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遠くの国

昨年の今ごろは大河ドラマからリタイアしていた。
鎌倉殿に没入しすぎて期待値が上がり切っていたところに来た家康。
すでに3話目くらいから見続けようという気持ちが萎えていて、えびすくいをシラーっとした気持ちで眺めるうち、今年はもういいか、となった。
そこから10か月。
ややクールダウンして変に期待していなかったから、とは思わないが、今年の大河ドラマは面白い。
毎回45分があっという間だ。
短い予告に描かれるさらなる悲劇に慄きながら一週間を待つ。
来週が待ち遠しい、というのは健やかな感情だな、としみじみ思う。

「遠くの国」というのはとてもいいタイトルだ。
その「国」とは何のアイロニーなのかという考察は、私などよりもっと詳細にかつ深くなされている方が多いのでそちらに譲る。
私がとてもいいな、と感じるのは「遠い国」ではない、というところ。

「遠い国」ではない。
「遠くの国」

どこかで読んだのだが、「遠い国」だと、遠いという事実に関心があり、「遠くの国」だと、国のほうにより意識がフォーカスされているのだそうだ。

ただ単に遠いというだけではない、たやすく行くことができない、できれば行きたくない、行ったら戻っては来れない。
その人とはもう二度と会えない。
それが「遠くの国」

最初それは、いまの閉塞的な状況から枷のない自由へと飛び出す先の「希望の地」のように語られていた。
海があって、面倒くさい柵もなく、新たな出発となるような遠い国。

なのに、夢見た新天地は三途の川向こうにあり、賽の河原で渡し賃を用立てたのは、一度は兄のように思った人だった。
遠くの国に行かれたのでは、もうキャッチボールもできない。
あのとき、ボールはどちらの手に渡って終わったんだったか。

直秀は籠から出ることができた鳥だったかもしれない。
否応なくこの地に繋ぎ止められて逃げられない三郎とまひろには、自分のせいで人を死なせたという昏い絆があるだけ。
ふたりの「遠くの国」はどこにあるのだろう。


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