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【決定版】「働き方とお金」の目指すところはFIREすること

誤解の多いFIRE

FIREについて幾つか誤解があると思います。「45歳で仕事を辞めて95歳までの50年間は遊んで暮らしたい」というと、次のような反応をされることがあります。

「働かないのはつまらない」
「コミュニティがなくなる」
「生きがいがない」

「FIREしたい!」という短い言葉の裏にいくつかの前提を共有しているつもりでしたが、共有されていないことに気づきました。おそらくFIREについて中途半端な理解が広まっているのでしょう。「遊んで暮らす」の意味を履き違えている気がします。この記事で、僕が考えるFIREの意義について、整理していきます。

遊んで暮らすことが人間らしさの特徴

「遊んで暮らす」のイメージの解像度が低いことが誤解の1番の原因に思います。毎日パーティーをしたり、ダラダラYouTubeを見たりすることでもなければ、読書や旅行にばかり耽ることでもない。もっと有意義で社会的な遊びを想像してください。

・読書会を主催して読書好きのコミュニティを作る

・ランニングサークルに参加して大会を目指して練習する

・旅行や読書のレビューをブログに書いて発信する

・観光地のボランティアスタッフをする

・野菜を育てて販売する

・少年野球チームのコーチをする

・ボランティアワークキャンプに参加する

・地域おこし活動の運営チームに入る

・学生時代の研究の続きをする

・イラストを書いてSNSで販売する

このように、FIREがしたい人の言う遊びは、広義の意味で捉えているのです。複数の遊びを同時にやり、遊びを変えていきながら生きていく。

オランダの歴史学者、ヨハン・ホイシンガは著作「ホモ・ルーデンス」の中で、文化を生み出す根源を遊戯の中に見出し、遊戯が生活に意味を与えるものと主張しています。遊んで暮らすことこそ人間らしい生き方であり、文化的な暮らしだといえるのです。

「労働からの解放」の意図とは?

マルクスの「資本論」の中では、労働を「自己の喪失」と捉えます。生の一部として労働を了解するには固有の困難さを伴います。「了解する」とは、理性の上だけでなく感覚や主観も含めた理解を表す用語です。

ここに現代の資本主義社会において、労働の位置づけの限界が存在します。労働を了解するという作業は、あるレベルで突き詰めることを断念して宿命・当然として受け入れることになります。すなわち、権威・貨幣的な富との関係の中で弁明せざる得なかったのです。FIREはこの戦後資本主義社会に対するカウンターカルチャーです。

貨幣的な富を得る手段として資産運用を選択し、その利益に依って暮らすことを目指す人が現れました。これには2つの時流の変化が影響した。1つは、豊かな生活の定義が見直され、多くの人がそれほどお金を使わなくても幸せに生きていけることに気づいた点。そして、もう一つが、ネット証券によって手軽に投資をできるようになった点です。銀行の利率の低さから運用せざる得なかったという側面もこの流れを後押ししました。

労働をどう位置づけるか?

先に、「労働の位置づけの限界が存在する」と書きました。これについてもう少し深掘りしていきます。

企業が生み出す価値は貨幣的な富の源泉となります。企業というのはそれ以上のものではなく、人間の生の場とは切り離して考えるべきです。生きるために必要なお金を契約に基づいて定期的に獲得できる場所として、目的を持って所属する場です。勘違いしてはいけないのは、「生きがいというのは、それを見出すのは自分自身であって、企業という場に求めるものではない」ということです。生きがいを企業の中に求めていいのは産業ロボットだけです。

もちろん、自営業で働く人や一部の公務員の人は別である。また、FIREし終えた人が取り組む自発的な社会活動も別である。ここで議論の対象としているのは、企業と契約して労働をする人たちである。

日本の企業による「自己の喪失」はマルクスが批判してきたよりもさらに酷いことになっています。マルクスの労働論や価値論では議論されなかったことまで、問題になっているのです。どういうことでしょうか?

マルクスは、主観や具体に即した労働の側面を排除することで、資本の価値増殖を説明できました。資本が労働者から搾取するのは抽象的人間の側面で説明される余剰資本のことでした。しかし、日本の労働社会では社会人の人間関係や余暇、結婚相手まで企業の中で形成され、具体の人間として人生の大半の時間をエネルギーを企業に費やすという面での搾取が問題なのです。

これまでは、こうした搾取を権威・貨幣的な富との関係の中で弁明してきました。「生きるために必要なんだ」「社会活動こそが生きがいなのだ」と、苦しい弁明でした。FIREの面白いポイントは、生きていくために収入を得る労働と、社会に貢献する労働を分離したことです。これによって、企業と契約した労働とは別に、社会的な意義のある労働(→これを遊びと捉える)を説明できるようになりました。

「働き方とお金」の目指すところはFIREすること

民主化という言葉が拡張される昨今ですが、これは生き方選択の民主化であります。人間ひとりひとりが自分のやりたいことを見つけて、社会に還元する。企業に頼らずに社会活動ができるという自由を知りました。盲目的、宿命論的な労働に対する考え方からの解放である。一方で、自由には新しい困難が伴います。やりたいことが見つけられないと、逆に自己の喪失が起きます。単純な話でもないのです。

まとめ

FIREについて理解が深まったのではないでしょうか。決して、非労働者に成り下がり遊び呆けることではありません。経済的な必要性からの社会活動から解放されて、自律した社会活動ができるようになるということです。

 FIREしたくないというのは、FIREの意味を誤解しているのでしょう。FIREした上でなお、その仕事を続ければいいのですから。

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