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覚醒は放っておいても全員に勝手に起こる

覚醒

なんという神秘的で魅力的な言葉だろう。僕は、子どものころから覚醒というものに憧れていた気がする。今の自分ではない何か大きい存在になるような、まるでテレビに映っている戦隊ヒーローのようになれるんじゃないか? そんな気がしていたんだ。子どもの頃の僕は、虚弱体質。体も小さく、痩せていた。力も弱かった。運動も対してできない。だから、何か強い存在に変身したかった。

キン肉マンや北斗の拳、聖闘士星矢、ドラゴンボール。漫画の主人公のように強い。彼らはどこかで、覚醒が起きた。セブンセンシズに目覚めたり、サイヤ人の目覚めたり、自分の内側に眠る力に目覚め、大きく成長していく。それが僕自身にも起きないかとずっと願ってた。何かが目覚めれば、僕は強くなれるだろう。子どものころから、ずっとそう思ってた。でも、孫悟空がスーパーサイヤ人になるような、そんな覚醒はこれまで僕には起きなかった。勉強した、実践した分だけ成長した。そんな感覚しかない。

覚醒という言葉に、子どものころから惹かれ、その手の書籍を本で見かけるととても気になった。でも、学生の頃は何かオカルトチックに印象があったし、オウム真理教のイメージも強く、何か踏み込んではいけないような、そんな気がしていたんだ。だから、憧れも興味もありつつも、そこに踏み入ることをしなかった。そこから長い年月が過ぎ、覚醒について踏み込んで考えるようになったのは、30歳を過ぎてからだった。

僕は32歳でセミナー業界に入り、いろんなジャンルのセミナー運営をサポートしてきた。自己啓発、心理学、ビジネス、スピリチュアル、健康 などなど。本当に様々なセミナー運営に関わってきたことで、その分野の知識に触れる機会が増え、当然ながらその中には覚醒もあった。セミナー業界にいることで、自然と『覚醒』について考えたり、情報交換することが日常の溶け込んでいった。が、僕に覚醒が起こったわけではない。覚醒に憧れ、興味を持ち、知識も増えた。が、僕に覚醒が全く起きなかった。悔しかった。

2011年の東日本大震災のあと、日本のエネルギーはなんとなく変わった。達成意識から充実意識に変化し、その瞬間を楽しむ、今ここ、マインドフルネスみたいなスピ系の情報が日本に増えていった。神社系、龍使い系の書籍も増え、日本にスピリチュアルブームが到来。当然ながら、覚醒というものが目につき、覚醒をしたと名乗りをあげる人がどんどん出てきた。悔しかった。僕よりもはるか後になって覚醒について学んだ人が、僕を追い越し、先に覚醒し、出版までした。しかも何人も。

スピ系についてははるかに僕の方が早く取り組んでいたはずなのに、後輩に追い抜かされる。悔しい。すごく悔しい。分かってる。完全に僕の嫉妬だ。自分の弱さを認められなくて、自分の頑張りを認めてもらえなくて、単に拗ねているだけだ。それは分かってる。でも、悔しいものは悔しい。だから、これ以上、追い抜かれないように、覚醒を目指した。自分の中から、何か大きな力が目覚めるように、内観もしたし、瞑想もした。確かにそれによって、自分が宇宙である感覚になったりとか、空(くう)の状態に気づいたりとかした。でも、これが覚醒? これが目覚め? もしそうなら、なんか想像してたものと違う。僕が創造してたのは、なんかもっとほら、クリリンがナメック星で大長老に潜在能力を引き出してもらって、全身に力がみなぎってくるみたいな。あれだよ、あれ。僕は、あれが欲しいんだ。

こうして覚醒することを追い求めた結果、僕は覚醒を追い求めることをやめた。というか、必要が無くなった。なぜなら、僕はとっくに覚醒をしていたということに気が付いたからだ。僕は、覚醒というものを誤解していた。目覚めというものを誤解していた。実は、覚醒は誰にでも起こる。何もしなくても放っておいても勝手に起こる。もちろん時期は違う。だけど、誰でも起こる。覚醒が始まる、が最適かもしれない。何にもしなくても誰にでも覚醒は始まる。ただ、始まったあとの覚醒の度合いが違うってだけだ。

僕は、よくキャンプに行ってバーベキューをするのだけど、肉だけでなく魚介も焼いたりする。浜辺でのバーベキューだと、ハマグリやホタテを焼いたりもする。炭火の上に網をのし、ホタテを並べる。じわじわとホタテが焼かれ、貝殻のスキマからブクブクと泡が立ち、蒸気が出てくる。カパッ! ついに貝殻が開き、焼かれた美味しそうなホタテの身が現れる。覚醒とは、炭火に焼かれたホタテのようなものだ。つまり、放っておいても貝が開くように、僕たちも覚醒するってこと。

いま地球は、波動があがってきている。つまり、炭火が出てきている状態で、僕たちはその上に置かれたホタテだと思っていい。炭火の上に置かれているんだから、殻を開こうとしなくても勝手に開く。覚醒しようとしなくても勝手に覚醒するというわけ。ただ、開くタイミングが貝によって違うように、覚醒のタイミングは違う。でも、いつかは必ず開く。いつかは必ず覚醒するというわけだ。

覚醒の度合いが番うというのは、貝の開く大きさが違うということだ。貝が1ミリしか開かない甲斐もあれば、完全に両開きになるくらい開く貝もある。だから、人によって覚醒の度合いが違うということ。ここで嬉しいのは、貝が開き始めたら自分の手で大きく開けることが出来るように、覚醒の始まりに気がついたら、自分の力で覚醒の度合いを高めることが出来るってことだ。僕は、どうやら完全マックスで貝が開いた状態を覚醒だと思っていたみたいだが、それは大きな勘違いだった。実はもうとっくに覚醒は始まっていた。なのに覚醒しよう、覚醒しようとしてたわけ。同然出来るわけなき。だってもうできているんだから。

僕の感覚では、もうほとんどの人が覚醒はスタートしていると思う。覚醒の始まりって、

あれ? 目の前の世界ってなんか違うかも?

ということを思い始めることだと僕は思う。今の世界ではない何か別の世界があるのかもしれない。今の世界に違和感を感じる。それがもう覚醒の始まりなんじゃないかな。あとは、この違和感を突き詰める。これが覚醒の度合いを高めるってことかなと。違和感を違和感のまま終わらせていたら、覚醒の度合いはそのままだし、突き詰めていったら覚醒の度合いは大きくなる。ガッツリと貝は拓いて、中身が丸見えになるってわけね。そんな感覚があるんだ。

僕は、長いこと覚醒に憧れてた。だけど、そんな必要もなかった。気づいたら、覚醒は始まっていたし、覚醒は進んでいた。多分、以前の僕のように、覚醒に憧れてる人もいるかもしれない。で、頑張ってるのに覚醒が起こらなくて、ストレスを感じたり、不安を感じているかもしれない。だけど、大丈夫。覚醒は誰にでも起きるからね。すでに始まっているかもしれない。だから、焦らないでいい。覚醒という言葉に振り回されず、もっと楽しく生きていたら、覚醒は進んでいく。そんな気がするよ。


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