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ダラけることの、大切さ。

 こんばんは、最近、日常生活の中で発見をしつつも、その報告を書きながらやる気を失って記事を何本もお蔵入りさせている、冬丸です。今回は、きちんと最後まで書き切れるように頑張ろう。
……というようなことを書きながら、しかし本記事のテーマは、がんばらないことである。より具体的には、アンチハッスル、ハッスルカルチャーについて、を書いていきたい。

参考記事:
"Why Are Young People Pretending to Love Work?". NYT. 01/26/2019, NYT. https://www.nytimes.com/2019/01/26/business/against-hustle-culture-rise-and-grind-tgim.html, 05/22/2022.


What is Hustle culture?

"Welcome to hustle culture. It is obsessed with striving, relentlessly positive, devoid of humor, and — once you notice it — impossible to escape."

「ハッスル文化へようこそ!それは、飢えていること、絶え間なくポジティブでいること、ユーモアの欠片もないことに取り憑かれています。そして、_あなたがそれに気づいた頃には_逃げることは不可能なのです」

 ハッスルカルチャーとは、ミレニアム世代を中心に広まっていると言われる、一種の文化だ。日夜(それこそ一週間で80時間以上、果てには100時間の労働が賞賛されている)身を粉にして働くことは素晴らしいこと、仕事以外のたった少しの時間でも常に何か意味のあることをすべきという強迫観念、働いていない状態への罪悪感、そしてそのことをSNSで発信する(#TGIM!)仕草が、その特徴としてあげられている。
 これは日本の社会からはほど遠い話なのだろうか?日本にも「サービス残業」と呼ばれる奇妙なモノがあるけれど、それとは少し性質が違う。このハッスルカルチャーの恐ろしい点は、これがあたかも「労働者自ら望んで受け入れている」ように思わせられているところだ。身の回りにもないだろうか?
 たとえば、先にあげた"#TGIM(Thank God It's Monday)"、「ありがとう神サマ、今日は月曜日だ!」仕事が好きなことは良いことかもしれないが……。WeWorkというアメリカ発シェアオフィス会社では、"Don't stop when you're tired, stop when you are done."「疲れたときにやめるな、終わったらやめろ」という言葉がドリンクサーバーのキュウリに刻まれているらしい。いやぁ、テンションがあがりますね!(あがらない)
 うーん、見聞き覚えがありすぎる。まぁ、詳細な例については最後に載せた記事を読んでください。次にすすむ。

 これらの習慣を一概に悪いものとして否定することはできないが、本来ならばその労働は賃金を受け取るべきはずのものだ。それを要求する権利くらいはある。でも、そうはしない。
 彼らにとって、そうしたノリで労働をすることは、彼ら自身の肯定につながり、無茶な労働を推進する(フリをしている)成功した起業家たちと自信を同化させ、不安を解消してくれるツールとなっている。だから進んでハッスルする。そうワタシは考える。喜んで、自己肯定感なるものをあげることにつながる(らしい)、ハッスルカルチャーを受け入れる。
 本心で、仕事を純粋に楽しんでいる、生きがいと感じているのならば、良いと思う。労働が嫌いなワタシとは対極にいる稀有な方々もいるのだろう。でも本当はそうではないかもしれない。先に書いたように、弱さに漬け込まれ、それを利用され、搾取されている可能性が否めないのだ。だとすれば、それは正すべきことではないだろうか。

 では一体誰に利用されているのか?それは資本家や企業主たちだ。いま何かと話題になっておるイーロン・マスクはその筆頭にあげることができる、と記事は書いている。彼らは、労働者たちを煽り、働くことは素晴らしいことだと、それに全てを捧げることこそが至高なのだと、高らかに宣言する。一種の洗脳。
 すると、自らの会社にとって、とても都合の良い、従順で、労働を愛する(それもハードであればあるだけ歓喜する)労働力が一人増える。企業主の心、そこには罪悪感なんてない。だって、一定の賃金をきちんと支払いさえすれば、それ以上の働きを喜んでしてくれるのだから。
 しかしそれは「搾取」と呼ばれるものと、何も変わらないのではないか。ただ、搾取されている側は、そうとは知らず、幸せである(ように見せかけている)。そして、いつしかその仮面が、その顔に張り付いて、本心なのだと錯覚する。

問題の原因

 この「ハッスルカルチャー」がその存在を許されてしまっている現状の理由を、ワタシは人々の人生への肯定感への欠如に見出した。

"meaningless life" 、「何も成し遂げられない者は何者でもない」

 そんな、凡人を否定する言葉が、社会には溢れている。若者たちは、「名前」を求め、それに執着する。
 その元になる「価値観」を発信しているのは、おしなべて運良く強者になれた者たちだ。彼らは、名前や肩書きやお金を持つことを幸せなのだと吹聴し、名誉を持たないものを不幸だと糾弾する。

 強者に憧れてしまう気持ちも分からない訳ではない。しかし、誰しもが強者になれるわけでもない(強者が生まれるということは弱者もまたいるのである)社会を目指し肯定する、それは善きことなのか。そこには、自分が絶対的な強者になれるという自負がある。自信があることは良いことだ。しかし、その後ろは崖っぷちの状態で、自分が転落することへの不安と、常に隣り合わせで生きている。そのような人生を送りたいだろうか。

最近のハッスルカルチャー

 このハッスルは、最近は、仕事だけではなく、学生生活の中にも入り込んでいるように思われる。Z世代は愛想を尽かした……と言われるようなこともあるが、一部の界隈では脈々と受け継がれている。

 その一端が垣間見れる、「ガクチカ」、「ボランティア」、「就活」、「やりがい」……そういった言葉を出す人々が近づいてきたら、一歩引いてみるべきかもしれない。彼らは、本当にあなたを思い、その言葉を発しているのか?その言葉の裏に、他の意図を読み取ることはできないだろうか?

感想

 とは言いつつ、ワタシ自身の中にも未だハッスルカルチャーが燻っていることは否定できないのかもしれない。
 しかし、徐々に毒抜きは進んでいる。明確な転機となった日は、ツイッターのbioにダラダラ書きつけていた事柄を削除して、「やりたいことをやる」と正直になったときだったのだろう。正しくは、それすらも「〜できたらいいなぁ」という、怠けきった態度ではあるが。

 昨年片足を突っ込んでいた、まさに「ワカモノガナニカヤッタルデ」界隈は、振り返ると、ハッスルカルチャーが残存しているような場所に思える。本質が「めんどくさがりで飽き性」のワタシは幸運にも一年で音を上げて逃げ出してきたが、その荒波にのまれ苦しむ若い子たちを見てきた。そしてそれを無責任に煽る大人や起業家たちも。
 別に良いのだ、楽しくやっていることならば。でも、明らかに不当なプレッシャーを受け、そしてそれが「素晴らしこと」だと偽られ、抜け出せなくなっている。本当に酷いと思う。

 同志たちに呼びかける。

 若者よ、今こそサボろう!!


 安冨先生も言っている。人々が無理をして頑張りすぎたから、バブルは起こった。おかしなことに直面したら、それはサボるべきなのだ。それが唯一、暴走した社会のシステムを止める手立てなのだから。



2022/05/22 Sonntag 

横浜にて

△〇


 あぁ、サボろうとは言うが、やることはやるんだ。日々考え、議論することは、止めてはいけない。

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