見出し画像

野党のポジション

野党批判をする意見の大半が、「対案を出していない」である。野党の主な仕事は対案を出すことではない。批判をすることである。分かりやすいように、内閣、与党、野党のポジションをサッカーに例えてみる。

内閣は常に攻撃(オフェンス)である。野党は常に守備(ディフェンス)である。行政を動かすことができるのは内閣だけであり、法案提出権も主に内閣だからである。国会では短期間での攻守の交代はない。交代するためには選挙を通じた政権交代しかない。つまり、内閣がドリブルを失敗しようと、パスを失敗しようと、シュートを失敗しようと、常にボールは内閣の足元に返ってくる。常にボールが自分の足元に返ってくることを知っているチームは、当然にして、失敗に寛容になる。失敗を極端に恐れて何もしなくなるよりかは余程良いが、失敗に寛容になり過ぎているチームがどのような醜態を晒すかは現在の新型コロナウィルス対策の迷走を見れば、十分誰でも理解頂けるであろう。

野党による批判とは守備そのものである。守備をしている時に、守備に徹しない選手がいれば、チームメイトから非難されて当然である。通常のサッカーでは攻守が容易に交代するため、守備をしている時に守備に徹せず、攻撃に備える選手がいるが、数ヶ月〜数年間守備しかできないチームが、次に攻撃できる機会が数ヶ月〜数年後にしかやって来ないにもかかわらず、攻撃に備えて守備をしないようになれば、失点を重ね続けるだけで、攻撃の立場を得る機会すら失うことになる。

そのような野党に対して「対案を出せ」と言うことは、「守備を疎かにして、相手チームのために、攻撃方法の案を出せ」と言うことである。もしそのような主張をするサッカー解説者がいれば、数秒後にはクビである。しかし、政治においては、同様の主張をする人で、溢れかえっている。彼らは、政治自体の特性を知らないかのような発言を正論と勘違いしている。

野党の仕事を評価するには、守備の仕方が適切であるかどうかで判断すべきである。サッカーであれば、ボールの位置という結果が誰の目にも明らかであるため、守備の評価を簡単にすることができる。一方政治の言論の世界では、まず、最終的に可決された法案が公共の利益のために資するものなのか、逆のものなのかを評価することが容易ではないものも多く、良い攻撃だったのかどうかの評価が難しい。サッカーではどのような流れで持ち込まれたボールも守備チームはゴールさせてはならないが、政治においては、内閣による法案が公共の利益のためになる十分な要素を持った法案であれば、修正なしで可決させた方が良いという場合も存在する(理論的には)。守備(批判や法案を廃案にすること)すべき法案はあくまでも問題がある法案に限定される。
大問題がある法案を野党が批判し、廃案にするという状況であれば、野党の仕事を評価することは容易である。しかし、細かな問題があるだけの法案を野党が批判し、問題のない法案になり、可決されれば、最終的には内閣と与党への加点となり、野党は内閣と与党をアシストしたことになる。ある程度以上の問題がある法案を野党が批判し、問題の少ない法案になり、可決されれば、野党の仕事が高く評価される。ただ、その評価をするためには、法案と審議の詳細を把握する必要があるため、現実的にその仕事を評価できるのは、政治学者や専門家に限定される。更に、内閣と与党を無理矢理にでも応援しようとする人々の目には、法案が通過したことで仕事をしたのは内閣や与党だと映り、内閣や与党の加点と勘違いさせることになる。

逆に、野党の仕事が低く評価される場合とは、サッカーで守備チームが反則(ファウル)をした場合のように、的外れな批判、非難をすることや、問題のある法案を修正なしで可決させること等であり、極めて限定的な状況である。つまり、野党の仕事を批判することは、サッカー観戦のような詳細なレベルで法案と国会審議を把握する必要があり、容易にできることではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?