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ミステリ小説「大学生がバズり動画を撮りに都市伝説の現場に行ってみた。」第5話

俺も香西同様、奈津子さんの厚意をありがたく受けとって、完全日焼け防止&虫除けファッションになることにした。奈津子さんは日焼け止めのラッシュガードを上下身につけているが、俺たちは首元や手首、足首の隙間を網で完全に覆い、虫の侵入を固く防止する虫除け防護服を身につける。幅広帽子も虫除けネット付のもので、俺はテレビの特集で見た、スズメバチ駆除業者の格好を連想した。
「蚊はもちろん、草原くさはら近くにはアブやブヨもいるし、うかつに手で払ったりしたらかえって刺されるから、気を付けてね」
奈津子さんの注意喚起を心に刻む。
香西が「コレもつけとけ」と金色のベルを渡してきたので何なのか訊くと、「熊除け鈴」との答えだった。
「……出るのか?」
思わず声が震える。確かに久冨武市氏の話では、集落に熊が出ることもあったというが、あれは夜の話だったはずだ。
「野生動物はふつう夕方から朝方に活動するけど、用心するに越したことはないからな」
俺は確かに、と頷いて、ベルを腰のフックに付けた。リリリリ、と涼しいベルの音が鳴る。
後に奈津子さんが耳打ちしてくれたが、香西は探索に集中するあまりひとりで先に行ってしまうことがあるので、はぐれるのを防ぐ意味合いもあるそうだ。
俺は持参のデイバッグにスマホを器具で装着すると、カメラが揺れないよう防護服に固定した。持参していた日常使いのハンディファンや塩分タブレット、ミネラルウォーターのペットボトルやタオルも防護服のポケットやフックに装着し、熱中症対策も万全にする。
「よし、行こう!」
俺はスマホの録画機能をオンにすると、集落を飲み込む山林から降り注ぐ蝉時雨の中、拳を握って宣言した。

……数十分後。
俺は出発前の奈津子さんの「頑張ってね」の意味を正確に了解した。
香西は俺に負けず劣らず、というよりもはるかに熱心に、集落を探索してまわったのだ。
集落入り口の二階家の裏手の草原くさはらを歩き回り、集落の中央を通る舗装路の両端の崩壊具合を調べ、集落の各民家の敷地を支えている不揃いの石垣を一軒ごとにじっくり観察する。
各戸の民家も一軒一軒様子を見て回った。全壊している民家や半壊ながら野生の植物に侵食されている民家、噂を聞いて集落を訪れた者たちが残していったのか、廃屋の壁にスプレー缶の落書きがあったり、サッシのガラスが明らかに人為的に割られていたり、コンビニ弁当や缶チューハイ、スナック菓子などのゴミが荒れた庭に放置されている民家もあった。
奈津子さんは集落には十四~五軒の民家があると言っていたが、こうしてきちんと調べてみると、民家の数は入り口の二階家を加えて十四軒。家の体裁を保っているのは二階家を含め数軒で、後は程度の差こそあれ廃屋といっていい状況だ。
集落の中央を通る舗装路から横道に入り少し歩いたところには、小さな川が流れており、軽自動車がギリギリ通れそうな幅の石橋がかかっていた。もちろん、雨風にさらされ続けたゆえ崩れかかっている箇所があるので、歩いて渡ってみようという気にはなれない。
橋の前は他と比べて明らかに道路の幅が広く、道端にはお地蔵様が立っていた。この辺りは珍しく雑草が少ない。お地蔵さまは汚れていない手編みの帽子とちゃんちゃんこを身につけているので、奈津子さんが駅からの車中で口にしていた、所長が連れてきたという集落出身のおばあさんが世話したものだろう。
ちなみに、奈津子さんは香西が民家を一軒一軒見て回り始めたところで「帰りの運転に備えて車で休んでいる」と探索を途中離脱していた。探索前の「頑張って」には「私がいなくなっても礼一くんをよろしく」の意味も含まれていたのだろう。
「このあたりでいちみたいのが開かれていたのかもな」
香西が橋の前あたりを眺めて言った。
「市って、朝市みたいな?」
俺の言葉に、香西は石橋の向こう側を指さす。
「たぶん徒歩や馬が主な交通手段だった時代はこの道を通って他の集落と行き来していたんだ。この集落では手に入らない生活道具や食べ物なんかをこのあたりで売り買いしていたんだろうな。ここならどの民家からも同じくらいの距離だし、店を広げるスペースもある」
香西はそれから、お地蔵様の隣に建つ、二〇センチメートルほどの高さの丸い石碑を指した。草の葉に隠れてよく見えないが、文字が刻まれているようだ。
「地蔵の隣に馬頭尊ばとうそんがあるだろう」
「ばとうそん?」
オウム返しにすると、香西が解説してくれた。
「馬頭尊。馬頭観音ばとうかんのん。仏教の六観音のひとつで馬頭観世音ばとうかんぜおんともいう。頭の上に馬の頭を抱いているから、民間信仰では馬の守護神として崇められた。車が普及する前は主要な交易や移動の手段として、馬がとても大事にされたんだ。道沿いに『馬頭観世音』と彫られた石があるのを見たことないか?」
俺は首を傾げた。これまで、道端に石碑があることに気づいても、刻まれた文字を読もうなんて考えたこともない。
「昔は、馬が路傍で急死すると、飼い主がその場所に『馬頭観世音』と彫った石を建てて供養したりしたんだ。だから馬頭尊は馬がよく通った道沿いに多い。水場には人も馬も集まるから、自家用車が普及する前はここが集落の中心だったんじゃないか」
「……香西、俺と同い年だよな」
「いきなり何の確認だ?」
香西は首を傾げて意味が分からないという表情を虫除けの網越しにするが、まだ学生の立場なのにそんな知識があるお前の方が、俺には意味が分からない。
「“おたまさま”の祠は集落のはずれだというから、ここからはまだ距離があるはず……」
呟きながら香西は石橋に背を向け集落内部に戻る。
集落中央の道路はいよいよ舗装が崩壊し、砂利道と区別がつかなくなってきていた。道の両端どころか中央の舗装にぽつぽつ空いている隙間からも勢いよく植物が生えており、それがももあたりまで伸びているので、つくづく虫除け防護服を用意してくれた奈津子さんに感謝の念が涌いてくる。
持参のタオルはもはや汗でぐっしょりと濡れているが、流れ出る汗はまだまだ止まらない。ハンディファンから吹く風が唯一の救いだ。ペットボトルの水はとうに飲み切った。
頭上から降りそそぐ蝉の鳴き声や、歩くたびに涼しく鳴り響く熊除け鈴の音色にもすっかり耳が慣れたころ、先を行く香西の脚が止まった。
「突き当りだ」
「マジ?」
急ぎ足で香西に追いつきその視線の先を辿ると、ネット小説で見た通りの広場――ではなく、ひざ下ほどの背丈の一面の草原くさはらがそこに広がっていた。
「何これ」
「祠のある広場だろう。他の草原くさはらと比べて草っぱの背も低いし、誰かが踏み入ったらしい跡がいくつもある。しばらくの間誰も世話をしなかったから、植物が伸び放題に伸びたんだろうな。……ほら」
香西が広場(?)の周囲を囲む藪の中を指さした。
ボロボロの腐りかけた木片が緑の枝の中に見え隠れしている。
「たぶん、『一切ノ火器ノ持込ヲ禁ズ』の看板だ」
「え~アレがぁ?」
夏山の強い日差し、響き渡る蝉の声、力いっぱい生命の素晴らしさをうたう鮮やかな深緑の植物たち、太陽に蒸された空気とむせ返るような草いきれ。
都市伝説や呪いといったおどろおどろしさとはまるで無縁の、ひたすらに明るい夏のまっ昼間の森の風景。
今からこの草原くさはらに入って祠を探すのか……とげんなりしていると、香西の防護服のポケットの中でスマートフォンが鳴り響いた。
「はい。奈津子姉さん、何?」
香西が電話に出て二言三言話す。
通話を切ると、香西はこちらを振り向いて、欧米人のように肩をすくめた。
山中を彷徨さまよう不審人物そのものの格好をしていても、そのような動作がさまになってしまうのが嫌味な男である。
「タイムアップだ。そろそろ日が暮れるから、車に戻れ、だと。民家を長く調べすぎたかな。食べかすやゴミが放置されている割に、どうもキレイすぎるから……」
香西がつぶやきながら顎に右手の人差し指を当てて叩く。
武市氏の話を聞いていた時も同様の仕草をしていたから、考え事するときの癖なのだろう。
「キレイって、めちゃくちゃ荒らされてたじゃないか。家の壁に落書きもあったし、ガラスも踏んで粉々にされていたし、ひどいもんだった」
俺の言葉に、香西は顎を叩く人差し指を止めた。
何かを言おうとしたのか口を開き、途中でやめて、「帰るか」と口にする。
次の瞬間には俺を追い越して道を下り始めたので、俺は慌てて後を追った。
香西はそれから、奈津子さんの待つ軽ワゴン車に着くまで、一言も言葉を発しなかった。

「おゥ、礼一! 久々だな。やっとダチを連れてきたっつーから見に来てやったぞ!」
旧久鼻集落を出て恐怖の山道を下り、久冨家の前を通って山間部の集落を抜け、さらに父冨市街地を走り抜けて数分。夏の日はすっかり暮れて、夕焼けの名残の朱色が空の隅をわずかに染めている。
釈氏家は父冨盆地の底、住宅街が広がる平地の一角に建っていた。和モダンな雰囲気の黒壁の二階家で、二十三区内では考えられないほど家屋が大きい。家の前のコンクリート敷きの駐車場には四台の駐車スペースがあるが、それが不自然に見えないほどだ。
駐車スペースにはすでに車が三台まっている。
軽ワゴン車を運転していた奈津子さんはそれを見て、「あら」と口にした。
「お兄ちゃんが来てるみたい」
「エッ」
香西が明らかに嫌そうな声を出した。こいつがこんなに感情をあらわにした声を出すのは珍しい。
奈津子さんが駐車場の一番端に残ったスペースに軽ワゴンを止めてエンジンを切ったとき、和モダンの家のシンプルな黒い玄関ドアが開き、中から大柄な人物が姿を現した。
豪快な歓迎の声をあげて軽ワゴン車へ近づいてきた人物は、身長が一八〇センチメートル代後半、細身ながら日に焼けて筋肉質なことが白Tシャツから伸びた二の腕から見て取れる。引き締まった下半身を青いジーンズに収め、足元はサンダル履き。いかにも硬そうな髪質の黒髪は後頭部が刈上げられていて、一見、香西とは全く正反対の雰囲気だが、面長の顔にまつ毛の長い切れ長の目、毛質は異なるが形のよい眉とまっすぐ通った鼻筋が、彼との血の繋がりを如実に示していた。
というか、香西の血縁は美形しかいないのか。
「お。君が小中こなかくんか。ようこそ、父冨へ。俺は礼一の従兄イトコ釈氏しゃくし那由多なゆた。隣町で農場をしてるんだが、今夜はぼっち気質の弟分がやっとこさ友人を連れてきたというから挨拶しに来たんだ。頭でっかちな奴だが悪い奴じゃない。よろしくしてやってくれ!」
那由多さんは俺が軽ワゴンの後部座席から降りた途端にぎょーんと俺に迫ってきて、上から俺を見下ろすような体勢で一気にまくしたてた。そのハイテンションぶりと酒臭い息から、彼がもう出来上がっていることが分かる。
「お兄ちゃん、もう飲んでるの?」
運転席から降りて、那由多さんの横に駆け付けた奈津子さんが非難の声をあげる。
香西はというと、無言で素早く助手席から降りると、そのまま振り向きもせずに釈氏家の玄関へ走って行ってしまった。よほど彼のことが苦手らしい。確かに帰省そうそう酔っぱらいの相手は苦痛だろうが、友人(という設定)の俺を、もう少し気遣ってほしいものだ。
那由多さんは明るく笑って俺の肩をバンバンはたいてから、俺の両肩を掴んで釈氏家の玄関へ誘導しようとした。
「お兄ちゃん、トランクに礼一くんと小中くんの荷物あるから、そっちお願い」
奈津子さんが那由多さんに声をかけると、俺の両肩から分厚く体温の高い手が離れる。
「ごめんね、小中くん、今のうち!」
奈津子さんは不明瞭な足取りで軽ワゴンのトランクに向かう那由多さんを確認してから、改めて俺の背中に手を当て、釈氏家の玄関へいざなってくれた。
湿度の高い夏の夜風が吹き抜ける。
いつの間にか空はすっかり暗くなり、外灯と釈氏家の玄関から漏れるオレンジ色の光が非現実的な色合いに見えた。
隣を歩く奈津子さんの肌から薫る、わずかな汗のにおいと甘い匂い。
俺はふと、奈津子さんに恋人がいるのかどうか、気になった。

釈氏家の両親はしげるさんと静子しずこさんといい、六〇代後半くらいに見えた。さすが香西の身内、そして那由多・奈津子の美形兄妹の親だけあって、双方タイプは異なるものの、顔立ちはかなり整っている。
繁さんはその年代にしては背が高く、一八〇前後はあろうか。年齢に不釣り合いな黒々とした髪の持ち主で、眉は太くまつ毛も長い丸っこい目、まっすぐな鼻筋の、意志の強そうな面差しの人物だった。着ている服は甚平で、色黒の肌が青い生地に良く映えている。
一方の静子さんは小柄な体格で色白、絹糸のような細い髪を胸のあたりまで伸ばしてゆるくひとつに結んでおり、くすんだピンク色のシュシュと、ベージュの麻のワンピースが良く似合っていた。面長の顔と、笑うと糸のように細くなる切れ長の目は明らかに彼女から兄妹に遺伝したのだろう。細い顎に小さな唇で軽やかに微笑んでいる様子が、奈津子さんと瓜二つだ。
俺が奈津子さんに連れられて釈氏家のリビングに入ると、オレンジ色の明るい照明の下、八人は座れるだろう、鮮やかな木目の大テーブルいっぱいに、生寿司やいなり寿司、ポテトサラダやから揚げといった豪勢な料理が並んでいた。
繁さんはその大テーブルの奥の席に着き、陶製のコップを片手に那由多さんとそっくりな表情でニコニコと笑みを浮かべている。
静子さんはその隣の席に着いてはいるが、椅子には座らずに立ち上がって、左手に持った皿にいなり寿司やから揚げなどを次々と乗せていた。入ってきた俺たちに気づいて、
「おかえりなさい、ナッちゃん。いらっしゃい、小中さん。どうぞ座って。先に始めちゃっててごめんなさいね」
と上品な笑顔で挨拶する。
繁さんは目をつむって微動だにせず、どうやら眠りこけているようだった。
静子さんから一席空けた椅子には香西が仏頂面ですでに座っており、無言で麦茶のコップに口をつけている。静子さんは料理をひと通り乗せた皿を香西の前におくと、そのまま場所を移動して俺の前に立った。
「小中さん。ここまでいらしてくれてありがとうございます」
深々とお辞儀をされて、俺は戸惑った。罪悪感の苦い味が胃に広がるが、それを彼女に悟られるわけにはいかない。
「いえ、こちらこそ、お世話になります」
ぼそぼそと応えると、静子さんは笑って、俺を香西の隣の椅子に座らせた。
奈津子さんがダイニングキッチンからおしぼりとコップを持ってきて、俺の前に置いてくれる。
「お母さん、台所に『禄朗ろくろう』の瓶があったけど、もしかして……」
静子さんは奈津子さんの言葉に、困ったように頬に手を当てた。
「そうなの。那由多なゆたがお友達から貰ったらしくて。お父さんと礼一くんのお友達に飲ませたいって持ってきてくれたんだけど、待ちきれなくってねぇ。ほら、めったに手に入るモノじゃないから」
禄朗ろくろう』?
耳慣れない単語に俺が首を傾げていると、隣の香西が俺にスマートフォンの画面を見せてきた。どうやら地方のニュース記事だ。
父冨ととふ唯一のウイスキー蒸留所が作った海外マニアも認めるウイスキーの逸品・『禄朗ろくろう』”
“発売直後に売り切れ必至。定価購入は至難の業”
記事の下の方に、通販サイトのリンクが貼ってあり、そこに『禄朗』の値段も表示されていた。
「……一本○十万?」
小さく驚きの声が出る。
「ふたりとも、弱いくせに酒好きだからな。飲むとすぐ眠っちまうんだ。今頃、那由多兄さんも自分の部屋で大いびき……」
呆れたようにつぶやく香西の台詞の語尾に、天井の方から響いてきた「ごごごぉ……」という獣の唸り声のような音がかぶさった。
「お兄ちゃん、車から荷物降ろしたらすぐ二階に直行して寝ちゃったみたい。ふたりとも、すぐ酔っぱらうけど酔いが覚めるのも早いから、今のうちに食べちゃいましょ」
奈津子さんが静子さんの向かいの席に着き、取り皿と箸を俺に渡してくれた。
香西はさっそく、静子さんがよそってくれた皿の上の料理を左手で箸を持って食べ始める。
いや、料理くらい自分で取れよ。俺はお前にも呆れるわ。

その後、酔っぱらいふたり(繁さんと那由多さん)をよそに、俺は静子さんの手料理を堪能した。
父冨の名物だという豚肉の味噌漬けをキャベツと炒めたものや、しゃくしという菜っぱの漬物を白米と一緒に口に放り込むと、長時間の探索ですっかり空っぽだった胃がどんどん満たされていく。から揚げは衣サクサク、中身プリプリでこちらも白米がすすみ、甘く濃い目の味付けのいなり寿司をガリと交互に食べると箸を止めるのが一苦労なほどだった。濃い目の冷茶に氷を入れてもらって、最後にひと口ごくんと飲み込むと、幸福な満腹感が疲れとともに全身を包む。
しまった。ひたすら食べ続けて、すっかり静子さんや奈津子さんとの会話を放棄していた。ちなみに香西は最初から会話の相手としてカウントしていない。普段の無口ぶりを知っているからだが、どうやら香西も食べるのに熱中するあまり、叔母や従姉と会話しなかったようだ。
「美味かった……」
冷茶を飲み干したコップを置き、しみじみ呟くと、その様子を見ていた静子さんがくすくす笑う。
「そんな風に食べてもらうと作った甲斐があるわ。那由多なゆたも礼一くんもこの家を出ちゃったから、こんなに料理を作ったのは久しぶりなの」
「はぁ。とても美味しかったです。ごちそうさまです」
両手を合わせて礼をしてから、右斜め前で食事していたはずの奈津子さんがいないことに気づく。
あれ、いつの間に。
その時、リビングのドアが開いて、濡れ髪にタオルを巻き、パジャマを着た奈津子さんが現れた。
「あ、お先に失礼」
こちらを向いて会釈する奈津子さんの火照ほてった首筋の肌に、髪から垂れた雫が伝っていく。目を離せずにいる俺に気づいているのかいないのか、いや、百パーセント気づいていないだろう香西が、ドアの隙間から見える廊下の奥を右手親指で差して、俺に言った。
「小中も汗流して来いよ。山ん中歩き回って疲れただろう。この家の湯船、広いから、足伸ばせるぞ」
「えっ」
あらぬ妄想が頭をよぎった。
それは、奈津子さんの入った湯船に、これから俺が浸かるという……?
「俺は二階でシャワー浴びるし。姉さん、シャワー室、俺も使っていいよな?」
香西が右手人差し指で天井を指さして言う。
そうか、この家は一階に湯船のある風呂場、二階にシャワー室がある豪勢な造りなのか。
そうか、奈津子さんは二階のシャワー室でシャワーを浴びて、香西は俺に一階の、足を伸ばせるほど大きな湯船に浸かる権利を譲ってくれたのか。
ありがたいな。
泣いてない。
泣いてないぞ。

第6話
https://note.com/newyamazaki85/n/naf361f57f98d

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