上げの減ってきたこうしたメディアは、昔ながらの顧客を失うまいと、彼らが批判する対象を攻撃して、彼らが喜ぶ記事を掲載する。

SNSを活用している若者は、旧来のメデイアは見ない。彼らは、年寄りに逆らうことはしないが、スルーして自分たちにとって便利な道を選ぶ。年寄りは、そのうち気付いてみたら、取り残されてしまうだろう。

親切な店員がいた銀行の支店は閉鎖され、高齢者もその使い方に慣れたATMも、維持費がかかるので間もなくなくなる。現金も、たくさんの小銭を使おうと思うと、手数料を取られる。お金のやり取りは、ネットが主流になるのだ。

がんばって自分たちもデジタルを学ぶか、若者に敬意を払って教えてもらうか。他に道はない。

政府も大臣も、今回は、こうした高齢者の心理への配慮が足りなかったのではないか。当初はミスやエラーがあったとしても早く修復して、若者にスイスイと使ってもらい、その利便性を示せば、高齢者もそれに倣うことはまちがいない。

マイナンバーカードを返上してみても、いいことは何もない、紙の保険証に戻しても、手間が増えるだけで、ミスが減るわけではない。

高齢者への優しい心遣いは必要だが、彼らの後ろ向きの要求に応えて、せっかく進めようとしている政策を後退させたのでは、この国に進歩はない。ここは、大臣も、批判に耐えて「正しいこと」を貫いて欲しい。

わが国では、なぜかマイナンバーカード問題がこのように炎上するが、ミスがあったことを感情的に憤るのではなく、また誰かの責任として追及するのではなく、そもそも何が問題なのか、その問題の性質はどのようなものか、頭を冷やして冷静に眺めてみる必要があるだろう。

そのようなとき、日本のことをよく知る外国人の見解を聞いてみるのもよい。まさに下記の記事が指摘する通りだし、これが世界の常識であろう。

https://news.yahoo.co.jp/articles/239b90cbe1e46c3f74cbf1eed8e7dd35f5a69ed4?page=1

科学的にものを考える場合、人間がやること、そして将来のできごとを完全に予測することはできない以上、想定外のミスやエラーは必ず発生する。

もちろんそれが少ない方がベターであり、どこまで許容するかは、まさ確率に基づく政策判断の問題である。(わが国では、現在でも、自動車の利便性を得るために、年間2000人以上の交通事故による死者の発生を許容している。)

今回のケースにおけるミスは、確率的には非常に小さい。さらにいえば、私が知るかぎり、それによる事故や具体的な被害が発生したケースは極めて少ない。

もちろんミス“ゼロ”が理想ではあるが、それを基準としてミスを批判すると、隠蔽が行われ、真の事故原因の究明や改善がおろそかになる。

わが国の場合、そのような批判をし、責任者を特定して罰することを解決と考える傾向があることから、責任者を処断するだけで、真の事故原因の究明、有効な再発防止を図ろうとしない。

そして、ミスをなくすために持ち出されてくるのが、精神論である。要するに、ミスは精神の弛みから起こるのであり、それを正すには“根性”を入れ替えねばならないという綱紀粛正の発想だ。

「足らぬ足らぬは努力が足らぬ・・・」それではものごとを成功に導けないことは、先の大戦の敗北で経験したことではないのか。

スポーツ界にも、長くこうした精神主義がはびこっていたが、最近の科学的トレーニングとかコーチングの技術が導入されて、世界での実力が向上してきた。

なぜか政治とメディアの世界では、“ゼロリスク”主義と根性主義が抜けていないようで、不毛なバッシングをして、溜飲を下げれば解決すると考えている輩が多い。

それが、デジタルになじめない高齢者の怒りの火に油を注いだのではないか。そのようなバッシングをしても、隠蔽や見かけの反省が増えるだけで根本的な解決にはならないことを学習すべきだ。

国民への確率論の教育も必要だが、それよりもメディアと政治家は、確率的なものの考え方を学び、冷静に対処してほしいものだ。