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離れて暮らす息子に会う。面会交流について。

今回は息子との面会交流について話そうと思う。


面会交流とは


まず、面会交流という言葉を聞いてもピンとこない人もたくさんいるのではないか。
私自身、離婚に関する書籍を読むまで、その言葉を知らなかった。

面会交流とは、離婚後に親権を持たない親が、離れて暮らす子どもと会うことをさす。
海外では共同親権という考え方が普及しており、離婚後も両親で共に子どもを育てていくという考えがあるが、日本では離婚時に親権者を両親のどちらかに定めなければならないという決まりがある。

親権の決め方について、詳しくはネット上で色々な解説を見ることもできるが、私から簡単に説明したいと思う。
親権で揉めた場合に、日本では基本的に何を基準に親権者を定めるのか。

まず、基本的に離婚事由は関係ない。つまり有責配偶者(離婚の主な原因をつくった側)だから親権を持てないといったことはない。
ただし、DVや育児放棄があった場合はもちろん親権者として不適格であることは言うまでもない。

子どもが大きくなれば、子どもの意志を尊重することもある。

しかし、子どもが小さい場合は、【今まで主に子どもの面倒を見ていたのはどちらか】ということが基準となる。
なるべく環境を変えないことが子どものためであるという考え方である。
つまり、今の日本の社会構成から考えると、基本的には母親が親権者となるケースが大半である。
海外では、ある一定期間子どもが母親と暮らす環境と父親と暮らす環境の、両方の生活をしてみて、より健やかに成長できると考えられる環境で暮らすという取り組みもあるが、日本ではそのような実践はまだない。

私が元妻と離婚をしたとき、子どもは二歳であった。
そのとき、元妻は育児休業中で専業主婦をしていて、私は働いていた。
この場合、妻が子どもにDVをしていたり、育児放棄をしていない限り、親権に関する裁判で私が勝つ可能性は限りなく0に近いのである。
このような経緯で、親権者は元妻となり、私は息子と離れて暮らすこととなった。



面会交流に関する取り決め(私の場合)


面会交流の頻度は、だいたい月に一回程度が妥当と考えられている。
もちろん元夫婦両者の合意があればもっと増えることも、減ることももちろんある。
私は元妻との取り決めで、月一回程度の面会交流とすることを決定した。
まだ息子が小さいため、最初は一回につき一時間程度の交流からスタートし、成長に応じて時間を延ばしていくことも決めた。
私と同じような境遇の人ならこの状況を想像することは容易いと思うが、そういった環境でない人にはなかなかイメージしずらいと思う。
しかし弁護士の方が言うには、私のパターンは割と一般的であるようだ。

上記の一般的と言われるパターンについて、この記事を読んだ皆様はどのようにお感じになられたでしょうか。

男性か女性か、既婚か独身か、置かれている立場によって、大きく意見が分かれるのではないでしょうか。
私自身、面会交流について数々の書籍を読んで調べましたし、その結果色んな立場からの意見も理解できるようになりました。


面会交流で感じること


まず最初に言いたいことがある。

もし自分と同じような境遇にあり
死ぬほど苦しい思いをしている
もしくは本当に死のうと思っている
そんな人がいたら、私はそういった人に寄り添いたいし、そういった人たちと共に、これからの人生を力強く生きていきたいと思っている。

このnoteにたどり着くということは、少なからずそういった思いを持っている人もいるのではないかと思っている。

久しぶりに息子に会ったとき、私には自分を責め続ける前に、相手を恨み続ける前に、やるべきことがあると思った。

それは、子どもに愛を伝え続けることだ。

そもそも、面会交流は誰のための権利なのか。
それは、子どもに会えない親のための権利ではなく、子どものための権利そのものなのだ。
つまり、私の権利ではなく、息子の権利だ。


では、息子にとっての何の権利か。
私に会う権利か。
いや、それも違う。

子どもには両親から愛される権利がある。
自分の生命を創造してくれた二人の存在から愛され続ける権利があり、愛されているという実感を持ち続ける権利がある。

だから、自分が子どもを愛していると思うのなら、どんな障壁を乗り越えてでも子どもに愛していると直接伝える義務がある。

しかし残念なことに、両親から愛されない子どもが世界のどこかにいることも重々承知である。
だからこそ、自分が子どものことを愛していると思うのなら、何があっても愛しているということを伝え続けなければならないと思う。

こんなことを書いている自分も、今でも自分を責め続け、今でも相手を恨み続けている。
それでも前を向こうとして、こうしてnoteを書いている。
しかしnoteを書いていたら、気がつくと涙が止まらなくなっている。

息子と会っているときも、うれしくて、悲しくて心の中がぐちゃぐちゃだった。
笑顔が止まらない、でも涙も止まらない。
息子と離れた後、いい大人がしばらく動けなかった。

それでも、前を向かなければならないと思えた。
一人の父親として、かっこよく生きないとと思えた。

なぜなら、しばらく会わなかっても自分のことをちゃんと覚えてくれていて、ちゃんとパパと呼んでくれて、離れ際にはあっちから抱きしめてくれた、そんな最高に素敵な息子に、これからも堂々と自信を持って一生愛を伝え続けるために。

息子を抱きしめたとき、自分の心の葛藤なんてどうでもいいと思った。
大切なのは、息子が自分からの愛をいっぱい受け取ることだ。


なぜこんな文章を書こうと思ったか


息子と離れて暮らすようになって、しばらくは本当に闇の世界に生きているようだった。
そのときに思ったのは、同じような境遇の人に出会いたい、もしくは話がしたいということだった。
とてもではないが、一人で切り替えれるような状態ではなかった。
しかし、こういったセンシティブな問題についての情報は画一的なものが多く、一人で抱え込んで苦しくなる一方だった。

そんな人のために、自分ができることをしたい、noteにはその発信力があるのではないかと考えた。
まだnoteを始めたばかりでそんな使い方ができるのかもよく分かっていないが、今なお苦しい思いをしている人がこのnoteを読んで、少しでも前を向けるようになることを願っています。

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