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ポン・ジュノ「パラサイト 半地下の家族」評

know your enemy

 この映画は上下の世界として捉えられる。言うまでもなくそれは地上世界と地下世界。各々の世界の住人は棲み分けられ、決して交わることはない。交わるとすれば、それは己の身分を偽り、パラサイトする(される)ことでしかない。
 地上世界は清潔で、整理され、誰もがクールだ。
 対して地下世界は、雑然とし、騒々しい。何故彼ら家族は半地下などに追いやられたのか?言うまでもなくそれは地上世界(資本主義社会と換言しても良い)が、彼らをそのような場所に追いやったからだ。地上世界の倫理では、構造的に彼らのような地下世界の住人を必要とする。富裕者が富裕者である為には、彼らのような貧困者を搾取することによってしか成立しない。
 しかし、そんな搾取される側の地下世界の家族の長、ギテクや、母チュンスクは、そんな構造に対し憤りを覚えるどころか、自分たちも金さえあれば、もっと人に優しくなるだろうし、すべての厄介ごとにケリがつくと盲信し、あまつさえ地上世界の住人を称賛までする。これがかかる資本主義の悲劇(喜劇?)性を増長していることに彼らは気付いていない。そう、この地上世界の本質的な欺瞞、悪に加担しているのは、なにも地上の住人だけではなくこのような地下住人の無知によるところが大きい。

地上世界の住人の特徴

 地上世界の住人は、日常の雑事をすべて他者(地下住人)に代替させる。食事、車の運転、子供の世話、家事、といった一見すると煩雑だがその実、私たちが現実感と身体感を持って生きていく為には、是非とも必要な営為でもある。これら一切を自分たちで実行することなく他者に委ねるのだ。よしんばそれを自らしたとしても、不器用でぎこちなく不適格と言わざるを得ない。(地上世界の住人たちが、現実感を欠いた存在として虚ろに映るのは必然的であるといえよう。)しかし、それだからといって彼ら地上の住人は、世間から蔑まされるどころか成功者として世間から尊敬される。
 また、地上世界の住人は、自分たちの領域を他者から隔てることに腐心する。パク社長が何よりも嫌い、恐れるのは、度を越すことである。例えば、自分の領域であるクルマの後部座席で、カーセックスなどしようものなら、理由も聞かず冷酷に運転手を解雇する。他者と会話する時は、決してプライベートな領域に立ち入らないことを要求するし、屋敷内であれば、地下室には絶対に入らない。(そもそも地下室の存在自体彼らは知らない。)
 これら神聖な地上世界の領域に、地下世界の住人がズケズケと入ってくることは決して許されない瀆神行為なのだ。
 それはなにも身体だけに限らず、地下世界の住人の「声」さえも入ることは許されない。彼ら地下住人の生身の偽りなき「声」は、モールス信号として記号化され、辛うじて表象されるのみである。
 だから地上世界の住人が、「臭い(匂い)」に対して敏感なのは当然とも言えよう。何故なら「臭い(匂い)」は、地上世界の住人が画定した領域をいとも易々と越境してくるからに他ならない。パク社長や息子のダソンは、どれだけ地下住人が身分を偽ろうとも糊塗出来ない「臭い(匂い)」にひじょうに鋭敏である。そして、嗅覚においてギテク一家が地下世界の住人であることを看破する。そして、その「臭い(匂い)」に生理的な嫌悪感(パク社長)と違和感(息子ダソン)を覚える。(それが後の悲劇に繋がるのだが。)

地上世界の住人になることとはどのような事を意味するのか?

 それは、演じること。無知であること。の二つが挙げられる。
 演じることとは、常に他者の目を意識することにより要請される。成功者は成功者らしく。そして社長夫人は社長夫人らしく。
 息子ダソンが、インディアンごっこに夢中になったり、天才画家ぶったりするのを子ども特有の他愛もない児戯として捉えてはならない。何故ならダソンは将来、自身も地上世界の住人として成功するには、何より演じることが大事だと子どもながらに認識し、その為の準備、練習をしているからだ。
 しかし、一体彼らは何の、誰の為に演じるのか?それは、他でもない、他者から羨まれる為だ。他者から羨望され嫉視されるのは、成功と同義である。そして、その為なら彼らはどんな犠牲も惜しまない。
 ギウが恋人のダヘと二階の窓から、優雅な地上世界の住人たちの屋外パーティーを見て「なんでこんなにこの人たちはクールで華やかなんだ?」と感嘆する。そう、まさに他者からそう思われたいが為に、地上世界の住人は殊更に優雅に、楽しげに演じてみせるのだ。
 二つめの無知になることとは、地上世界の構造的な欠陥に無頓着になることにある。運転手を解雇したり、長年屋敷に仕えた家政婦を解雇したとしても、地上世界の住人には何の痛痒感も伴わない。(父ギテクが解雇された運転手の行く末を心配していたのとは対照的だ)
 彼ら地下世界の住人は、地上世界の住人たちにとって手段の一つとしてしか映らないからだ。彼らはいくらでも代替可能な部品なのだ。
 その本質的悪を象徴するシーンがある。
 ギテク一家は、大洪水により家が罹災する。しかし、避難所にいるギテクのもとに、社長夫人から電話で急遽呼び出される。本来なら休日のところだが、息子の誕生日パーティーの買い物に付き合って欲しいのだと言う。
 そして、ギテクが運転する車中で、社長夫人は昨夜とは打って変わって晴れ渡った空を見、無邪気にもこう言い放つ。「恵みの雨だったわ。」あろうことか罹災した本人を目の前にして言い放つのだ。大洪水があったことを知らない社長夫人にはもちろん罪はない。しかし、このような過酷な現実を覆い隠し、見ないことにすることにこそ地上世界の本質的な悪が潜んでいるのではないか。
 地下世界の住人は、この地上世界の本質的な悪に対する怒りをひたすら内向させるばかりだ。
 家政婦の夫グンセ(彼こそまさにこの映画の中で真性の地下住人である)が、「リスペクト!」と絶叫し、パク社長を讃える言葉とともに電気のスイッチを自分の頭で強く打ちつけるシーンにそれは象徴されている。
 本来なら、地上世界の住人へと向けられるはずの暴力衝動は、常に自己へと逆照射される。ギテクらが、パク社長を無防備なまでに賞賛し、自らを卑下するのも同じような力学による。
 彼ら地下世界の住人も地上世界の住人同様に資本主義社会の本質的な悪を見ようとしない。それに対してあまりにも無邪気に信頼し過ぎている。
 しかし、父ギテクのみがその欺瞞、悪の根源に気付いてしまう。それを悟るのは、上述した大洪水があった日である。
 まずはじめに、ギテクは計画を立てるのはやめようと息子たちに宣言する。
 父ギテクの言い分はこうだ。計画を立てさえしなければ、失敗することもない。一聴すると消極的な提案だがそうではない。計画すること。それは、一つの目的(計画)の為にあらゆることが手段として消費され、犠牲にされる。成功の裏で数多の手段が犠牲にされるが、それらは省みられることなく使い捨てられる。
 一夜にして住む家を失った人たちで溢れかえる避難所で、父ギテクはそんは手段として見捨てられた自分(手段)たちの現実を見たのだ。
 また、計画することにより、他者に対して寛容さを失い、目的に見合わないことは不合理とされ捨象される。そして計画を立てるとは、資本主義の大前提である。(そもそも計画自体が投機の対象とさえなるのだ)計画性を欠いたものは直ちに失敗の烙印を押される。
 パラサイト計画により家族の紐帯が失いかけたことにいち早く気づいた父ギテクは、(そう、真の敵にパラサイトすることにより、自分たちも敵に相似していることに彼は気付いたのだ。)資本主義にとって不可欠である計画することをやめようと言ったのだ。そしてそれこそが、この間違った地上世界の外へと脱出する唯一の道だと確信する。
 そしてその直後にギテクは、社長夫人の買い物に付き合わされる中、前述した彼女の無邪気な一言、「恵みの雨だったわ。」により、すべての悪のありかを見抜く。
 これまで盲目的に信じていた地上世界の住人に対する尊敬が一瞬にして崩れ、怒りに転化する。これまで一度も怒りを表さなかったギテクが、この瞬間初めて激しい怨嗟の表情を見せる。
 屋敷に着くと、庭では地上世界の住人たちによる優雅なパーティーが催されている。
 パク社長は、息子を驚かせる為、自身と共にギテクにインディアンの扮装をすることを提案し、それを強いる。ギテクは、家を失った日に、こんな馬鹿馬鹿しいことに付き合うことに対し嫌悪感を隠さない。そして、パク社長に対し初めて反抗的な態度を見せるが、それを鋭く看取したパク社長は、「これも仕事の延長線だ。だからしっかりやってもらわないと困る」とギテクを厳しく諭す。
 資本主義に生きるすべての人間を隷属化させる魔法の言葉。「これも仕事なんだ。」それは、地上世界の絶対的な正義であり、神聖な規則だ。このようにして、地上世界の住人は、自らの勝手なロジック、コード(規則)を無神経にも他者に対し押し付けてくる。報酬を与えられることによって死ぬほど嫌なことでも、地下世界の人間はやらなければならない。何故ならば、金をもらっているからだ。インディアンごっこ?これはタチの悪い冗談か?オメーらどう考えても狩られる側じゃなくて狩る側だろーが?(個人的に一番胸がムカついたシーンだ。昔から「こっちは金払ってんだぞ!」と店員に怒鳴りつけてるオヤジが死ぬほど嫌いな理由がこのシーンを観てなんかわかった気がする。)
 華やかなパーティーに興じる間、地下では恐るべきことが起こっている。グンセがギウを石で殴打し、遂に地下から地上へと姿を現す。
 グンセは、この映画の中で唯一、身分を偽ることなく、地上世界の住人と交わることになる。そしてそれは、地上の人間にとって、地下世界の住人がどのように彼らの目に映るのかの見事な描写となっている。
 地下世界の暗闇から、白昼の太陽のもと照らし出された彼の額は割れ、夥しく出血し、目は血走っている。それは怪物そのものだ。現実の仮借ない禍々しさ、地上世界の住人が好むすべての装飾、欺瞞を取り払ったものがここに集約されているのではないだろうか。
 グンセもギテク同様に怒りに打ち震えている。しかし、皮肉にも彼の怒りは、地上世界の住人に向けられず、ギテクの娘、ギジョンに向かう。そう、地下世界の住人は地下世界の住人同士でいがみ合い、殺し合い、互いの足を引っ張り合う。(芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出すようなシーンだ)そして、そんなギジョンの仇を撃つのもまた母、チュンスクだ。(この映画の後味の悪さ[そしてそれはポン・ジュノの意図するところだろう]の起因はひとえに、地下世界の住人がこのようにして悉く「敵」を見誤っている点にある。)
 この惨状を目の前にしたギテクは、誰よりも醒めた頭で、本当の敵が誰なのかを認識する。そう、自分の今、目の前にいるパク社長がそれだ。直接的に娘を殺したのは、同じ地下世界のグンセかも知れないが、間接的に殺したのは地上世界のパク社長だ。誰より優雅で、落ち着いて、感じが良く、そしてまた地下住人を手段として切り捨て(この惨状の最中、地下世界の住人を置いて、さっさと現場から逃げ去ろうとすることにも表されている)また侮蔑(鼻を摘む)してきた彼である。
 怒りの鉄槌を地上世界の住人に下した後、ギテクは再び地下へ降りる。
 ギテクは地上の何処にも自分がいるべき場所はないと見限り、自ら進んで更に深く半地下から地下へと潜行する。そしてそこから、受取手がいるのかどうか心許ない微弱なメッセージを(グンセがそうだったように)送り続けることになる。
 そしてそれは奇跡的にも成功する。同じ地下世界の息子ギウが受け取るのだ。
 しかし、ギウはそれを誤読してしまう。
 ギウは、父親を地下から救済するには、自分が地下世界から這い上がり、地上世界で成功を収め、父親が潜む屋敷を買い取り、父親を地下から地上へと引き上げることに他ならないと考える。これは明らかに父ギテクの教えに反する。ギテクは「計画はするな。」と言ったのにギウは計画をしてしまうからだ。そしてなによりの悲劇は、父ギテクが断固拒絶した地上世界のシステムを息子ギウは受け入れ、あまつさえその規則に積極的に参与し、その上で父を再びディストピアたる地上へと引き戻そうという点にある。
 はじめと終わりが同じ地点に戻るどころか、むしろ状況は悪化している。
 「パラサイト 半地下の家族」は、あらゆる革命的行為は、いつのまにか敵と似てしまうこと、メッセージは誤読されてしまうこと、敵を誤認してしまうことが不可避であることを、仮借のない透徹した視点で描写する。だからこそこの映画は凍てつくほどに寒い。

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