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物語で問うということ 小説家・平野啓一郎さんインタビュー(後編) 哲学カルチャーマガジン『ニューQ』発売中!

前編に引き続き、平野啓一郎さんへのインタビューをお届けします。後編では、「愛にとって、過去とは何だろう?」という問いで平野啓一郎さんと哲学対話をしてみました。みなさんも一緒に考えながらお楽しみください!

このインタビューが掲載されている『ニューQ Issue01 新しい問い号』は、全国の書店およびAmazonでお買い求めいただけます。

― 『ある男』には分からなくなった登場人物がいますか?

平野 『ある男』では、最後に妻がどうも浮気しているんじゃないかというのを夫が目撃して、見なかったふりをする場面があって、この箇所は小説の連載時にも読者の中で結構物議を醸したんです。僕はあの場面を割とすんなり書いたんですけれど、自分の意図を超えているので、なぜそのように書いたかと聞かれても、「きっと彼はこういう心境だったんじゃないんですかね?」という言い方しかできないところがあります。それが僕の中である登場人物が他者として実在しはじめているという手応えなんですよ。だからちょっと他人事のような答え方になってしまうんですが。

過去への問いと分人主義

― 平野さんの作品では、どれも過去というものがとても大きな意味を持っていると感じますが、平野さんにとって過去とは一体何なのでしょう?

平野 アイデンティティの問題を考えていると、どうしても過去を参照して、これまでやってきたことや考えてきたことの中から自分はこういう人間なんじゃないかと考えますし、他者の評価に関しても、自分は過去の積み重ねなのかと思いますよね。世代的に、クリプキの『名指しと必然性』とかはやっぱり読みましたし。

僕は父親が早くに亡くなっているんです。僕が1歳のときに亡くなっていて、全く記憶にない。自分が子育てしてみると、1歳の子ってこんなに喋るんだと思って、自分がこんなに父親と会話をしてたのかと思うとちょっと驚きなんですけれど、それでもやっぱり全く覚えていなくて。誰でも記憶を遡っていった最後に、消失点みたいな、これ以上は遡れないというところがあると思うんですけれど、僕はそのことが昔から気になっていました。小さい頃は今みたいにデジカメなんてなかったから、例えば母親に、お父さんはどんな人だったの?と訊くと、その消失点の向こう側の記憶の空白を母親は言葉で埋めようとするんですよね。こういう人だったとか、こんなエピソードがあったとか。存在はしているのだけれど、実感として確かめようのない人物のことを、母は言葉によって僕に一生懸命伝えようとしている。しかも愛を持ってね。それが僕の小説を書くということにすごく大きな影響を及ぼしている気がします。やっていることはちょっと似ているんです。

だから、アイデンティティの問題と。記憶を遡った先に空白があるということが、過去に対してものすごく興味がある大きな理由です。

― 平野さんには、人は分けられない個人(individual)ではなく、一緒にいる他者やその時々の外的な状況によっていろいろな自分になるという「分人主義」の考え方がありますよね。過去の私に対する今の私というのも、ひとつの分人なのでしょうか?

平野 僕は中学校や高校の講演で分人主義について語るとき、単純化して円グラフを書いてくださいと言うんです。友達といるときの分人とか、好きな子といるときの分人とか、家族といるときの分人とか。中学生の頃の分人の構成の円グラフと、僕の今の分人の構成の円グラフはものすごく違うんですよね。その総体が僕という人間の個性の変遷みたいなものに繋がっているとは思うんですけれど。

自分の過去を振り返るとき、分人同士の対話みたいなものが起こります。そこでは、いろんな人ごとに喋っている僕が、様々な分人を行き来しながらどこかで混交していくことがあると思うんです。基本的に分人という概念は外的なものとのペアで考えていて、過去に関する内省の場合は「現在の具体的な分人を通じて、何か具体的な過去の分人のことを考えている」というように捉えています。

『ドーン』という小説では、宇宙空間にいて毎日限られた人たちとしか接しないので、極端に分人が限定され、過去の自分という存在がものすごく大きくなってきてしまうことで起こり得る障害をテーマにしたんです。自分が過去に犯したことと向き合う時間が長くなりすぎて、それが分人の構成バランスを壊してしまうというイメージでした。

―『ドーン』はSF作家が書くような未来が舞台の作品ですよね。

平野 そうですね。僕自身は、中世の末期を舞台にした『日蝕』から、19世紀や現代の小説も書いて…と過去の文学史や思想史、宗教史を見ながら自分の仕事をしてきたのですが、出版界に対して閉塞感みたいなものを感じていました。最近は未来の予測が極端に難しくなっていると思うんです。グローバル化もあり、テクノロジーの進歩が誰も予想のつかない状況になっている。十年後どうなるかということについては、分からないと言っている人が一番誠実なんじゃないかとすら思います。そういう状況の中で出版業界も前例主義になっていて、過去のデータに基づいて次の初版の出版部数を決めるんです。この前の作品と今度の作品は全然違っていて、新作はキャッチーだから初版を多めに刷りましょうというような話は、今や全く通じなくなっているんですよ。常に前例やデータ化されたものだけが信用できるとされて、誰もリスクは取りたくないし、「これもっと売れますから!」なんて言ってもみんなを説得できなくなっている。過去やってきたことは確かにそうかもしれないけれど、でも「未来をこうしたい」ということもあるわけだから、とりあえずそこから現代を見直してやるべきことをやった方がいいんじゃないかとずっと考えていました。ある状況化でそのとき何をするのか、過去を一旦脇に置いて考えてみたかったのが『ドーン』で舞台を未来に設定した理由です。

― 消失点の向こう側の解像度を高めるために過去と向き合いたいと思う一方で、一度過去を脇に置いて、未来のことを見据えて現在の自分を考える必要もある。過去は大事だけれど囚われすぎてもダメだというのがアンビバレンツですよね。

平野 過去は不安定だというのが最近の僕のテーマです。人が思っているほど過去は安定しているものではなくて、トラウマ説なんかもあるけれど、「過去にこういうことがあったから」なんて、現在時点からかなり反復強化しないとそんなふうに固着しないんじゃないかと思うんです。歴史修正主義が政治的な意味を持つとか、個人的にも過去のある人の表情が違って見えてくるとか、いろんな例でそういうことがありますよね。だから、実は過去はすごく不安定で、未来もすごく不安定。その狭間にまた不安定な現在があるというのが最近の僕の時間感覚で、気になっていることです。

― そのような中で、一体何が拠り所になるんでしょう?

平野 そうですね…コミュニケーションが拠り所なのかなと感じます。僕は分人という概念自体は、ニュートラルで分析的な概念だと思っているんです。人が人と接すると、どうしてもその人との間に特殊なパーソナリティが生じて、ひとりの人間の中にはそれが必然的に複数存在する。それ自体には良いも悪いもありません。その上で、分人の比率を心地良いものにすべきじゃないかという話は、分人という概念を基盤にした僕の人生観みたいなものです。

この考え方はいろんなことを考えるときのひとつの基本なのですが、ハイデガーじゃないけれど、死を先駆して、自分が死ぬときのことを考えたりするんですよね。そうすると、プライオリティーを考えるでしょう?僕はやっぱり、死ぬ時に自分がどういう分人を生きた時間が長かったのか振り返って、自分にとって満足のいく分人を生きた時間が長かったとすると、まあまあいい人生だったんじゃないかと思える気がするんです。だけど、例えば徴兵されてとか、非常に不本意な分人を生きる時間が長かったらと思うと、やっぱりすごく不幸だと思う。なので、翻って自分がどういう分人を生きている時間を長くできるかというように、他者との関わりを整理していくことが日々の実践的な課題になってきます。

ただ、もうちょっとこのことを考えてみると、人に好かれやすい人はますますコミュニケーションがうまくいって、好かれにくい人は、あの人との分人をあまり生きたくないと避けられ、ますます孤立していくという懸念もある。これはミシェル・ウエルベックっていうフランスの作家なんかが主題化してる問題ですね。彼は一種の愛の新自由主義みたいなことをずっと批判しているんです。経済的な新自由主義は、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるけれど、みんなそれは問題だと言って貧しい人たちに対して社会保障をなんとかしなきゃいけないという議論になる。愛の新自由主義になると、モテる奴はますますモテるし、非モテはますます非モテで、しかも経済の新自由主義と違って、非モテを救済しようなんて誰も言わないから、絶望的な孤独だっていうのが彼のテーマです。その実存の孤独からカトリックに行く、というのは、フランス文学の歴史でもあったけど、『服従』では一夫多妻だからとイスラームに行く、という話になっていますね。作品としては、以前と比べてやや衰弱してますが。それはともかく、他者の分人の構成比率をコントロールしようとするというのは、すごく暴力的だと思うんです。政治を例にすると、党に忠誠を誓っている分人が100%になるよう常に監視するというファシズムみたいなね。僕は、自分の分人の比率をコントロールできるというのが自由だと思っていて、だから他者の分人の構成比率について口を挟むことはできないと考えます。

平野啓一郎さんとする哲学対話「愛にとって、過去とは何だろう?」

後半はニューQ編集部(瀬尾、今井、田代)と平野啓一郎さんで哲学対話を行うことになりました。
※哲学対話については雑誌26頁のコラム「哲学対話のはじめ方」でご紹介しています。

今井  「哲学対話」は「哲学カフェ」とも呼ばれる哲学の実践活動のひとつで、身近にある自分にとって切実な問いについて、日常的な言葉遣いで問い、考えを深めてみようというものです。哲学書を読んで一人でじっくり考えを深めるのもいいけれど、他者との対話を通して哲学するのも楽しく、街中のカフェで開催されたり、教育現場や地域創生の取り組みなどでも利用されたりしているんです。

平野 大江健三郎さんとお話すると、大江さんは言葉の定義についてすごく言及されるんですよ。『定義集』という本も出されてますけれど。僕が「なぜだろう?」と考えているときも言葉の定義を考えていることが多くて。言葉っていうのは人それぞれではないし、ある一つの意味にたどり着かないといけないでしょう。例えば愛という言葉ひとつを取っても、それが何なのか定義を定めようとすることが思考を深めてくれるんです。それは哲学対話にも通じているのかな。

今井 そうですね。多くの人と一緒に考えを深めていくと、普段何気なく使っている言葉が実は曖昧でよく分からないものであることに気が付くんです。そこから、じゃあそれって一体何なんだ?と新しく問い直されるのが哲学対話の醍醐味でもあります。

 あとは、問いが次々に変わっていくのが哲学対話の面白いところです。今日は、『ある男』のテーマでもある「愛にとって、過去とは何だろう?」という問いから出発したいと思います。

平野 これはお互いに質問しあったりとかするんですか?

今井 はい!

平野 じゃあ…例えば、誰かのことを好きになって、その人が前に付き合っていた人のことを聞きたいですか?

田代 「愛にとって、過去とは何だろう?」という問いを見て、私もまずその問題を考えました。好きな人の過去をまるごと愛すべきなのか。愛した方がいいんだろうなとは思うのですが、いざ過去に付き合っていた人の話を聞いたりすると、どうして私が相手の昔の恋人のことを大切にしないといけないんだろう?とも思うんです。

今井 私は聞かないですね。聞こうとも思わないです。

平野 自分から言い出す人いません?

今井 いますよね。聞かせたいというなら面白く聞きます(笑)

平野 不愉快ではないんですか?

今井 不愉快には感じないです。感じるべきなのかな?

瀬尾 語り口にもよるんじゃないですか?前に付き合っていた人はこうだったと比較されると不愉快に感じることもある気がします。

今井 語り口というのであれば、「あの人はこういう人だった」と過去の人の紹介をされるのと、「あのとき自分はこうだった」と自分側の話をされるのではちょっと別の経験かなと思います。後者の場合は「あなたの話ね」と思って不愉快には感じない…。

田代 ある人の過去は、今私が好きなその人を形づくってきた経験なんですよね。私と付き合うその人をつくってきたのは私ではないので、肯定した方がいいとは思うんですけれど、だからと言って過去に付き合った人を良かったなんて言われても、私を見てほしいと思います。実際のその人の経験と、それをその人がどのように語るかということは分けて考えられるのではないでしょうか?

平野 今仰ったことにはとても共感しますね。例えばある女性と僕が知り合ってデートして、スムーズに恋愛相手として心地良いなって思うようになるとすると、それは間違いなく、その人が過去に経験してきた恋愛がそうさせてるんですよね。

 だってやはり中学生や高校生くらいのときにデートをしようと言っても、お互いにぎこちなかったり、不用意なことで相手を傷つけたりするじゃないですか。恋愛経験が豊富なほど、人との付き合い方は洗練されていくと思うし、それが逆説的ですよね。僕は相手の過去の人には匿名な存在ではいてほしいですね。仄かにそういう過去は感じ取れますけれど、あんまり具体的に言われると…。

 あと、恋愛というものは年齢的なものによってかなり内容が違うと思うんですよね。小学生のときに抱くささやかな恋心もあれば、結婚を意識し始めたりとか、それも過ぎて逆にプラトニックな感じになったりする。愛自体の質が時期によって異なるから、相手の持っている過去の重みも、それがいつ問題になるのかに関わってくる。

田代 「愛に過去は必要なのだろうか」という問いに対して、過去は必要で、過去をまるごと愛すべきだとさっき言いましたけれど、でも人間は常に現在を新しく生きられるわけじゃないですか。例えば過去に一度してしまった悪いことを延々と引きずって、今を生きられないというような状況もあるけれど、人にはそこから脱皮するチャンスがいくらでもあるし、今日からでも新しい自分になろうとすることはできるはずなんです。だから、その人は新しく今を生きてるんだ、過去の彼と今の彼は別様に捉えられるんだという視点をどこかで持てば、何も過去をまるごと愛そうとする必要はないんですよね。

今井 それは先ほどのインタビューで、平野さんが「過去を一旦脇に置いて未来を考える」と仰っていたことの実践ですね。

平野 僕は、人が自分のことを何もかもさらけ出すということには反対なんです。言いたくないことは言わなくて良い。ただ愛が継続的なものだとすると、あるタイミングで、相手の過去を共有できると思う瞬間が来るのかもしれないという気がするんです。だから『ある男』の「X」にしても、結局奥さんに自分の過去を言わずに死んでしまうけれど、もし一緒にいて10年くらい経ったなら言えたかもしれないし、奥さんもその10年という積み重ねの後であれば、その人のいろんな面を十分知った上で、ネガティブな過去の話がその人の印象を押し潰してしまわないかもしれない。出会ってすぐは他の面の印象が脆弱ですから、ネガティブな印象に押し潰されてしまうこともあるけれど。

瀬尾 一緒に時を重ねることで、出会った瞬間までの過去は気にしないことができる。そうすると、出会ってからの時間がとても重要で、どうやって過去をつくっていくべきかが問題になってくる。

今井 過去というのは、出会い以降の?

瀬尾 そうです。

田代 でも、私たちは別に過去を作ろうと思って生きているわけではないですよね?

瀬尾 うーん、思い出を作るのが大事だと考える人はいますよね。

平野 確かに、「あの時あそこに行ったよね」みたいな共通の思い出をつくっていくことをとても大事にする人はいますね。

田代 なるほど。イベントや記念日の役割には、「語らえる過去をつくる」ということがあるかもしれない。語らえる過去は共有財産になって、関係を強固なものにしますよね。

平野 『透明な迷宮』という短編を書いたとき、「人はパーソナリティを愛するのか、それとも共有した逸話を愛するのか?」という問いを考えたんです。ドラマなんかでも、危ないところを助けてもらうだとか、出来事によって愛が芽生える場面がありますよね。もし助けてもらうというイベントがなかったら好きにならなかったのだとすると、人はエピソードの方を愛しているのではないかという気もして。

今井 とても面白い問いですね。私たちは誰かを愛するとき、一体何を愛しているんでしょう?「愛に過去は必要なのか?」を「人は誰かを愛するとき、その人とのエピソードを愛しているのか?」と問い変えてみると、ぐっと考えやすくなる気がします。

田代 もしエピソードを愛しているのだとすると、自分が思い描いていた物語が実は全く違う事実によって成り立っていたということを知ってしまったら、愛が一瞬にして消えることになりますよね。一方で︑パーソナリティを愛しているとしても、その人から聞いていたエピソードがすべて嘘だったとしたら、「なんだ嘘だったんだ」では済ませられないですよね。

平野 「嘘をつくような人」というパーソナリティに変化してしまいますからね。不信感が芽生えるというか。

今井 そもそも、エピソードなしでパーソナリティへの愛が育まれることって可能なのでしょうか?エピソードはパーソナリティを知るためのメディアだという気がします。

田代 パーソナリティへの愛が先にあるから、なんでもない過去をエピソード化しようとしてしまうんだと考えることもできますよね。

今井・田代 …ところで、「パーソナリティを愛する」ってどういうことですか?

平野 すごい、見事に声が揃った(笑)

哲学対話はオープンエンド。対話の時間が終わっても哲学は続きます。愛にとって、過去とは何だろう?みなさんもぜひ一緒に考えてみてください。


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