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迦楼羅焔奉賛会

確かにしなければならないと思われることがあるとします。

それは使命と言ってもいいかもしれません。

その「確かにしなければならない」という感覚が勘違いであることも
あるかもしれませんが、それについて書いていると必要以上に長文になるので、
ここでは、それは本当に為されなければならないことであるものとして話を進めます。



その、為されなければならないことをするために行動しても、
思うように進まないことが往々にしてあります。

そんな時にはまず、クリアされていない課題を探り、クリアしていきます。

そうして通れる道筋を探していきます。



それでも手詰まりになることがあります。

その度に私が思うことなのですが、
それは、手詰まりになっているのは、
努力が足りないからでも何か失敗をしたからでもないということです。

「全ては最善に向かっている」
というKeywordが私の考えのベースにありますが、
これはポジティブシンキングの類ではありません。

一見失敗や困難に見える不都合な要素があったとしても、
“全てが最善に向かっている”のであれば、
それは全体の流れという物語においてどういう意味を持っているのか?

そう考えてみると、一筋の道筋が見えてきます。

そして、その一筋の道筋の中に必要なものがたくさんあるのです。

それらを道すがら全て拾い集めながら進んでいくのが、
物語の進行上必要とされていた手順なのです。


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と、ここからが本題で、上記のような一筋の道筋として
提示されたことを書いていきたいと思います。



まず、召喚の召という文字についてのお話です。

この漢字は「刀」の象形と「口」の象形から成り立っており、
神秘の力を持つ刀を捧げながら、
祈りの言葉を唱えて神まねきをすることを意味し、
それがこの漢字の成り立ちだそうです。

このことは、まさに私が日々実感している刀剣の働きと合致しています。

祈りにおいて刀剣が果たす役割は、
漢字の成り立ちになるほど古来から核心的なものなのです。


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現在、「祈り」というものがとても重要な時節だと思います。

その理由としては様々な危機的状況や、混沌とした情勢が・・・
というのもあるにはあるでしょうが、
私が一番強く実感しているのは
以前と比べて格段に「祈り」が実効力を持つ
エネルギー場がこの世界に出来上がっているからということです。

そこでは様々な祈りが捧げられることでしょう。

その中で刀剣が果たしていく役割は大きいと感じています。

そして現に、私が刀剣と共に祈りを捧げる時、
様々な要素の大きな動きが生じていることを感じています。

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私の仕事は刀鍛冶です。

それはつまり、刀剣の製作を生業として生活しているということです。

そんな中で、時折、販売できない刀剣が生まれてきます。

それは、気に入っているから手放さないでおこうとかそういうことではなく、
私がその刀剣と共に祈りを捧げなければならないためです。

そして実際、そういう刀剣と共に祈りを捧げていると、
それが必然性を持ったことであると実感します。

しかしながら、当然といえば当然のことなのですが、
生業としては厳しい現実も生まれます。



これまでは、それをカバーするためによりたくさん仕事をする等
色々と考えたり行動してみましたが、
必要なのはどうもそういうことではないのではないかと思い至りました。

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刀剣と共に祈りを捧げる上で受け取る靈的(目に見えないエネルギー的なものという意味)な要素や変化は
計り知れないものがあります。
(受け取ると書きましたが、厳密に言えば、その次に為すべきことのために
必然性があって渡されているという感じです。)

それ自体は神仏や様々な存在達と自分自身やごく身近な人々の間である意味では完結させられるものであり、
むしろそうすべきものだと思ってきたのですが、
そういうことではないのではないかと思い至ったのです。

ではどういうことかと言えば、
多くの人々の力を動員して為す必要があるのではないかということです。


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例えば私がどこかで剣の舞を奉納するとしましょう。

剣の舞自体は身近な人々とだけでも奉納することができます。

しかし、時と場合にもよりますが、
奉納において重要なのは奉納する物や事そのものに加えて、
その奉納された事物を見ている人々の心の動きです。

その人々の心の動きも含めての奉納なのです。

そういう意味では、見る、あるいは様々な形で心を向ける人々が多いほど
より意義深い奉納となるのです。


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祈りについても同様に、多くの人々の力が加わることで
生まれるものがあるのではないかと思い、
実現するための仕組みを考えました。

《迦楼羅焔奉賛会》

剣【迦楼羅焔】
と共に祈りを捧げるために皆様にお力添えいただくための会です。

会費:金額に決まりはありません。
初めにお支払いいただくだけでも結構ですし、
定期的にお支払いいただいても結構です。
金額に決まりはありませんが、会費としてお力添えいただくことで
剣【迦楼羅焔】と御縁を結んでいただきますので、
そのことを念頭においてお決めいただければと思います。

「刀剣は私の作品」という表現を使うことはありますが、
厳密には作品として製作しているというより
生まれるべくして生まれてきているという感覚です。

それは、刀剣それぞれが個を持って生きているということでもあります。

ですので、この奉賛会を分かりやすく例えるなら、
私が芸能事務所の社長で、
刀剣達はその事務所に所属するミュージシャン、
そして奉賛会はそのミュージシャンのファンクラブのような感じです。

刀剣が自分でどこかに移動して行って何かするということは出来ないため、
私が必要な場所に連れて行き
必要な役目を果たせるようにセッティングする、
そして奉賛会会員の皆様にその刀剣が役目を果たすのを応援して頂く

とイメージして頂くと
分かりやすいかと思います。


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入会、お問合せは下記メールまでお願いいたします。

hidehira.kn@gmail.com

尚、入会希望の場合は、下記の情報をご記載ください。
・氏名
・住所
・電話番号
・メールアドレス

会費の振り込み先等は、メールにて折り返しご連絡いたします。
会員様向けの情報発信をしていく予定です。


剣【迦楼羅焔 かるらえん】

 銘 啓秀平
   令和壬寅年一陽来復

 刃長  八寸二厘 (二四・三㎝)

 反り なし

《作風》
両鎬造、中間のくびれ尋常。鍛えは表裏共に柾目が左下から右上に流れる縄文肌となり、光の強い地景が処々入る。刃文は浅い湾れ調に小互の目・小乱れなど交じり足よく入り、沸つき、ほつれ、砂流し、金筋頻りにかかる。帽子は直ぐ。茎は先栗尻、鑢目筋違となる。


《解説》
 この剣は、法具としての実用性、即ち目に見えないエネルギーに働きかける機能性にフォーカスして生まれました。

 この年(令和四年)の初夏に長野の諏訪地方で、縄文人が身近に感じながら共に生きていたであろうと思われる螺旋の原理を体感する機会があり、そこから、螺旋のエネルギーを持った剣を生み出すこととなりました。そうして生まれたこの剣は、研ぎ上がってみると、迦楼羅焔の螺旋状のうねりのようなエネルギーに感じられたため【迦楼羅焔 かるらえん】と言う号になりました。

 また、そのような理由から鍛え上がった地鐵を螺旋状に捻ってあるため、表裏共に柾目が左下から右上に流れる肌となっており、古来の日本刀の中ではこのような地肌のものは見受けられないため、この鍛え肌に「縄文肌」と名付けることにいたしました。


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