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真の「国民的」作曲家、古関裕而

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は「公演時間が短いのでトイレも安心!」大好評大人のコンサートに絡めて古関裕而特集!

画像1古関裕而(1950年代に発売されたブロマイド写真)

1964年10月10日、東京千駄ヶ谷にあった国立霞ヶ丘競技場に東京オリンピックの開会式の入場行進曲「東京オリンピックマーチ」が高らかに鳴り響いた。開会式直前まで天候も怪しく心配されたが、開会式に合わせて天候は回復、秋らしい晴天となった。10月10日は天候が晴れになることが多いとされる「晴れの特異日」であるが、まさに面目躍如といったところだろうか。開会式では團伊玖磨の作曲による「オリンピック序曲」や黛敏郎の作による「式典音楽」が披露された。黛の作品をバックにして昭和天皇が入場した。そして、満を持して古関のマーチが各国選手団入場に際し演奏されたのだ。

古関のマーチは堂々たる作風で、楽曲を初めて耳にした世界各国の人々は「あのマーチの作曲者は誰か?」と話題になったそうである。古関裕而は我が国では押しも押されぬビッグネームであったのだが、流行歌の世界で一世を風靡していたという理由もあり、世界の音楽関係者にとっては「知られざる」作曲家だったのであろう。

私にとって古関裕而という人物を知ったのは、小学生の頃に民放テレビで日曜20時に放送されていた「オールスター家族対抗歌合戦」である。近江敏郎、ダン池田らとともに審査員を務めていた好好爺、審査委員長をしていた姿である。その頃は古関裕而がいかに凄い人物であったかということは全く知らず、テレビに出ている「審査委員長のおじいさん」程度のものであった。


ご存知のように2020年のN H K朝の連続ドラマ「エール!」は古関裕而夫妻の物語である。ドラマを視聴した方は古関裕而の生涯や業績について知ることができたであろう。多少のドラマ的脚色はあるにせよ、古関の代表的な作品やそのエピソードについてはしっかり網羅されている。戦前は流行歌の作曲を、戦時中は戦時歌謡、軍歌、そして戦後は作家菊田一夫とのゴーデンコンビで愛唱歌やラジオドラマ、劇音楽、放送音楽、ミュージカルなど幅広いジャンルで多くの作品を残した。堂々たる作風からか、スポーツ関係の作曲も多く、高校野球でお馴染みの「栄冠は君に輝く」、N HKの「スポーツショー行進曲」、阪神タイガース応援歌「六甲おろし」、読売巨人軍「闘魂込めて」、早稲田大学応援歌「紺碧の空」など枚挙にいとまがない。私の母校中央大学の「あゝ中央の若き日に」も古関の作だ。大学生の折に所属していた吹奏楽部は体育会の流れもあったのか、強化合宿の朝の体操の際、校歌とともにこの応援歌を斉唱するという前時代的な「風習」があった。私を含め、この「古関メロディ」のある部分の音程が定かではなく、ぼんやりと適当に歌っていたことを懐かしく思い出すが、古関に対して随分と失礼なことであったと反省しきりである。


古関裕而は福島県福島市の老舗呉服店の長男として生まれ、幼少期は両親の愛のもと「老舗のおぼっちゃま」として育った。父親の蓄音器で吹奏楽などの音楽に親しみ、小学校の教師が音楽教育に熱心であったため古関も音楽に興味を持ち、楽譜を購入し、山田耕筰の作曲法の書籍を読み耽り、作曲することに喜びを覚えた。高校は商業高校に進学したが、高校時代に家業の呉服店が倒産してしまう。そのような困難な時期にあっても音楽への情熱は捨てがたく、ハーモニカオーケストラに所属して演奏や作編曲をし、レコード鑑賞会「レコードコンサート」にも足繁く通ったそうだ。そのレコード鑑賞サークルの名は「火の鳥の会」というもので、ストラヴィンスキーの作品や、リムスキー=コルサコフ、ドビュッシーなどの作品に触れたことが、のちの古関の作曲に大きな影響を与えたようである。日本クラシック音楽の巨人、伊福部昭もストラヴィンスキーの音楽に多大な影響を受けたというから、当時のストラヴィンスキーの影響力の大きさを垣間見ることができよう。また、この2人が地方出身者であり、なおかつ音楽学校に学んでいないという共通点があるのも興味深い。また、後述するが海外の音楽コンクールをきっかけにして「日本よりも海外から先に認められた日本人」という共通項があることも非常に興味深い事実と言えよう。

高校卒業後、音楽への未練を抱いたままで伯父が頭取を務める銀行に就職する。しかし、音楽への情熱は強くなるばかりで、自作を山田耕筰に送ったりと柔和な表情とは裏腹に積極的な一面も見られる。山田からは「頑張れ!」といったような返事が返ってきたようで、古関は大いに喜んだそうである。また、仙台在住の音楽家、
金須嘉之進(きす・よしのしん)に音楽理論を学んだ時期もあった。金須はロシア正教会の信徒であり、東京お茶の水にあるニコライ堂の聖歌隊の指導もした人物である。ロシアに留学し、サンクトペテルブルクにおいてリムスキー=コルサコフに師事した経歴を持ち、その意味では古関は「リムスキー=コルサコフの孫弟子」ともいえる。

画像2リムスキー=コルサコフ(1897)Serge Lachinov
画像1ニコライ堂 1891


銀行員時代にイギリスの音楽出版社「チェスター社」が発行する雑誌を購読していた古関は「国際現代音楽協会」主催の作曲コンクールでの作品募集の記事を見て、コンクールに応募する。ストラヴィンスキーの「火の鳥」に触発された舞踏音楽「竹取物語」ほか数作で応募したようであるが、「竹取物語」が作品公募へのイギリス支部推薦作品となった。つまり作曲コンクール入賞作品にノミネートされたということだった。「ノミネート」がどのように歪曲されたのかは不明であるが、古関は「国際的コンクールで名だたる作曲家を抑えて2位入賞」と新聞に報じられる。多額の賞金、作品のロンドンでの初演、イギリスへの留学など、夢のような未来が待っていると思っていたが、世界恐慌の嵐が吹き荒れる時代であったのと、実際は入選ではなかったという事実もあってか、英国行きは水疱に帰してしまった。その辺の経緯については「古関裕而1929/30 かぐや姫はどこへ行った」(国分義司、ギボンズ京子/日本図書刊行会)に詳しく書かれている。興味のある方はご一読いただきたい。時期を同じくして、古関は結婚し家庭を持ったが、英国留学を理由に銀行を退職してしまっていた。自立した生活するために古関は上京する。そしてコロムビアの専属作曲家となったのである。その際、奇しくも「国際コンクール入賞」の新聞報道を読んだコロムビア顧問でもあった山田耕筰が「彼は見込みがある」と援護射撃をしてくれたおかげでその職を得たそうである。何度かの文通で山田が古関のことを記憶に留めていたのも影響していたのかもしれない。

画像1山田耕筰(1956年)


上京してから、古関は作曲家の菅原明朗に作曲に関わる理論を学んだりもしている。またリムスキー=コルサコフの音楽理論書で学んだりもしたようである。作曲家であり指揮者としても高名であった橋本國彦などとも交流をしていたそうで、菅原をして「古関裕而は深井四郎(作曲家)よりも才能があった」と言わしめたというエピソードは、古関がクラシック作曲家として本格的な技量を持っていたと窺い知るエピソードのひとつである。これらのエピソードを総合してみると、古関が流行歌の作曲家として「クラシック音楽」という強固な岩盤の上に立っていたことわかっていただけただろうか。

戦時中は「露英の歌」を端緒とする軍歌、戦時歌謡を多く作曲した。積極的な戦争支持者ではなかったとは思うのだが、これもまた「生きていくため」に必要な行為だったのだろう。政治的、社会的イデオロギーの支持、不支持に関わらず、古関は生きるため、そして大好きな音楽を作曲するために、要請にしたがって多くの作品を世に出した。結果的に古関の歌に送られて多くの若者が戦地に出征し、散っていったことを考えると複雑な気持ちになる。しかし、古関もその「罪の意識」に苛まれていたに違いない。その想いが、戦後の「鐘の鳴る丘」や「長崎の鐘」の音楽に繋がっているのだと思わずにはいられない。幸い戦犯として法廷に立つことはなかった。それは戦時中に音楽で戦意高揚をという国策の只中に置かれた山田耕筰も同様であった。山田の場合は日本音楽界の重鎮としての立場もあり、それはナチス政権下で帝国音楽院総裁の任にあったリヒャルト・シュトラウスの立ち位置に酷似している。

戦後の古関は、戦後復興や高度経済成長に沸く日本を象徴するような明るく力強い音楽、親しみやすい音楽を多く残した。特筆すべきは劇作家菊田一夫とのコンビで生み出された多くの作品である。NH Kラジオドラマ「君の名は」や「鐘の鳴る丘」などの国民的人気ドラマの音楽や、菊田が東宝の重役になったのちは演劇やミュージカルの作曲を手がけた。ミュージカルの作曲を古関は非常に熱心におこなったようである。森光子主演でロングラン公演されたことでも有名な「放浪記」も古関の音楽である。ミュージカルの音楽はオーケストラの編成も大きく、クラシック音楽的な要素も多いということもあり、古関がクラシック作曲家としての真骨頂を遺憾なく発揮できるジャンルであったといえる。しかし、その充実した創作も菊田の死により終焉を迎えた。菊田の葬儀での古関は憔悴しきっていたそうで、帰り際に「自分ももう終わったようなものだ」という趣旨の言葉をぽつりと呟いたそうである。その言葉通り、それ以来古関は目立った創作をしなくなってしまった。

画像1菊田一夫(1954年)朝日新聞社「アサヒグラフ」1954年9月29日号より


だが1980年に出版された古関の自伝「鐘よ、鳴り響け」(日本図書センター)の最終部分はこのような記述で終わっている。

『・・・私は期するところがあったので、とうとうつられて「乞う、ご期待です」と答えてしまった。』(古関裕而「鐘よ、鳴り響け」(日本図書センター)より引用)

古関の「期するところ」が何かは古関のみが知ることではあるが、それも長年連れ添ってきた妻、金子が同時期に死去したことによりその意欲が失われてしまったのであろうか。晩年に作曲家としての足跡を残していないとはいえ、古関の作品は数多くは今でも愛唱されている。古関作曲と認識されていない曲も数多くある。スコットランド民謡「蛍の光」を編曲した作品で、店舗の閉店の際によく流れる「別れのワルツ」は古関の作である。その際に古関は「ユージン・コスマン」というペンネームを使用している。お気づきと思うが、この名前は「コセキ・ユージ」をもじったものである。

古関作品は時代とともに、そしてその時代を生きた市井の人々とともにあった。この事実こそが古関を真の「国民的作曲家」であることを示すのではないだろうか。それがクラシック音楽を固い岩盤としてその上に立つ神殿であることは、クラシックとポピュラー音楽を結びつけ、互いの聴衆の距離を縮める一助になると信じて疑わない。

死の淵にあって古関が聴いていたのは、リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」であったそうである。青年期に「レコードコンサート」で耳にして感銘を受けた作品であり、仙台の作曲の師金須の師匠であり、上京した頃に熱心に学んだ音楽理論書の著者であるリムスキー=コルサコフとその作品は、作曲家古関裕而にとって生涯の松明であったのだろうか。


「オトの楽園」
岡田友弘(おかだともひろ)

1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻卒業。その後色々あって桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンもいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。

◆ 6/21大人のためのコンサートでは「東京オリンピック行進曲」「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」「闘魂込めて」など古関裕而の名作を一気に演奏します!

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