見出し画像

どこかにある曲

その練習曲は全然難しく感じなかった。
わりとすぐ弾けるようになって、何度も弾いたからかもしれない。
でも、それだけではない、いろいろなことを思い出す曲だった。

その曲の揺れるようなリズムが、古い記憶をいつもチクチク刺していた。
なんだっけ?と弾くたびに考えていたのだけど、それが30年くらい前のことに結びついたとき、ただの短い練習曲が特別な曲になった。

上の子が生まれてしばらくは、具合が悪くてほとんど寝ているような状態だった。
母が手伝いに来てくれていたけど、それも一ヶ月くらいが限界で、母が帰ったあとはフラフラしながら子どもの世話をしていた。
世話が嫌なのではなかった。ただただ体がつらかった。
そうやって泣いている子を抱っこしながら揺らしていたリズムが、その練習曲に感じたリズムと全く同じだったことに、ある時ふっと気づいた。

その頃のすごくしんどくて、やるせない気持ち。
片腕にすっぽりと収まる小ささと、軽さと、重み。
赤ちゃんからはいつも独特の甘い香りがしていた。
そのときはつらい気持ちのほうが少し勝っていたけど、いま思えばやはりそれは幸せとしかいいようがなった。

その曲を弾くといつも思い出す、というより思い出される。
赤ちゃんの重さや、香りや、温かさ。
何か歌ってあげる元気もなくて、抱っこしながらただ黙って揺れていた自分。
たった数十秒の曲なのに、一瞬で30年前に戻れる。
特別な曲なのだった。

ことあるごとに「ショパンのノクターン20番が弾けるようになりたい」と言ってきたのだけど、最近はそこまで強く希望していないように感じる。
もちろん、弾けるようになれたら嬉しいけど、目の前のただの練習曲にこんなに心揺さぶられるなら、もう少し広くいろんな曲を知りたいと思う。
自分の中の忘れていた何か、新たに掘り起こす何か、まだ見知らぬ何かに光を当てる曲が、きっとどこかにある。
そんな曲に出会いたい。

読んでくださってありがとうございます。よろしければコメントもお気軽にお願いいたします。