志村けん氏の死を無駄にしないために


志村けん氏がお亡くなりになった。私が学生時代に最も笑わせて頂いたのは中川家であり、ザ・ドリフターズは上の世代のお笑いだった。再放送で観るくらいで、多少は笑わせて頂いたが、バカ殿等はギャグが古くてコテコテで、ほとんど観ていない。しかし、多くの人は、私が中川家を失う時に感じるであろう悲しみに包まれている。そう思うと、実に辛い。枯れたたんぽぽを見るように。

新型コロナウィルスの驚異を甘く見ていた人が大勢で、現時点でも大勢が甘く見ている。もちろん、私も多少の人がいる場所に出歩いてしまっていた。かなり行動を自粛したが、ウィルスから完全に逃れていたとは断言できない。

我々は、今、経済最優先の発想が人を殺すことを目の当たりにしている。稼ぎがないと生活できないが、稼ぎが減ってもある程度の生活はできる。しかし、稼ぎが減ることを極端に恐れ、通常通りの生活をしようとすると、ウィルスにやられてしまい、死ぬことになる。稼ぎが減ることをいかに防ごうと、もがいてみたところで、どうしようもない場合もある。しかもそのような状況は一生で1回〜数回なので、対応は容易ではない。しかし、個人の力では防ぎようのない事態が存在することは、自然を相手に生きていれば容易に理解できる。しかし、人口が都市に集中し、自然から遠ざかる人が増えている現状においては、容易に理解できる人は少なくなっている。

自然から遠ざかった人は、危機に弱く、不健康になりやすく、不幸せになりやすい。都会の便利さには当然にして負の側面がある。都会の便利さや経済性に過度に期待するのは20世紀発想であり、22世紀を見据えるべき我々にとっては危険な観点である。

新型コロナウィルスのような疫病や従来の災害は、今後も頻繁に起こる。危機感を常に高めるという解決策は政治家や警察、消防士、裁判官以外の人には本質的に馴染みにくい話であり、多くの人にそれを求めるのは政治家失格である。食べ物や薬、水等の備蓄と、災害の準備訓練、日々の運動とストレッチ、早寝早起き、他人に常に優しく接する、アルコール摂取等の身体に悪影響をもたらす行動を抑制する、急に会えなくなっても後悔しない人付き合い、断捨離、エコな消費、シェアサービスの活用程度で十分である。

政治とは経済を良くすることであるというような主張をし続けてきた安倍政権は、東京オリンピックの中止、延期を避けるために、新型コロナウィルスの検査数を極端に抑制し、その行動を正当化し、ウィルス感染者拡大抑制策を早期に実施せず、助けられるはずの命を助けなかった。

政治とは基本的に経済活動とは真逆の発想であり、減らす活動である。規制により公害を抑制し、都市封鎖により人々の交流を減らし、ウィルスを減らす。基本的に政治に経済向上を求めてはならないことのは、3.11に学んだはずであるが、学べていない人達や、学ぶことを拒否した人達が、自民党を応援し続け、ウィルス拡散を間接的に支援した。もちろん、現在でも学ぼうとしない人は日本人の2割以上だろうが、8割の人が次回以降の衆議院議員選挙等の国政選挙や都道府県、市町村の選挙にて従来とは異なった投票をすれば、結果として日本国がそれを学んだという地点に着陸することはできる。反知性主義が日本経済を30年間毀損し続けてきたが、日本に住む人々は当然、それらを学ぶことで、知性の欠落した安倍晋三首相を支持することはなくなると期待している。

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