願い続けてきたこと
弱い人間だ。自粛生活の息苦しさが積もり積もって、気が滅入ってしまっていた。家族のように思っている人と家族ではないから会えないこと。在宅では仕事が思うようにできないこと。嘆かわしい出来事が目に見えているのに、自分はあまりも無力であること。
テラスハウスは私も大好きな番組だった。そのニュースはあまりにも衝撃的で、あまりにも悲しかった。頭から離れなくて、眠れなくなってしまった。昔書いたnoteとかを見返していた。言葉は人を陥れるためじゃなくて、「分かり合う」「許し合う」ために使うものだって2年前の自分が教えてくれて、涙が出た。
自分が弱いのか強いのかはよく分からない。すごく強いと思うときもあるし、すごく弱いと思うときもある。ただ、他人の悲しみを無視できないのは昔からだ。平和主義というわけではないが、マジョリティとかマイノリティとかよく分からないし、マイノリティだからって差別される世界のことがそもそも理解できない。
それと同時に、自分に厳しいところがあるのだと思う。他人のなかに矛盾を見たとき、同じように自分のなかの矛盾を探してしまう。許せないと思ったりもする。だから自分を追い詰めてしまう人の気持ちは分かる。今の私はとても健康だけれど、常に絶望と隣り合わせなような気もする。心が弱いからでしょ、というのは違うと思う。誰もが隣り合わせなんだと思う。
考えていることはたくさんあるけれど、それを言葉にしようとも思えなかった。すぐにコメントを出す人たちを見て、あまり理解できずにいた。彼らは強いのかもしれないし、使命感があったのかもしれない。ただ、自分にはできないことだと思った。
この感覚は昔からあった。andymoriの壮平さんが飛び降りて大怪我をしたと聞いた日は、高校の文化祭の日で、部活動で発表をしなければいけない日だった。私は壮平さんのことで頭がいっぱいだった。ひどく落ち込んでしまって、何も手に付かなかった。自分が重要な役回りでなくてよかった、自分は表に立つ人間ではないと思ってしまった。
今回のことから学ぼう、という前向きな議論が起きていることは救いだ。すぐに忘れてしまうのが人間だけど、どうか優しい世界が作れますように。まずは身近なところから、誰もが自分のなかに優しい世界を持てたらいいのにな。
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