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EdTech と教育改革(6) 〜 “学習権”と教育における平等 〜

〇学習者の視点
教育について語るとき、教員や保護者の観点から、あるいは教育行政の責任者の観点から、どうあるべきか論じられることが多いと思います。これは、教育の提供者の視点に立った議論といえます。

しかし、私たちのEdTechの研究会では、視点を変えて学ぶ側、学習者の視点に立って論じることを重視してきました。というのは、この視点を欠いたとき、子供たちにとって大きな負担となるような学習や行動が求められ、それが子供たちの学習意欲や行為を阻害する可能性があると思ったからです。

先日、第1回目の記事について、ある方から次のような情報提供がありました。

GIGAスクール構想がスタートし、その方の小学校低学年のお子さんにもタブレットが配付されたそうです。

そのとき、学校で対面の授業が行われていましたが、コロナ感染症の拡大によって休校となる可能性がある。そこで、いつでもオンライン授業に切り替えられるように、毎日、そのタブレットを自宅に持ち帰り、翌日登校できるならば、もってくるようにという指示があったそうです。

それまでも、子供たちは何冊もの教科書を入れた重いランドセルを背負って通学していたのですが、それに加えて低学年の児童が重いタブレットまで入れて通学するのは、かなりの負担です。プログラム教育といい、オンライン授業といっても、実態は、このように子供たちにさらなる負担を強いている。それが、目指している教育改革なのですか、という厳しい問いかけでした。

子供たちが毎日学校にもっていく鞄や、ランドセル、その他の荷物の数や重さは、そのような子供を持たない大人にとっては想像を超えるもののようです。何年か前、教科書のサイズがB5版からA4版に変わったとき、重さが1.5倍以上になったと聞いたことがあります。

この例などは、まさに子供たちの視点を欠いた教育者の上から目線で見た発想であり、教育現場でこのようなことが行われていることに驚きを禁じえません。

蛇足を述べれば、かつてある大学の研究で、タブレットを教科書として使うことはできないかというアイディアがありました。それこそキンドルのように、いくつもの科目の教科書をインストールしたタブレット一つをもっていれば、いつでもどこでもどの科目の教科書でも読むことができるというのです。

さらにいえば、紙の教科書は、一度印刷するとその内容を改訂することは大変です。社会が大きく変わったときにも、時代遅れになった資料や統計数字を毎年変えることはできません。しかし、タブレットの教科書であれば、まさに「進化する教科書」として、随時最新の情報に接することができるのです。検定等の問題もあるでしょうが、こうした改革も、デジタルを使えば可能だと思います。

脱線してしまいましたが、どのような教育のあり方が適しているのか考察するときには、このような子供たちの目線でみることが非常に大切だと思います。もちろん、小学校の低学年の子供たちから、直接それを聞き出すことはムリでしょうが、あくまでも彼らの視点からどのように見えるかを、大人が考えて教育のあり方を考えるべきです。

いずれにせよ、このような学習者の視点に立った教育システムの形成に当たって、基盤となるのが、子供の「学習権」であると思います。

〇学習権とは?
この基本的人権としての学習権の根拠が、憲法第26条第1項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」にあることは、いうまでもありません。

ここで、学習権とは、憲法上、また関連する法律においてどのように規定され、どのように解釈すべきか、といった難しい議論をするつもりはありません。ここで述べたいのは、この憲法に定める学習権が、具体的な教育の場面においてどのように表れてくるのかということです。

権利とは、Wikipediaによると、「ある行為を行うことの、正当性の根拠となる能力及び資格である。法律上は、一定の利益を主張または享受することを法により認められた地位、あるいは、他人に対し一定の行為・不作為を求めることができる地位」を指すそうです。

要するに、権利とは、他人や政府に対して、当然に何かをして欲しいときに、それを要求する根拠となるものであって、憲法第26条の学習権という場合には「能力に応じて」「ひとしく」学習を受けられるように、政府に対して要求することができる根拠ということです。

もちろんこのような権利が認められているからといって、要求した者が満足できるまで、無限に、政府は教育を提供すべきというわけではありません。しかし、政府は、可能なかぎり、それに近づくべく努力はしなければならないといえるでしょう。

具体的に「能力に応じて」とは、私の理解では、それぞれの子供たちの特性に応じて、ある科目が不得意な子供たちに対してはその科目を重点的に、また優れた能力をもっている子供に対しては、それをさらに伸ばすように教育を提供するということであり、まさに「個別最適化」を図るということにほかならないと思います。

前回述べたように、一人ひとりのスタディ・ログを取り、詳細な分析によって、その能力の多様性や有無を測定することが可能になれば、それによって、能力に応じた教育プログラムの提供が可能になることでしょう。

それでは、次に、このようなきめ細かい対応をどの程度行えば、「ひとしく」教育を受けたといいうるのでしょうか。

〇教育における “平等”とは?
ここで留意すべきなのが、教育における「平等」をどのように考えるかということだと思います。平等とは、比較の視点に立って、他の者と同じ状態にあることを意味しますが、それは、教育を受ける機会なのか、それとも教育を受けた結果の平等なのか。

結果の平等とはどういう状態を意味するのか。前回の教育効果の評価のところで述べたように、これまで客観的な評価は困難なため、今までの教育においては、基本的に、教育のために提供される機会の平等が重視されてきました。つまり、同じ内容の授業を同じ時間教えるという考え方です。これは、一斉一律の授業方式と結びついていることはいうまでもありません。

しかし、このような平等の考え方が、一人ひとり特性の異なる子供たちにきめ細かく対応する個別最適化の考え方と合致しないことは明らかです。その能力に応じて、授業に後れがちな子供に対してはより手厚く、他方、能力が高く先行する子供に対しては、それにふさわしい教育を提供し、形式的な機会の平等ではなく、実質的なアウトカムのレベルにおいて一定の水準に到達するという意味での平等をめざすべきでしょう。

繰り返しになりますが、こうした実質的な平等に近づけるためにも、スタディ・ログによる子供たちの特性の把握とその活用が重要と考えます。

さりながら、現在はまだ、このような子供たちの特性や能力の把握は困難です。その結果、一斉一律の方式になじめない子供たちが登校を拒否したり、子供たちの間で差別を生む原因となっているといえるでしょう。

子供の自殺と登校拒否の数の増加が指摘されていますが、子供たちが、学校になじめず、友だちとの友好な関係を築けない原因には多様なものがあり、何らかの障害がある場合もあれば、非常に個性が強いというケースもあります。そして、なかには他の能力には問題があっても、ある分野については、ずば抜けた特異な能力を保有している子供もいるのです。

こうした子供たちに対して、きめ細かくその特性や能力を把握、評価し、その子のもつ特異な能力はできるだけ伸ばすとともに、他の必ずしも得意としない分野については、その子に適したプログラムを適用しケアをする。そうした個別最適の教育を実施するために、デジタル技術を最大限活用すべきではないでしょうか。

もちろん、今直ちに、そうした理想的な教育が実現するとは思いませんが、その方向で改革を進めていくことによって、憲法が保障する学習権を実質化することになると思います。