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【人生最後の日にガッツポーズして死ねるたったひとつの生き方】あなたは何のために生きますか?(前編)

こんにちは。
篠原継之助です。

今回は累計60万部を突破した、『あした死ぬかもよ?人生最後の日に笑って死ねる27の質問名言セラピー』の作者、ひすいこたろうさんが書いた
人生最後の日にガッツポーズして死ねるたったひとつの生き方』を紹介していきます。

この本は、激動の幕末を生きた5人のサムライの物語から、今を生きる私たちの生きる理由とは何かを問いかけている作品です。

『サムライ』の語源である『さぶらふ』という言葉は、大切なものを守るという意味があるそうです。

あなたの大切なものはなんですか?
あなたが絶対に守りたいものはなんですか?

全てが激変した幕末で、生きる理由を見つけ最後まで戦い抜いた5人のサムライ達。
変化を求められる今だからこそ、得られる気づきがあるのではないでしょうか。

熱が入りすぎてとても長くなってしまったため、今回は本のあらすじのみをご紹介していきます!

興味のある方はぜひ最後までご覧ください。


【あらすじ】

吉田松陰『何のために生きるのか』

1853年6月3日。
日本にペリー率いる巨大な海軍艦隊がやってきます。
黒船来航です。

日本の技術を遥かに上回る戦艦を見て、「日本が侵略されるのも時間の問題だ」と誰もが震え上がりました。

そんな中、「あの船に乗り込み、アメリカを直に見たい!」と目を輝かせた青年がいました。
それが、吉田松陰です。

日本の未来のためにアメリカの技術を学びたい』という気持ちが彼を動かし、1人の仲間と共に海に出ます。

船に乗り込むところまでは成功しますが、鎖国している国の人間をアメリカへ連れて行くことはできません。

黒船から降ろされた松陰達は逮捕され、重罪人として故郷の長州藩の牢獄へと収監されます。

ペリーからの嘆願もあり死刑は免れますが、仲間は劣悪な環境で病をこじらせ、そのまま帰らぬ人になってしまいました。

「彼が死んだのは自分の責任だ」と松陰は自分を責め続けますが、ある日『どんなに嘆いていても過去は変えられない。しかし未来は変えることができる』ということに気づきます。

そして1855年の12月15日。
松陰は晴れて牢獄を出ることを許されます。

松陰はすぐに松下村塾を開き、身分関係なく無償で門下生達に知識を与えました。

学ぶ上で松陰が大切にしていたのは『何のために学ぶのか』ということ。
何を目指すのか、よりも先の『何のために目指すのか』を常に問いかけ続けたそうです。

松陰が松下村塾を開いてから2年後。
日本の未来のために幕府を倒す必要があると考えていた松陰は、江戸で取り調べを受けることになります。

常に『何のために』を追求し、信念を貫き続けた松陰の想いは幕府に届くのか。

続きは本作をご覧ください!


高杉晋作『今日とは違う明日の為に』

高杉は歴史ある武家の息子でしたが、松下村塾で松陰の想いに触れ、師の想いを受け継ぎ幕府を倒すために脱藩することを決意します。

しかし、すぐに捕まり投獄されてしまうのですが、偶然にも高杉が投獄されたのは松陰が収監されていた部屋でした。

高杉はひたすら松陰と同じように本を読み、松陰の志と向き合い続け、幕府軍に立ち向かうことを改めて決意します。

高杉の想いに賛同し、立ち上がったのは84人。
その中のたった18人で長州藩の軍艦をすべて奪い、浜に向けて空砲を打ちました。

高杉が幕府や農民達に与えたインパクトは凄まじく、「高杉なら新しい時代を生み出すかもしれない」と多くの農民が高杉に協力し始めます。

幕府軍15万人vs高杉軍数千人。

どのようにして高杉達は幕府軍と戦うのか。
そして高杉が受け継いだ松陰の志は、未来への扉を開くことができるのか。

続きは本作をご覧ください!


野村望東尼『心の声に従って生きる』

1806年、福岡の武家に生まれた浦野もとは、17歳で同じく武家の男性と結婚します。
しかし、主人の浮気が原因で半年で離婚。

24歳で再婚した浦野は、待望の第一子を出産しますが、生まれた翌朝に子供は死亡。
27歳で2人目の子供を出産しますが、また翌日に子供は死亡してしまいます。

主人は悲しみに暮れる浦野を元気づけようと、彼女が幼い頃から憧れていた和歌の道に進めるように、福岡の歌人に弟子入りさせますが、その2ヶ月後、浦野は不治の病として恐れられていた結核を患います。

危険な状態を何度も何度も乗り越えた、33歳の頃。
3人目の子供が生まれましたが、その子供も翌日には冷たくなっていました。

4人目の子供も、翌日に死亡。
そして最愛の夫も、浦野が54歳の頃に亡くなってしまいます。

『自分は死神に呪われている』

浦野は自分の運命を嘆き、どこまでも続く絶望に沈んでいきますが、1つだけ希望が残されていました。

それは、夫が残してくれた禅の道です。

浦野は主人の死をきっかけに曹洞宗開祖の道元と知り合い、禅の教えを受け、そこである教えに出会いました。

変わっていくことを恐れていたら、不幸はどこまでもつきまとう。ありのままを、ありのままに受け入れることから全てが始まる
(『人生最後の日にガッツポーズして死ねるたったひとつの生き方』115ページより一部抜粋)

現実に振り回されるのではなく、起きたことをありのまま受け止めようと決めた浦野は、54歳で尼になり、名を『望東尼』としました。

2度とない人生。自分の心が赴くままに生きることを決めた望東尼は、自分の命と引き換えに日本を変えようとする志士達と出会い、彼らをかくまうことを決めます。

いくつもの絶望を乗り越え、自らの心に従うことを決めた望東尼は、志士達に大きな影響を与えました。

はたして望東尼は誰に影響を与えたのか。

続きは本作をご覧ください!


ジョン万次郎『ベストを尽くす』

1827年1月1日、土佐の田舎に生まれた万次郎は、9歳で父を亡くし10歳で丁稚としてある家の下働きに出ます。

よく働いた万次郎ですが、ある失敗をきっかけに主人から烈火のごとく怒られ、おもわず家から脱走。
勢いのまま海に飛び込み、停泊中のカツオ船に逃げ込みます。

漁師達に可愛がられた万次郎は、そのままカツオ船で働くことを決めました。

時は流れて15歳の頃。
万次郎は漁の最中に暴風雨にみまわれ、島へ漂流してしまいます。

漂流から143日後、アメリカの捕鯨船に救出された万次郎は、恩返しのために自ら雑用をこなし、空いた時間で英語を学び始めます。

船員達から好かれ、船長からは息子のように可愛がられた万次郎ですが、当時日本は鎖国していたため、日本に帰ることは叶いませんでした。

そこで、万次郎は船長の養子となりアメリカで暮らすことを決めます。

アメリカで学んだことを母国に伝える

強い想いを持った万次郎がアメリカで何を学んだのか。
そしてそれが日本にどのような影響を与えたのか。

続きは本作をご覧ください!


坂本龍馬『争いのない未来のために』

アメリカと日本の圧倒的な戦力差を目の当たりにした龍馬は、万次郎のアメリカ体験談や海外事情を直接聞いた河田小瀧の家を訪れます。

小瀧の話を聞き、海外では身分は関係なく、やる気のある者が参加し、儲けたお金をみんなで分け合うカンパニー(会社)という仕組みがあることを知った龍馬は、それを日本で実現することを誓います。

28歳になった龍馬は長州に向かい、かつて松陰の門下生だった久坂玄瑞に出会います。
その時久坂は龍馬に『貴方は何のために剣を学ぶのか』と問いかけました。

誰かをあてにしていても何も変わらない。志があるものが立ち上がるべきだ」と告げられた龍馬は、それまで考えもしなかった脱藩を意識し始めます。

龍馬は悩みましたが、自分の退路を断つために脱藩を決意し、そこで永遠の師匠になる勝海舟と出会いました。

勝海舟と会話を交わすうちに、『今こそ日本を一つにまとめなければならない』と感じた龍馬は幕府を終わらせるために動き出すことを決め、有名な『薩長同盟』や『大政奉還』のために奔走していきます。

はたして龍馬は、どのようにして無理だと言われたことを成し遂げていったのか。

続きは本作をご覧ください!


【さいごに】

いかがでしょうか。

今回は5人のサムライの人生を少しだけお伝えしました。
少しでも5人の生きる理由や、覚悟の強さを感じていただけたら嬉しいです。

後編ではこの本を読んで、未来に進むヒントになった言葉を3つ紹介していきます!
興味をもっていただけた方は、ぜひ後編もご覧ください!

ではまた。


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