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わが国の法運用の実態と“法治主義”

日本における法制度と法運用の問題点を、ドイツにおけるコロナ対策と対比して、鋭く指摘した横田明美氏のインタビューは、優れた記事である。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/85384?imp=0

私は、法律学の専門家ではないが、同じ公行政の研究をしてきた者として、われわれが改めて熟考すべき重要な指摘をされていると思う。

わが国は法治国家であると自認し、多くの法令が作られ、日常的な行政の業務もそれに基づいて実施されている、と多くの国民が思い、法律家も行政官もそのように受けとめて行動している。だが、法治主義という思想が誕生した欧州諸国のそれと比較したとき、その重要な要素を欠いているのではないか。

それを感じさせたのが、この記事の最後の方の日本の弁護士からの「なぜ人権を大事にしているドイツやフランスでこんなに強度の制限ができたんですか」という質問の部分である。このような認識をもっている弁護士は少数と思うが、正直なところ驚いた。法学教育のあり方を含め、国家とはどのようなものか、国家と国民との関係、そして国家統治における法の機能等について、しっかりと勉強してほしい。このような問題を浮き彫りにした点で、コロナ禍は、よい機会を与えてくれた。

私が学んできた公行政、公法理論の教えるところは、法治主義の下にある国家は「人権を大事にするから、必要な場合には強い規制を行う。」というものである。人権は、何も規制を受ける事業者だけがもっているのではない。すべての国民が平等に基本的人権を有し、むしろ一般国民は生命、健康を、本人に起因しないリスクから守られる権利を有しているということができ、国家は一般国民のそのような権利を守る義務を有している。それが、民主主義に基づく法治国家である。さらにいえば、無力の多数の国民の生命や財産を、災害や犯罪等、個人の力では防ぐことのできないリスクから守るために国家が存在しているといってよい。

そして、一部の国民の行為が、不特定多数の無辜の民の人権を侵害する可能性があるとき、その一部国民の行為を規制するのは当然のことであり、それをしっかりと実施して国民の生命、健康を守るのが法治国家であろう。公衆衛生は、その最も典型的なケースだ。

もちろん規制は、比例原則に基づき、必要最少限のものでなければならないが、一般国民の権利を守るために、リスクを作り出す者を規制することは必要である。

たとえば、国民は、本来、権利としての営業の自由に基づき、レストラン等の飲食店を営業することができる。しかし、不特定多数の人々に食中毒などのリスクのある食べ物を提供することから、不衛生な調理場で衛生管理が不十分な食品を料理として提供し、食中毒が大規模に発生した場合、被害は甚大である。そこで、安全・衛生に関するルールを設けて、それを守らせ、違反に対して罰則を設けることによって、そのルールの実効性を担保しているのである。こうした規制、公権力の行使は、多くの国民の生命、健康を守るためには合理的なものということができよう。

ただし、厳しすぎる規制は、飲食店等の経営を困難にしかねない。そこで、比例原則に反する過度な規制は許されず、規制が行き過ぎないようにチェックするのが、司法の機能である。

反面、違反行為を抑制する実効性がないと、制度目的は達成できない。したがって、守るべきルールを明確に定め、それに違反した者に対しては、きちんと罰則を適用する。それが適正に行われているかぎり、過剰な私権の制限とか、強度の制限ということはありえない。

今のわが国で問題となっているのは、要請、すなわち「お願い」によって多くの事業者が営業の自粛をしているときに、それが要請であるがゆえに従わない事業者がおり、彼らの営業の継続によって感染が拡大し、一般国民の生命、健康がリスクに晒されている状態が発生していることである。

その結果、要請に従った事業者が不利益を被り、従わなかった事業者が利益を得るという「正直者がバカを見る」状態が放置されている。独仏に限らず、法治主義の考え方に基づけば、当然、このような場合には、一定の条件下では休業を義務付け、それに応じない事業者に対しては休業を命じ、従わない事業者には罰則を適用して、実効性を担保すべきであろう。

酒類販売店や金融機関に対して、アルコールの提供を自粛しない飲食店との取り引きを差し控えるよう求めた西村大臣の発言が批判されるべき点は、一方で、私権の保護を理由に、規制権限の立法化を強く提案せずに、他方で、法的根拠を欠いた、したがって責任は負わないが、実効性のある行政指導によって、間接的に要請に応じない事業者の規制を行おうとしたことだ。

この方法は、わが国では以前から実際にしばしば用いられてきた方法であり、事実上強制力をもちながらも、法に基づく公権力の行使ではなく、事業者が自主的に従う行為であるため、行政機関は責任を負わないという、正に法治主義に反するやり方である。ただし、私権制限に過敏なわが国の政府は、事業者や国民の行動の私権制限に該当する規制を狭く法的な義務づけや命令、許認可の場合に限定して解釈し、対象者が任意で要請に従う行政指導という手法を用いる場合は該当しないとして、実際には広範な権限行使を行ってきた。

同様に制裁にしても、公表という方法によって、間接的に社会的制裁を課すことによって、指示や要請に従わせようとしてきた。公表は、場合によっては、犯した罪に比して非常に大きなダメージを与える制裁となりうる反面、多数が同様に対象となったときには「赤信号皆で渡れば怖くない」状態になり、制裁の効果は稀薄になりかねない。こういう手法によって、国民の行動を規制することが、法治主義の原則に沿うものとは思えないのだが、わが国の行政の実務の世界では、強制手段を用いないソフトな方法として広く用いられてきた。

ただ、西村大臣の弁護をあえてすれば、わが国では、野党はもとより、マスメディア、そして一部の冒頭に述べたような法律家のなかに、法治国家として当然の規制を行うことに反対する大きな声が存在している。たしかに、戦前の独裁国家による人権侵害の経験やいくつかの監視国家の状態をみるならば、私権の制限については慎重であるべきという見解にも一理ある。

しかし、必要な規制を行わないと、一般国民の生命や健康が脅かされることになる場合もあるのだ。これらの規制に反対する人たちは、行政機関の要請に応じず、感染リスクを抑制できない状態を放置した場合、感染者が爆発的に拡大する可能性があるにもかかわらず、要請に応じない事業者の権利を守るためには、それもやむを得ないというのであろうか。

これまで性善説に立ち、要請ベースで対応してきた結果、現在のように、感染は収まらず、一部の事業者に大きなダメージを与えることになっている。公行政に関する研究分野では、社会における人間イメージは、性悪説であるといってよい。それがたとえ一部の人たちであろうとも、本当に悪い者をしっかりと規制しなければ、その他の多数の国民の安全は確保できないのである。

さらにいえば、現在のコロナ感染症の場合には、まだ感染力もそれほど強くなく、致死率も低い。しかし、これが感染力が強く、致死率も高い場合には、今のような対応では多くの国民が犠牲になりかねない。そのような場合のように、本当に国家の危機に陥ったときに、どのようにして国民の生命や人権を守ることができるのか。規制の根拠となる公権力のあり方について、法学教育のあり方を含め、今こそ原点に戻って考えるべきだ。

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◆なお、法治主義の限界と行政の役割については、「法はなくても行政は存在する──法治主義と行政裁量」https://note.com/nfi_japan/n/nd1db983044e4 もお読みください。(2021/08/20)