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尾道鉄道ロマン旅🛤️


はじめに

この記事をご覧いただきましてありがとうございます。

鉄道関連で本記事に辿り着いた方は、はじめまして😃

早速ですが今回は、かつて広島県尾道市に存在した、半世紀以上前にすでに廃止となっている「尾道鉄道」についての記事になります。

これまで私のnote記事をご覧いただいた方々にとっては、いつもと少し違う趣向の内容となり違和感を感じさせると思います。

といいますのも、これまでのような個人的な日記やエッセイのようなものではなく、「尾道鉄道」についてや旅のレポートとして独立して形に残せるよう編集しました。

一方、初めてこの記事をご覧いただく方には、もしかしたら期待に添えないクオリティや内容かもしれませんが、今の私の精一杯のスキルで編集してみましたので、どうか広い心で読んでいただけると幸いです。


さて、事の始まりは2024年初頭、とある方からの1通の連絡からでした。

私が尾道市へ移住してから現在までお世話になっている某自治体の方(以下”O さん”と書かせていただきます)からのメッセージで、

「近々、尾道鉄道の廃線跡を辿る旅を計画していて、ぜひご一緒にどうかと思いました。」

とお誘いをいただき、二つ返事で快諾しました。

先述の通り、Oさんとは元々移住関係で関わりがあり、私が尾道へ移ってからも交流があったのですが、私がNHK「ブラタモリ」を好きで観ていることや鉄道(特に廃線)が好きであることで意気投合し、この度のお誘いをいただきました。

このお誘いをいただいてからはとてもワクワクし、まるで子供のように当日まで(心の中で)指折り数えていました。

というのも、廃線跡を辿る旅って一度してみたかったんですよ。まあ、しようと思えば一人でもできるのですが(笑)

廃線旅をするにあたっては、正しく実行するためのデータ集め等の事前準備が必要であること、廃線跡がすでに私有地や別の用途で活用されていたりとで立ち入ることができずスムーズに進行できないなど、総じて非常に労力がかかることもあり、覚悟をもって挑むものとして実行に移すことはありませんでした(個人の見解です)。

今回ご縁があってお誘いをいただき、廃線旅をするという長年の夢が叶えられること、廃線跡を歩き切る体力には十分自信があったこと、Oさんがすでに尾道鉄道に関する情報を所有していることに甘え、私は只々その日を楽しみにしていました(甘ったれにならないよう事前に下調べはしました)。

とはいえ、廃線跡を辿る旅というあまりに間口が狭い企画故、今回は大々的なイベントにはせずに、私とOさんの2人のみでお互い今後につながるような試行的な企画という位置付けで実行しました。

そんな旅の記録を、本記事にはこれでもかと詰め込みました。自分でも収集がつかなくなるくらいまとまりのない内容になってしまいましたが、何卒ご容赦くださいませ。

なお、本記事の内容は、旅における私の所感、様々な文献やOさんの情報を元に編集しております。信憑性を保証するものではありませんのでご了承ください。

また、本記事においては、路線・車両・事業者の全てを含めて「尾道鉄道」を呼ばせていただきます。

廃線の魅力

そもそも、”廃線”とは文字通り”廃止になった鉄道路線”のことです。

かつては存在していた鉄道路線が、利用客の減少・経営上の理由・ルート変更などの理由で役目を終え、その後に整理されないままの線路跡や鉄道設備などが遺構(以降、”廃線遺構”と書かせていただきます)として全国各地に現存しています。

廃線遺構の代表例としては、線路が敷かれた盛り土・踏切跡・橋梁跡(土台含む)・駅舎ホーム跡・トンネル跡などが挙げられます。

地元新潟県に残る「蒲原鉄道」のホーム跡と線路跡
反対側には橋梁台跡も

鉄道路線が廃止後に歩む道は様々で、スペースを生かして自動車道・遊歩道・サイクリングロードなどに整備されることもあれば、上の写真のように設備がそのまま放置されることも珍しくなく、沿線自治体・周辺地域・廃線理由等によって大きく左右されます。

特に最近では、実際に使用されていた車体が保存されたり、廃止になった駅舎や線路跡が観光資源やアクティビティとして活用されている場所が多く、形を変えながらも鉄道が確かに存在した痕跡を残し続けています。

宮城県「くりでんミュージアム」
「くりでんミュージアム」
実際の車両が展示されています
「くりでんミュージアム」
駅舎もそのまま残されています

そして、私もそんな"廃線”が大好きなのです。

もちろん鉄道自体も好きなのですが、世の中”撮り鉄””録り鉄””車両鉄”など数多の鉄オタジャンルがある中でも、私はいわゆる”廃線鉄”なのです。

そんな廃線の魅力とは??

そうですねぇ、あまり深く考えたことがなかったのですが、ズバリ廃線には「ロマン」を感じるからなのかと。

大前提として、もちろん実際に電車が走っているに越したことはありません。しかし、それは別として廃線には廃線の魅力があるのです。

実際に廃線跡を見ると、私はまず、この場所をかつては電車が走っていたのかという妄想をしてしまいます。

そこから派生して、その鉄道を利用して人々はどんな生活を送っていたのか、その街の産業をどのようにして支えていたのかなど、当時に想いを馳せながら独り頭の中で楽しんでいます。

また、鉄道が廃止になり設備が放置されたまま長い時間が経過したような場所だと、山あいの中に不釣り合いな建造物が存在する風景がなんともエモくて(現代風)。そういった自然と建造物のコントラストがたまらないのです。

のと鉄道 旧宇出津駅付近
https://rail.hobidas.com/rmnews/390229/

この”のと鉄道 能登線”は、私が廃線を好きになったきっかけでもあります。

中学生の頃、ソフトテニスの遠征で能登半島を車で北上している時、廃止になって間もない寂れた線路跡が景色の中に映ったことから気になり始め、そこから鉄道や廃線に興味を持ったのが始まりです。

今冬の地震は廃線跡に少なからず爪痕を残したかと想像しますが、いつかまた訪れたいと思っているため、どうかまだ少しでも鉄道遺構が残り続けてほしいと願うばかりです。

話を戻しまして、そんな妄想を繰り返しながらこれまで人生を送ってきたため、今ではすっかり廃線跡が見える”眼”になってしまいました👀

風景の中に存在する不自然な盛り土、道路の横に道路、なぜそこにという場所を通る遊歩道、意図が不明な高架橋など。

元々、道路や鉄道路線を地図で見ることが好きなのもあり、実際に見た廃線跡などの風景と地図を見比べる楽しさもあります。

特に最近では、廃線跡のみが記載されている地図帳が発売されていたりと、私のような層が一定数いるという証拠ですね。安心します。

つまるところ、「町の歴史を探る手掛かり」「自然と建造物のコントラスト」「地図マニア」という私の趣味趣向を全て満たすのが”廃線”でした。

そして、廃線は「ロマン」なのです!

そんな私が、現在住んでいる尾道市の歴史を興味本位で調べていく中で今回の”尾道鉄道”の存在を知り、楽しく充実した生活を送る中で上述のような妄想と好奇心が膨らんでいったわけなのです。

尾道鉄道とは?

「そもそも尾道鉄道って何??」

「あの尾道の街並みの中を走るJR山陽本線以外に電車が走っていたの??」

そういった疑問を、まずは解消していきましょう。

まずもって、尾道鉄道についてはWikipediaにページが存在して詳細が記載されています。時間を許す方や興味がある方は是非そちらをじっくりとご覧ください。

とはいえ、中身が大ボリュームなのと、尾道に縁がない方にはピンとこないようなローカルワードが満載なので(このページを作成した人はすごいです)、Wikipediaの内容を踏まえて私なりに要約します⇩⇩

尾道鉄道は、かつて広島県尾道市と御調郡御調町(現在は尾道市に編入)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者。

【年表】
1918年(大正7年)「尾道軽便鉄道株式会社」が設立。当初は蒸気機関車の運行が前提の計画だったが、電気動力で軌間1067mmの鉄道線へと計画変更されたことに伴い、1923年(大正12年)「尾道鉄道株式会社」に社名変更された。

1925年(大正14年)開業。

1926年(大正15年)と1933年(昭和8年)にそれぞれ延伸開業。現在の尾道駅と連絡できるようになり、営業距離が最長の17.1kmとなる。

1946年(昭和21年)「尾道鉄道電車脱線転覆事故」が起き、多数の死傷者を出した。

1957年(昭和32年)一部区間を廃止。

1964年(昭和39年)全線廃止。

しばらくは社名を変更しないままバス事業者となっていたが、1970年(昭和45年)にニコニコバスに吸収合併され(合併に伴い「中国バス」に社名変更)、会社は解散となった。

Wikipediaより抜粋

さらにざっくり説明すると、かつて尾道市内を縦断するように走り「オノテツ」の愛称で親しまれていた民営鉄道であり、尾道駅で山陽本線から北方面へ枝分かれして、現在の新尾道駅付近を通過し、国道184号線に沿うように尾道市北部(旧 御調町)まで運行していました。

上記の年表では省略しましたが、現在の山陽本線と接続し山陰地方と連絡するために以北(府中市方面)へ延伸する計画が頓挫したこと、路線バス事業に参入したことで鉄道利用客を自社で奪う形になったことなど、紆余曲折があったうえで鉄道路線の営業期間は約40年と短命に終わっています。

Wikipediaを見る限り、経営状況は常にギリギリだったようで、試行錯誤を重ねてなんとか存続を試みたようですが、抜本的な改善には至らなかったようです。

晩年はもっぱら通学の需要が大部分を占めていたようですが、シーズンによっては海水浴客やお花見客など非常にたくさんの乗客で賑わっていたようで、地域に根ざした鉄道であったことには間違いなさそうです。

本記事を作成した2024年は、尾道鉄道が廃線になってからすでに半世紀以上が経過し、街中にパッと見で分かるような明らかな廃線遺構はほとんど残存していません。

当時の画像データと比較しようとしても、そもそも写真が白黒であったり街並みがすっかり変わっていたりとで、私が実際この街に住んでいても昔ここに鉄道が走っていたという現実味がありません。

なので正直、今回の旅においては、鉄道の敷地跡や踏切跡などの分かりやすくワクワクするような廃線遺構には出会えないと思っていました。

結論から申し上げると、確かにそうした廃線遺構は少数しか存在しませんでしたし、近年の活用例である車両や資料館のような施設は当然ありません。

しかしながら、いざ実際に歩いてみると街の至る所に鉄道跡を伺わせるものがあり、廃線から長い時間が経過して街並みが整理されても微かに存在感を出し続けている様には、もはや愛しさのようなものすら感じました。

こうしたことから、旅をする中で次第に、まるで宝探しをするかのような楽しさを覚えてしまった筆者なのでした。

次項では、そんな旅の中で大量に撮影した写真の中から厳選し、現在でも確認できる廃線遺構スポットを15箇所選定して、旅の軌跡を紹介していきます。

旅の軌跡と廃線遺構15選

というわけで、かなり前置きが長くなりましたが、ようやく本題に入らせていただきます。

(お詫び)
本当はルートマップを添付したいのですが、諸々の事情でまだ貼り付けることができません🙏

ページ最下部のリンク先のページを参考にしていただきながら(本記事よりよっぽど見やすく詳しく書かれています)、なんとなくの位置感覚で場所を思い浮かべながらお楽しみください。

いずれ何らかの方法でマップを貼り付けたいと思いますので、しばらくお待ちくださいませ🙇‍♂️


2024年3月8日(金)とてもいい天気です☀️

尾道駅
4番乗り場 甲山行き

朝8:30に尾道駅のバスロータリーで待ち合わせをし、旅の出発点となる尾道市御調町方面へ路線バスで出発しました。

1.市駅跡

バスに乗ること約30分、市停車場へ到着しバスを降りました。

ここは元々尾道鉄道の終点である市駅跡で、現在は中国バスの出張所になっています。

ここから尾道駅まで、廃線跡を忠実に辿りながらひたすら歩いていきます。

市駅跡
市停車場裏
当時は駅前通りとして栄えていたのでしょうか
「駅前橋(えきまえはし)」
なんだか幸先のいいスタートです

さっそく市駅跡を堪能し、尾道駅方面へ足を進めます。

市駅跡から尾道方面をのぞむ
鉄道跡が後に国道184号線へ整備されました
しばらくして国道から派生
左方面が鉄道跡です
鉄道跡を進む

2.諸原駅スイッチバック跡

程なくして、何やら不自然なスペースに到着。諸原駅跡です。

現在、諸原駅跡は更地になっており、周辺も数軒の民家と工場がある以外は簡素な地域です。

諸原駅跡

なお、このエリアは急勾配のため、スイッチバック方式(※)が採用されました。

(※)スイッチバックとは
険しい斜面を登坂・降坂するため、ある方向から概ね反対方向へと鋭角的に進行方向を転換するジグザグに敷かれた道路又は鉄道路線である。

Wikipediaより抜粋
https://www.toretabi.jp/railway_info/entry-2712.html

(追記)なお、当時は下の画像のような様子だったみたいです。当時と現在の写真を見比べると非常に面白いですね。

昭和20年代の諸原駅付近

(※)本記事を最初に公開した後、尾道市内のとある喫茶店に置いてあった「尾道・三原の昭和」という本を閲覧し、先のような当時の貴重な写真をたくさん見ることができました。そのいくつかをスマホでパシャりましたので、後述も含めて追記させていただきました。

話を戻し、スイッチバックの先には工場があって侵入できないため、来た道をそのまま国道まで引き返して進路を戻します。

スイッチバックの先で国道184号線と合流
諸原トンネル

かつての鉄道トンネルのほとんどは、撤去して切り通しになるか、自動車道用のトンネルに改築されています。

3.畑駅跡

市駅跡を出発してからは、ひたすら峠越えの勾配を登りながら進んできましたが、峠の頂上で尾道鉄道における最標高地点に畑駅が存在しました。

畑駅跡

1両ほどしかないような非常に短いホームに見えます。

現在の国道184号線沿いにホーム跡が存在しますが、何か意図があったのかと思えるほど、ホーム跡だけが唐突に残されています。

ホーム跡と言われなければ一体なんの段差かと思う

畑駅を離れて峠を越え、下り坂をひたすら歩いて進んでいきます。

線路跡の下り坂を進む

途中で国道184号線から左方向へ左折します。

いい雰囲気の小路を進む

4.4号トンネル跡

恐らく今回の旅のハイライト。

かつて6箇所存在した鉄道トンネルのうち、唯一現存する4号トンネルに到着しました。

4号トンネル入口
雰囲気がダダ漏れている

国道は現在のルートへ迂回しているため、こちらは自動車道には転用されず、トンネルの形はそのままに遊歩道として整備されています。

橋梁台に時代を感じます
トンネル内部
しっかりした造りに感動しました
トンネルを出て、入口に設置されている案内板

5.2号トンネル跡

4号トンネルをくぐり抜けたら再び国道へ合流。程なくして開ノ木トンネルへ到着です。

開ノ木トンネル
大小のトンネルが隣り合わせです

現在は自動車道のトンネルとして整備されましたが、歩道側の小さいトンネルはかつての2号トンネルを利用して作られたようです。

とはいえ、今さっき4号トンネルを見てしまったので、こちらはあまり鉄道感がないですね(笑)

歩道側トンネル
案内板

トンネルを越え、国道を山なりに進んでいきます。

山なりの道路(国道184号線)が鉄道跡
下方に見える道路が旧街道です

6.脱線事故石碑

しばらく進んで山陽自動車道の高架橋をくぐると、道路左側に石碑が見えました。

こちら、1946年(昭和21年)に発生した脱線転覆事故の慰霊碑になります。

事故の詳細はWikipediaに記載されていますので、気になる方はそちら(ページ上部にリンク有)をご覧ください。

それにしても、関係者や地域の方によって手入れされているのでしょうか。とても綺麗に見えます。

慰霊碑前から畑駅方面をのぞむ

慰霊碑を後にして少し進むと、峠越えが終わり平坦な道になりました。

程なくして、石畦駅(いしぐろ)跡付近に到着です。

信号先の建物付近が石畦駅だったようです

ここで、当時の写真と現在の風景を見比べてみましょう。

なお、この見比べシリーズは断続的に続きます。大人の事情で本記事では一部しか紹介できませんのであしからず。

さて、石畦駅跡を過ぎたあたりで「味平」さんにて昼食です🍜

石畦駅跡付近、国道沿いにある「味平」さん
尾道ラーメンと炒飯のセット😋

お腹も心も満たされ、旅の再開です。ゴールに向けてひたすら進みます。

道路の横に道路は怪しい!

7.橋梁台跡その1

国道184号線沿線より、橋梁の土台跡が確認できます。

これまではほぼ現在の国道184号線が鉄道ルートでしたが、ここで進路が変わり、川を渡って山なりに進んだことが伺えます。

橋梁台跡
その先は道路に転用されています
別角度から
両岸に橋梁台が残っています

鉄道が川を渡ったため、同じく国道から離れて鉄道跡を追いかけます。

この商店街の右裏を鉄道が走っていました

8.線路盛土跡

こちら、鉄道の盛り土跡の上に太陽光パネルが建てられています。

盛り土と太陽光パネル

活用方法が新しい!(笑)

とはいえ、きっとこの太陽光パネルがなければ、唯一はっきりと残る盛り土跡になっていたことでしょう。

※現在は私有地のため立ち入りできません

再び進み、山陽自動車道の尾道IC入り口付近で国道と合流します。

程なくして、遊亀橋駅跡に到着です。

このカーブ付近が遊亀橋駅跡
「遊亀橋」バス停
申し訳なさ程度の椅子が置いてあります

そしてさらに進んでいくと、木梨口駅跡に到着です。

このカーブ付近が木梨口駅跡

この辺りの駅跡を辿ってみて気づいたのですが、尾道鉄道はどうやらカーブに駅が設置されがちです。だからと言って何もないのですが(笑)

そんなことはさておき、再び進んでいくと、中国バス尾道営業所に到着です。

ここの敷地が三成駅跡であり、当時は駅だけでなく車庫や鉄道用の火力発電所も併設され、尾道鉄道における心臓部分であったようです。

中国バス 尾道営業所
道路沿いに何やら看板が
(追記)昭和28年当時の三成駅

こちらの看板は「三成学区の歴史と自然を訪ねる会(略して三訪会)」によって作成されたようです。

三訪会による案内板

地域の歴史を後世に語り継いでいこうという想いが伝わりますし、私どものような旅人(他にいるのかな😅)にはありがたい限りです。

中国バスの営業所を後にし、国道からも少し外れて住宅街へ入ります。

未整備な小路が線路跡と思われます
住宅街の中を進みます

9.橋梁台跡その2

細い小路を抜けた先に、橋梁台跡があります。

写真だと分かりづらいですが、ゴミステーションの下が橋梁台跡です。

橋梁台跡
こちらも三訪会による案内板

再び出発し、川沿いを進みます。

三訪会による探検マップ

10.橋梁台跡その3

少し進むと、ニチエー三成店(スーパーマーケット)に到着。

こちらの敷地内にも橋梁台跡が存在します。

橋梁台跡
反対側から
奥の建物がニチエー三成店
三訪会による案内板

写真を見ても分かるように、辺りがスーパーマーケットや住宅街に整備されており、鉄道の面影は微塵もありません。

ニチエー三成店(トイレ休憩)

ニチエー三成店を後にし、三美園駅跡方面に向けて住宅街を進みます。

川の左岸が鉄道跡です

しばらくして団地の入り口と合流し、三美園駅跡に向けて団地の中を縫うように進んでいきます。

なお、三美園駅跡周辺は廃線後に大規模な団地形成が実施され、下の写真でもあるとおり、現在では鉄道の面影は全くありません。

この地域で廃線跡を忠実に辿るのは難しく(というか無理)、しばらくは断片的に廃線のルートを確認する時間が続きました。

「カラオケ終着駅」
目の前が鉄道跡と知ってのことか??
三美園駅跡
駅の跡形もないような段差です

三美園駅跡を離れて再び団地の中を縫うように進み、勾配を降りたところで尾高駅跡に到着しました。

尾高駅跡
現在は「松岡団地」バス停です

11.石碑

「松岡団地」バス停を過ぎ、国道との合流地点付近の歩道橋下に不思議な石碑があります。

石碑には「一寸(ちょっと)まて でんしゃはこぬか」と彫られています。

こちらは尾道鉄道の踏切事故で亡くなった子供を弔うものであり、以前は別の場所にあったものが何らかの理由で現在の場所へ移されたようです。

この天邪鬼(あまのじゃく)を模した石碑は尾道市内にいくつか存在するようですが、なぜこの石碑が天邪鬼であるかという理由は分かっていません。

そしてこの石碑もまた、綺麗に手入れされているようでした。

側面には別の文字が彫られていますが、解読不能です

さて、再び進んでいくと、山陽新幹線の新尾道駅が見えてきました。

新尾道駅北口

仮に尾道鉄道が現在まで運行していたら、もしかしたら尾道駅〜新尾道駅で連絡ができて利便性がいいのにな〜なんて妄想が膨らみました。

新尾道駅付近
前方の山肌を鉄道が走っていました

12.橋梁台跡その4

新尾道駅を過ぎて進んでいくと、住宅街の中にも廃線遺構が密かに存在しています。

線路跡と橋梁台跡
右側の橋梁台の上には家が建てられています

なお、この橋梁台跡の付近が栗原駅跡になります。

栗原駅跡
住宅街に整備されています

栗原駅跡を離れ、再び進んでいくと国道2号線尾道バイパスと合流🛣️

尾道バイパス

ふと思えば、廃線になった半世紀以上前となると、山陽新幹線や新尾道駅、この尾道バイパスもまだ存在していなかったんですよね。

一体どのような風景の中を鉄道が走っていたのか、今では全く想像ができません。

(追記)下の写真のような、のどかな風景が広がっていたようです。

昭和20〜30年代の栗原駅付近

13.橋梁台跡その5

尾道バイパスをくぐり栗原本通りを進んでいくと、川を渡る左側に橋梁台跡が見えます。

橋梁台跡

こちらも橋梁台跡だけが唐突に残り、周囲の風景を見ても鉄道の面影はありません。

14.踏切台跡

この橋梁台跡のすぐ先が宮ノ前駅跡であり、その付近に踏切台跡が確認できます。

橋梁で川を越え、この場所で道路を横断したものと推測されます。

写真では見切れていますが、右側の倉庫は線路跡に沿うように細長く建てられています。

右下の土台が踏切跡のようです
この場所も言われなければ分かりません(笑)

15.廃線跡に建つ住居群

ここから尾道駅までのエリアは住宅街に整備されており、これまでのような(まだ)分かりやすい廃線遺構は存在しません。

しかしながら、線路跡の敷地に沿って住居が建てられていたり、湿地帯だったが故の線路脇の排水溝が現在も残されていたりなど、実は密かに存在感を出しています。

敷地跡に建っている長細いアパート
以下同文

そして、尾道バイパスから尾道駅までの住宅街エリアは、ズバリ排水溝が鉄道跡の手がかりになります。

いかにもな敷地と排水溝
以下同文

さて、いよいよ廃線跡を巡る旅も終盤です。

現在のイオン付近を通っていました
(別日撮影)
西尾道駅跡
右下の雨水溝が線路跡の手がかりか
猫ちゃん「君たち一体何をしてるの?」

方向を左へ切り、いよいよ尾道駅が見えてきました。

かつては尾道鉄道との連絡スペースだったのでしょうか

(追記)下の写真のような感じだったようです。この不自然なスペースは当時の尾道鉄道のホームで概ね間違いないようです。

昭和37年の尾道駅

15:30 尾道駅北口へ到着!ゴール!

尾道駅北口

というわけで、休憩を挟みながら約20kmの距離を6時間で歩き切りました。

Oさんとも話したのが、普通は御調町から尾道駅の距離を歩くなんて考えられないということです。

20kmとみれば頑張れば歩けない距離ではないと思うかもですが、峠越えの急勾配があったり、そもそも住んでいてそのエリアを歩くことなんてないので、いかにも非現実的なことを実行してみせたことに不思議な達成感がありました。

なお、以下の画像はOさんがケータイのGPS機能をもとに作成した歩行データになります。

赤のラインが今回の足跡になりますが、市街地エリアのギザギザ蛇行を除いてほぼ忠実に廃線跡を辿っているため、つまるところはこのルートをかつて鉄道が走っていたことになります。

地図で見るだけでもかなりの山あいであることが分かりますが、よくこのルートに鉄道を通せたなということを歩きながらずっと話していました。

事前知識やOさんの情報が念頭にある上で今回実際に歩いてみたことにより、当時の尾道鉄道の様々な苦労が伺えたような気がします。

今に残る不思議

今回の旅において廃線跡を忠実に辿ってみた中で、いくつかの不思議なことが浮かび上がりました。

その不思議について次の3点を紹介していきますが、結果として全て解決されていません。

あくまで憶測の範囲で書いていますので、興味本位で読んでみてください。

1.旧駅名がバス停に残る!?

長い距離を歩いた中で気付いたのが、駅跡付近に設置されているバス停の名称に、旧駅名が多く使用されているということです。

そのバス停を運営しているのが中国バスであることから(廃線後、尾道鉄道とニコニコバスが合併し「中国バス」となった)、元々鉄道の駅名として馴染みのある名前を流用したのではないかと推測します。

残念ながら全てのバス停を撮影できなかったので、画像データにある限りのバス停を紹介します⇩⇩

市駅跡「市出張所」バス停
畑駅跡付近「畑」バス停
石畦駅跡付近「石畦」バス停
木梨口駅跡付近「木梨口」バス停
宮ノ前駅跡付近「宮ノ前」バス停

⭐︎注目⭐︎
旧尾高前駅付近にある「松岡団地」バス停⇩

尾高前駅跡付近「松岡団地(尾高前)」バス停

写真を見る限り、その後尾道高校が海を挟んだ向島に移転されたことに伴って、バス停の名称が変更されたものと推測されます。

そして、かつて使用されていた「尾高前」の目隠しが剥がれちゃったのかと。

2.”橋”ではなく、埋めた!?

先ほども紹介した下の写真は、国道184号線に整備された畑駅〜石畦駅間の線路跡になります⇩

写真では見切れていますが、道路左側も傾斜になっていて、どうやら元々は谷だった場所を鉄道建設のために埋め立てたようです。

100m程の長さなので普通なら橋をかけるものと思いますが、わざわざ埋め立てたのには何か理由があるのでしょうか。

地盤や地形の問題か、はたまた技術的な問題か、時代的に資材が調達できなかったのか。いやはや不思議です。

3.なぜわざわざこの坂を登った!?

こちらは尾高駅跡付近になります。

ここから先、線路は三美園駅に向けて進んでいくのですが(今回の進路とは反対方向)、意図的に思えるほど急に右方向へ進行方向を変えてまで「なんでそっち行っちゃったの?」っていうくらいの急勾配が続きます。

廃線後に団地が整備されたことで三美園駅跡付近に廃線遺構はほとんど残っていませんが、それが結果として鉄道ルートの急勾配が明るみになる手がかりとなるのでした。

尾高駅跡
この先で進路変更しています
いやいや、どうやって登ったん?笑
線路跡はここで行き止まりです
まるでジャンプ台のようです
三美園駅跡付近
落差がエグいです
三美園駅跡付近の最標高地点
かつての線路跡
歩いてみると結構な坂です

これらの写真を見るだけでも、三美園駅跡付近がいかに急勾配であったか分かると思います。

現在国道184号線が通っているルートのほうがまだ勾配が緩やかで距離も短縮されるのに、なぜわざわざ遠回りして急勾配を登ってまで方向を変えたのか。

当時にしか知る由もない地形地質の理由か、用地取得の問題か、政治的な理由か。こちらも謎が残ります。

以上の事柄について、もし何かしらの情報を持っていらっしゃる方がいましたら、是非とも情報提供ください🙇‍♂️

まとめ

今回の旅について、特にこの尾道鉄道の廃線跡においてはOさんの事前情報やデータがなければ、ここまでスムーズには進みませんでした。

というのも、全線廃止となったのが1964年(昭和39年)と半世紀以上も前であり、そこから鉄道跡が道路に転用されたり長い時間をかけて住宅街が形成されたりとで、当時と現在では街並みもすっかり変わりました。

そのため、パッと見で明らかな廃線遺構はほとんど残っていませんでしたし、私自身もOさんの説明がなければ発見できなかった場所がたくさんありました。

冒頭でも述べましたが、今回紹介したような廃線遺構たちは長い時間が経過した現在でも微かに存在感を出し続けていて、それらに対して次第に愛着が湧いてくるような不思議な感覚を味わいました。

踏切跡や盛り土跡などの見てすぐに分かる廃線遺構も勿論ワクワクしますが、今回の尾道鉄道のように宝探しをするかのような廃線旅もまた楽しいのだと気づきました。

また、「今に残る不思議」でも触れましたが、険しい山間部を意地でも登っていくような路線ルート、当時の設備状況や建設事情など、素人の私でも不思議に思うような点がいくつもありました。

実際に大規模な鉄道事故が発生していたり、バス事業との兼ね合いがうまくいかなかったりなどという歴史を考えても、時代背景の影響もあるとはいえ鉄道運営において至らない点が多くあったことは事実と言えます。

とはいえ、尾道にかつて鉄道(現在の山陽本線を除く)が走っていたというのは街の歴史においても重要なコンテンツであり、Oさんが街の方からいただいたという鉄道資料や、三成地区で参考にさせていただいた「三訪会」の案内板など、様々なところから鉄道の歴史を語り継いでいこうという想いが伝わった旅でもありました。

側から見れば、とある街で約40年間走っていた鉄道の一つにすぎませんが、そこに住んでいる方々や街の発展のためには絶対に必要なエポックメイキングであったことには間違いないでしょう。

なお、今回ご一緒させていただいたOさんは、尾道で街歩き団体「尾道商會」を主宰されており、今回の旅の経験が今後の活動に大いに生かされることを願います(偉そうにすみません😅)。

何より、今回このような最高な企画にお誘いいただき、既に知識や情報を持っておられたことで何も負荷がなく只々純粋に楽しむことができました。本当にありがとうございました!!

私自身も尾道が好きで移住してきた者の1人として、かなり変わった角度からですが、本記事で尾道のことを知っていただくきっかけになり、尾道鉄道を語り継ぐための一助になれば嬉しい限りです。


さて、いかがでしたでしょうか?

尾道のこと、尾道鉄道のことについて少しでも興味を持っていただけましたでしょうか?

私自身は鉄道にそこまで造詣が深いわけではありませんし、簡潔にまとめられるだけの語彙力も持ちあわせておりません。

そのため、あくまでも私が実際に見て感じたことの表面上を、この上ない量の写真と文字数でごまかしつつ、なんとかまとめあげました。

冒頭でも書いた通り、まだルートマップを添付できていなかったり修正点が見つかってくるかと思いますので、今後も随時手直ししながら本記事をアップデートしていくつもりです。

最後まで読んでいただけた方には本当に感謝しかありませんし、至らない点も多いですがご愛嬌で許してくださいませ。

なので私の願いとしては、本記事を通して廃線の魅力について少しでも知っていただく入り口になってもらえれば嬉しい限りです。

特に尾道鉄道については、Wikipediaのページが作成されていたりその他Webページもたくさん存在しますので、より詳細を知りたい場合は是非そちらをご覧いただければと思います。

それらのページは私よりもよっぽど詳しい方が作成していますし、私自身も今回の旅の予習や本記事を作成する上で参考にさせていただきました。この場を借りてお礼を申し上げます🙇

それらのページに本記事も肩を並べられるのだとしたら、本記事は2024年時点の記録だと思っていただければよいのかなと。

少しでも興味を持っていただけた方は是非とも街歩きの一環として尾道鉄道の廃線遺構を巡ってみてはいかがでしょうか。

その際に、本記事が少しでも参考になれることを願っています。

※現在、鉄道跡のほとんどは私有地になっています。その辺を十分配慮いただき、私有地に無断で立ち入ることは控え、自己責任で大いに楽しんでください!


ps.旅の間、頭の中でずっと「stand by me」が流れていました。


【引用・参考文献】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%81%93%E9%89%84%E9%81%93

https://yamap.com/activities/5577311/article

https://bingo-history.net/archives/12603

http://pyoco3.c.ooco.jp/chugoku/onomichi/onomichi.html

https://www.hotetu.net/haisen/Chugoku/090810onomichitetudou.html


2024.4.7 初稿

2024.8.13 一部追記

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