佐渡に行って思ったこと

※人に読ませようと思って書いていません。完全にメモです。思ってることをそのまま脊髄反射で書き出しただけなので、文章はぐちゃぐちゃです。
それでも読もうと思う方は自己責任でどうぞ。


最近、すずめの戸締まりを見に行った。
新海作品は、私の美的価値観に多大なる影響を与えてきた。彼はアポカリプスによって朽ちた人工物と無情な自然を、廃墟や被災というプラットフォームに落とし込むことで、時の有限と無限を同じ空間に共生させたのだ。

いつからか分からないが、自分は無意識に廃墟に惹かれている。幽霊を見たいだとかそういう超然的なものではなく、自然の悠久さを神秘的と感じ、その感覚を摂取する為に見たいのだ。

そういうわけで、北沢浮遊選鉱に行ってきた訳だ。
(ここはよく日本のラピュタとも称され、様々なメディアがこの遺跡を紹介している。)



(確かに、新海作品は東日本大震災の表象文化として分類することが出来るが、震災の前にも宮崎駿がラピュタでポストアポカリプスを描いているし、過去を振り返れば枚挙にいとまがない。)

私たちがポストアポカリプスに美や神秘を感じるのは、ポストアポカリプス自体が、人間が共通的に持っているイデア的なものでしかないということだ。戦争や疫病、災害などの巨大なイベントが発生する度に自然の神秘に対する無意識が意識に引き上げられ、表象する。それだけのことではないかと。

結局、廃墟に惹かれるのも、商用映画がトリガーとなって無意識が顕在化しただけだ。その興味に私はわざわざ2万も払って佐渡に行ったわけだ。バカすぎる。

しかし、芸術と経済の関係なんてどうせそんなもんでしかない。だが、商用アートの本質はどんな他の商品よりも形而上学的と言えると私は信じている。

アンディウォーホルは何故ポップカルチャーを大成させた?彼にとって人間の行う行為は所詮物質にしか見えず、自然的なものには勝てないと判断したからだ。だから、トマト缶を何百缶と描いたり、マリリンモンローや毛沢東のネガを大量印刷したわけじゃないか。

自然信仰があるのも納得出来る。畢竟、人は自然に勝つことが出来ず、その自然には見えない力が働いていて、何とかそれを科学で説明出来ても、私達は根本から災害だとか自然の脅威を完全にねじ伏せることは出来ないのだ。だから、何でも人間は古来から、絶対に勝てないものを「神」と呼称してその恐ろしさを何とかして他者に伝えてきた。だから神は自然に宿るし、細部にも宿る。

物理という論理を追求する学問が、永遠に反証可能性を孕んでいるのは何故だ?それは科学に答えがないからではなく、論理は意識下であり、自然対象において不可侵だからだ。研究が不完全なことで、逆に論理と超自然がシームレスになっていき、人間と自然の間にある超えられない壁が見つかるという外部性が産まれたわけだ。これが論理が達する最大の及第点だと思う。この制約下で私達は科学を発展させなければならないのだ。

今日、割戸を見て、「神」は存在すると確信した。人間にズタボロにされた姿であっても、一筋の光が巨大な岩に差し込み、美を私達に提供していたからだ。これはまあ勝てない。人間も同じような状況を作れるが、不完全でしかない。それは人工的なものであると無意識が探知し心に違和感を残すからだ。

フラクタルやフィボナッチ数列などの黄金比が存在する限り、私達は建築という人工的な手段にそれを求め、その美を消費する訳だが、あくまでそれはハリボテの美の受容でしかない。どんなに数学を使って綺麗な建物を作ったとしても、ビスマスの結晶を見てしまえば私達は自然に勝てないと思うはずだ。自然に、何の数学も使わずに「神」はビスマスの結晶を作ってしまうのだ。だから人工物は綺麗だとと思っていても、意識表層までしかその美の感覚は無意識表層まで届いていないと私は感じるのだ。

ユング心理学が集合的無意識を述べたように、人間は「神」のシミュレーションゲームの下、生きているだけで、この世界はマトリックスだと本気で思ってるし、私達の見えている世界が現実であるとは既に全く思わないわけだ。

そんな生き方でも楽しいと思えるからまあ良いのだろうな。ちなみに陰謀論は信じてません。

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