沖縄慰霊の日 “焼失”首里城の地下に司令部
今月23日は75年前の沖縄戦で
組織的な戦闘が終結したとされる
「慰霊の日」です。
去年、火災に見舞われた首里城の地下に
日本軍の司令部があったことを
ご存じでしょうか。
現在は、崩落の危険などを
理由に公開されていませんが、
沖縄戦を指揮した司令官の孫にあたる男性が
保存と公開を訴えています。
(6月23日(火)news23より)
20万人余りの命が失われた沖縄戦…。
沖縄は日本で唯一
大規模な地上戦が行われた地です。
式典が行われた平和祈念公園を
訪ねた男性がいます。
牛島貞満さん(66)。
沖縄戦を指揮した
牛島満司令官の孫です。
平和祈念公園近くのこの地で
牛島司令官が75年前のきょう・6月23日に
自決したことによって組織的な戦闘は終了。
しかし…
牛島司令官は自決の直前、
“降伏せずに、最後まで戦うこと”を求めました。
小学校の教員を勤めながら
「平和ガイド」として
戦争の悲惨さを伝えてきた牛島さん。
いま沖縄戦を伝えるある“戦争遺跡”の保存を
呼びかけています。
去年10月31日未明。
突如、上がった炎は瞬く間に燃え広がり
首里城の正殿を含む
6棟を燃やしました。
おととい、
牛島さんは火災後始めて、首里城を訪れました。
沖縄県と国は、焼失した正殿を、
2026年中に復元する計画をすすめています。
沖縄の歴史・文化の象徴である首里城ですが、
焼失は初めてのことではありませんでした。
1945年3月に始まった沖縄戦。
アメリカ軍の激しい攻撃により、首里城は全焼。
首里城が狙われたのは、理由がありました。
実は戦中、日本軍はここ首里城の地下を掘って、
「第32軍司令部壕」
と呼ばれる地下壕を作りました。
沖縄戦の作戦はここで決められていたのです。
司令部壕は首里城の地下およそ30m、
南北380mに伸びていました。
今は安全面などを理由に、
県が入り口を封鎖していて、
その存在はあまり知られていません。
23年前、牛島さんが
内部に入ったときの映像が残っていました。
そして、この司令部壕の中で、
多数の犠牲者を出すことになった、
ある決定が行われたのです。
牛島さんの祖父・牛島司令官は、
多くの民間人が避難する南部に
軍を撤退させることを決めました。
その結果、
沖縄戦で亡くなった人のおよそ半数が、
戦闘に巻き込まれて
南部で犠牲になったと言われています。
この日、牛島さんは
「司令部壕」に関わりのある人を訪ねました。
古堅実吉さん、90歳。
師範学校の生徒だった15歳の頃、
軍に召集され、壕を掘っていました。
司令部が南部への撤退を決めると、
古堅さんら生徒たちも、
一緒に移動することになったと言います。
悲劇的な結末を迎えた沖縄戦。
古堅さんは日本軍の拠点となった司令部壕を
戦争遺跡として保存し、
公開して欲しいと話します。
琉球王国の栄華を伝える首里城。
その復元が決まる一方で
地下の司令部壕については、
整備費用などがかさむことから
現時点で県は公開しない方針です。