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シン・エヴァンゲリオンの個人的な感想

シン・エヴァンゲリオンに関する個人的な感想。
ネット上での批評を少し見ると賛否両論あるようだが、自分の中に湧き出てきたものがあったので文章にまとめてみようと思う。基本的に視聴を前提として記載しているのでネタバレを避けたいかたはご遠慮ください。

・これまでの個人的なエヴァンゲリオン経験

 勝手ながらシン・エヴァンゲリオンの評価はそれまでのエヴァンゲリオンとどう接してきたかに対してに依存すると考えたので長々と自分語りをしていこうと思う。つらつらと書くが要は熱心なエヴァンゲリオンファンではないということを書いていますので飛ばしてくださっても問題ないです。
 そもそも自分自身のエヴァンゲリオンの経歴としてはリアルタイムではなく、後追いで見ていた。記憶が定かではないが実家で入っていたWOWOWの再放送を中学生くらいに見たのだと思う。テレビ版の正直な感想は好きではなかった。というよりも嫌いだった。エンディングに関して「あれを哲学的と言ってしまえば何でもありじゃないか!」というものだった。その後、劇場版を見てやはり何一つ理解できず、その時の一般的な「哲学的」という評価に対してとても強い嫌悪感を抱き、今で言われているステルスマーケティングに多くの人が騙されているという思い込みをしていた。
 また、個人のアニメの経験としてエヴァの前にガンダムを見ていたことが、相対的にエヴァの評価を厳しくしたことがあると考えられる。機動戦士ガンダムの劇場版を見て感動し、漫画版のZガンダムのラストでこんな終わり方があるのかと衝撃を受け、いわゆる富野信者に片足を突っ込んでいた。(この時間を超越した経験のせいでその後、個人的にはさほど間を空けずに始まったガンダムSEEDがファーストガンダムと設定が似たようにしか見えなかった。)
ロボットアニメの金字塔のガンダムと比較するとエヴァはやはり異色であり、戦争という明確なテーマがあったガンダムと違い、エヴァは何をテーマとしているのか理解出来なかった。そのせいでエヴァは大きなステルスマーケティングを仕掛けた悪の存在だと思い込み、庵野監督はその親玉という認識が出来上がってしまっていた。
 そして時は経ち新劇場版の発表となる。世間は盛り上がっていたが個人的には「またもやも大いなるステルスマーケティングが仕掛けられている…」といった思いでしかなく見るつもりは無かったし、実際に見なかった。
 しかしながらこの時期から庵野監督のインタビュー記事や書き起こしがネットニュースで読めるようになってくる。そこで読んだ物の一つに「エヴァは哲学的ではなく衒学的だ」というものがあった。そこで設定にあまり意味がないこと、のめりこんだ観客に水をぶっかけようとした旧劇場版のエンディングであったことなどを目にし、監督ならではの苦悩をこの辺りでようやく理解した。その後、破が公開されるがやはり見ない。友人からのエンタメに徹しているという評判を聞き「へ~本格的に方向転換したんだなぁ~」といったぐらいの感想だった。
 そしてQの公開の前に庵野監督に対しての個人的な思想転換が訪れる。東京都近代美術館で催された特撮博物館である。この展示が素晴らしくただただ感動し、「ほんとおに!いままで!すみませんでしたぁ!!」と勝手ながらの今までの誤解を土下座して謝りたい気持ちでいっぱいになっていた。この時から庵野監督をとても好意的に捉えるようになった。
 とうとうQの公開、庵野監督のことがとても気になっていたが、それまでのシリーズを見ていなかったこともあり、見ようとは思わなかった。しかし評判だけは伝わってくる。「エヴァがまたやった」。前回の破でエンタメに徹したと思っていたが、なぜ戻してしまったのか、気にはなっていたがそれまでエヴァを認めてこなかったつまらないプライドが邪魔したのかもしれない、まだ見れなかった。だが、この辺りで録画しておいた旧劇場版を見返し始める。用語などに深い意味はないということなので何も分からないものを気にせずに見直すとエヴァはとても面白いと感じ始めた。アニメーションのキレ、テンポや音楽とのコンビネーションなどがとても心地いいものだと。
 しばらく時がたち、東宝が日本で再度ゴジラを作るという発表が行われる。この時の僕の正直な感想は「やめとけって…」というものだった。個人的にハリウッドの2013ゴジラがとても好きだったのでもうあれ以上の映画は日本では作られないだろうと思っていた。しょぼいのだったら作らなくていいだろうと。
 しかしながらその後、制作スタッフが発表された時に驚いた。庵野秀明と樋口真嗣のコンビで制作されると知ったとき、本当にワクワクした。あの特撮博物展をやった人たちだ…この人たちならきっと面白い映画になるだろう。というよりもこれで無理だったら日本の特撮映画に今後見たくなるものは無いとまで考えていた。ゴジラ制作に関し、期待と同時に不安もやはりあった。エヴァQでの評判、そもそもエヴァ止めてゴジラやっていいの?といった純粋な疑問など。
 そしてシン・ゴジラの公開。初めて劇場で見る庵野秀明作品。前情報が全然公開されないなか、とんでもない傑作だという噂だけはやや聞こえてくる。この時、仕事でとても疲弊しており、勢いでシン・ゴジラを見ようとしたが、癒しを求めるならファインディング・ドリーにしておいた方がよかったかもとチケットを買ったあとで少し思ったりもした。結果、シン・ゴジラはこちらの一方的な不安を粉々に吹き飛ばすほどの傑作だった。初代ゴジラでもなくVSシリーズでもなく、新しい怪獣映画であり、ゴジラであった。ゴジラそのものも素晴らしいが役者達の演技、さらに3.11の後の世界に期待を伝えるテーマ、本当に素晴らしい映画だった。(ラストの頭を下げて微動だにしない平泉成でボロボロ泣いていた。)
 このシン・ゴジラで明確に庵野秀明ファンになっていた。いままでのエヴァの呪縛から解き放たれ、新しい映画を作ってくれるだろうという期待を抱くようになった。
 そして、とうとうシン・エヴァンゲリオンへとたどり着く。今回は見なければ。庵野秀明がエヴァを打ち倒す所を、という気概でいた。この間にも旧ガイナックスとの確執というか億単位での金銭トラブルなどもネットニュースになり、エヴァンゲリオンに対する印象が庵野秀明氏への呪縛という印象が強くなる。
 そして2020年、コロナ禍もあり、YouTubeで公開された新劇場版、序、破、Qをとうとう初視聴する。(つまり、お金を出して見たのはシン・エヴァンゲリオンのみ)

以下、簡易的な感想。
序…テレビ版をキレイに作り直したな~
破…本当にシンジ君が熱血漢になっとる…
Q…ひどいひどいと言われてたけど、個人的に一番エヴァっぽいなぁと感じつつ、新劇版では一番好き。ヴンダーがいい。

そして、2度の延長を重ね、シン・エヴァンゲリオンが公開された。

・シン・エヴァンゲリオンの感想

見た直後の感想:監督、スタッフの皆様、本当にお疲れ様でした。エヴァの物語が繰り返されないことを期待しています。シン・ウルトラマン期待しています。

 最初に批判的なことを記載するが、個人的に後半の最終決戦は悪い意味で陳腐にまとめて終わらせたと感じていた。父と息子の対立というとても王道な筋として物語を進められていたのと同時に、(恐らく意味が大して無い)情報量の多い用語、旧劇にあった前衛的なアニメ表現、なにかエヴァらしさを殊更に(わざとらしく)強調されているように感じていた。シンジとゲンドウの和解後の劇であるというメタ表現から現実への帰還に関しても旧劇での現実に返そうとしたことの続きにも感じられた。一方で序での最後、カヲル君が月で目覚めていたシーンの伏線が回収されていたのが驚いた。(その他伏線が回収されていた気もするが詳細には覚えていない)
 繰り返しの物語という大筋は「序」ころから決まっていたのだろう。「序」の製作時の所信表明からも見受けられる。感じていた陳腐さというのも所信表明にある目指していたエンターテインメントなのだろう。
 
 エヴァンゲリオンの評価を出すためには、観客自身がエヴァンゲリオンをどうとらえているかということが大事になる。人によって捉え方が本当に多様であるのがエヴァンゲリオンの特徴でもあると考えている。世界を滅ぼそうとする使徒と戦うロボットアニメであり、レイとアスカのどっちが好きかと語りたくなるキャラのアニメであり、分断された情報から世界観を考察するアニメであり、庵野監督の私小説と捉えられるアニメでもある。
 自分自身としては庵野監督の私小説な捉え方が主であろう。エヴァンゲリオンと庵野監督に対する私見を長々と書き連ねたのは、この認識が評価に影響を与えるからである。作品の外側を考慮し、その思いに応じて賛否が分かれてくる。
 内容のみで語るのであれば前述したように陳腐な内容になってしまったなという否定的な評価でもあった。しかしながら庵野氏に対する認識が徐々に前向きになっていた私にとっては今回のシン・エヴァンゲリオンは完結したことの感慨深さが強い印象が残っていた。その後、ネットでのレビュー記事やtwitterでの感想などで内容を振り返るにつれ、じわじわと否定的な陳腐さに関しても捉え方が変化していった。

 伝えるということは簡単なようで難しく、旧劇場版で正しく伝えられなかったメッセージを新劇場版で新たに伝えなおそうとしていたと見受けられる。旧劇場版に感じられるニヒルさ、水をぶっかけて力尽くで伝えようとしていたのをを改めて、まっすぐに伝えようとしていたのであろうと考えている。
 私自身がシン・エヴァンゲリオンで感じた陳腐さはこのまっすぐに伝えるという姿勢であったのであろう。相当な映画通でもある庵野監督がなぜ改めて父と息子の対立といったような陳腐な、ベタで王道なテーマに捉えなおしたのか。
 旧劇場版はうがった、捻くれたサブカルチャーの代表のような作品であったと認識していた。そしてエヴァンゲリオンの私小説な側面から庵野監督自身もそのような人間なのだろうと思い込んでいた。(ナディアやトップを狙えなどを見ていたらここの認識は変わっていたかもしれない。)
 しかしながら、実際には特撮博物館、シンゴジラから感じていたものはニヒルではなく実直な人柄が根っこにはあったのであろう。庵野監督の人間性を肯定しているように書いているが、安野モヨコ氏の監督不届から読みとれる変人といって差支えない日常、また制作時にスタッフともめ事が多々シンゴジラでもあったようで、決して庵野監督がいい人間だと決めつけたいわけではない。旧劇場版から見られる、捻くれた人、また何かを達観した仙人では無く、熱心に映像が好きな人間であろうと言いたいのである。
 まっすぐ伝えるためには劇中のシンジとゲンドウのように面と向かいあい、そして素直な思いを述べる必要がある。とても当たり前のことではあるが大事である。さらに言えばこれ以上の方法が無いのかもしれない。この当たり前のことを仰々しく映画で描いているのであれば当然、陳腐に感じるものである。さらに付け加えれば、シンジの成長譚としての物語は14歳から大人になる物語であり、自分のように30歳を過ぎたいっぱしの大人からすればつまらなく感じるのが適切な感想だと思っている。
 伝えるということに話を戻す。旧劇場版で伝わらなかったメッセージ改めて伝えるのであるから、新劇版でも似通った内容にもなってくるのであろう。どちらも最終的には、現実に戻るべきだよ、という終わり方であったが、旧劇版では酔っぱらった迷惑な客に居酒屋の店主が水をぶっかけて塩を撒くような力尽くでの追い出し方だったのに対し、シン・エヴァンゲリオンでは老舗の女将のように優しく、呼びよせたタクシーに乗せているようなとても丁寧な姿勢を感じていた。

 物語から現実に戻るべき、ということがtwitterの感想などを見ていまいち伝わっていないように感じていた。
 あくまでの私見であるが、ラストのガイウスの槍(用語に関してはうる覚えです)で作り出されたエヴァの無い世界とは、まさしく2021年の今もコロナ禍でなにかと苦しい現実世界である。シンジがどうなったとか他のキャラがどうなったとかサードインパクトがどうなったといった話は映画の世界の物語であり、そういった物語の無い、現実に戻ろうという話である(と理解している)。
 少し余談、エヴァに乗りたくないとひたすらに言っていたシンジ君をあまり理解出来なかったが、この「エヴァに乗りたくない」というのを、「エヴァ(アニメ)を作りたくない」という庵野監督のに勝手に置き換えてみるとなかなか趣深いものがある。特にカラーを立ち上げてからは社長業としての経営と、旧ガイナックスとの確執を考えると相当な重圧であったこと、それと監督としての責任、監督というとにかく嫌われる役など、嫌なことも多かったのだろうなぁとも今では察することができる。責任感のある仕事って面倒くさくやりたくないと個人的には考えています。
 また別の余談、「ちゃんと現実も見ろよ」と明確に言ってくるの超大作のレディプレイヤー1でも個人的にはスピルバーグに心の中で土下座して謝り倒しています。
 さて、この物語から現実への離脱はテレビ版、旧劇版、新劇版と三度と語られることになる。シン・エヴァンゲリオンを見た直後は「結局、同じところに帰結するんだなぁ」と
感じていた。似た話を見させられればある程度不満を抱くだろう。個人的には今回は丁寧に描かれたと感じていた。しかしそう捉えていない人もいる。
 映画の楽しみ方は元来、観客の自由であり、どんなに提供側が明示したところでその通りにみる必要は全くない。個人的にアスカが誰誰とくっついたなどキャラの組み合わせで議論しているのが、これはこれで私自身は理解が難しく、エヴァンゲリオンという同じ作品の話をしているはずなのに互いに理解しあえていないように感じている。
 さらに言えば、恐らくシン・エヴァンゲリオンを素直に楽しんでいる人達は、そこまで物語にのめりこんでいないのかもしれない。エヴァンゲリオンが物語であるということは当たり前だし、アスカやレイは実在の人物ではなくアニメのキャラクターであり、現実と混同することはそもそもない。こちらも当たり前過ぎることを大仰に言われても、それはそれで伝わらないのであろう。
 
 シン・エヴァンゲリオンの感想のまとめに入ると、作品単体で見ると真っ当な話で完結した。しかしながら、それは「序」の時から意識されているものであり、なおかつ「Q」での方向転換を経た後であれば、真っ当な完結に持っていけたのは監督の手腕であるだろう。
 エヴァにとっての「真っ当」さ(前衛的な表現と、意味がよく分からない用語類)という部分にも配慮を忘れず、にエヴァらしいものを詰め込みつつ、なおかつ旧劇場版やテレビ版を絡め、なおかつシンジ自身の成長を経た完結ということを鑑みると、本当に素晴らしかったと感じている。
 勝手な想像でしかないが新劇場版は全編を通じてエヴァンゲリオンの陳腐化こそに目的があったのだろうと推察している。一番顕著なのが「破」であり、エヴァンゲリオンの特徴であった悩んでいる主人公がとても主体性のある分かりやすいヒロイックな主人公に変わっていた。今回のシン・エヴァンゲリオンでも、父と息子の対立という明解な、よくも悪くもベタな軸を中心に語られている。エヴァンゲリオンを王道にし陳腐化させ、さらに長年つき合わせた観客を物語から現実に返すという2つの役割が新劇版にあったと考えている。(こう記載しているが序の所信表明には新しい世代にアニメの面白さを伝えたかったとあったので旧劇場版からのファンに対してより、シンプルに若い世代に見てほしかったのかもしれない。)
 過大に神格化され、物語から抜け出せなくなったファンに対し、庵野監督は文字通り水をぶっかけるつもりで旧劇場版を完成させた。しかしながら必ずしも伝わらなかった部分もある。
 ヒットした作品が観客にとって過大に捉えられ、人生を良くも悪くも変えてしまうことはたまにある。スターウォーズにジョージルーカスが飲み込まれてしまったことや、個人的にはクリストファーノーランのダークナイトも過大に取られていたと考えている。このような現象に対して庵野監督なりの決着が今回のシン・エヴァンゲリオンであるように感じている。予告編のセリフでもある「全てに決着をつけるため」、庵野監督はエヴァを完結させた。
 今回の決着の着地点に目新しさは無いのかもしれないが、とても真摯なものを私は感じていた。

 シン・エヴァンゲリオンが面白い、つまらないといった軸で語られることに個人的に違和感があったのは、伝えることに関しての真摯さを強く感じていたからであろう。
 前述したが、エヴァンゲリオンは幸か不幸か、本当にさまざまな捉え方をされている。その全てのファンの期待に対して答えようとしていることに私は感動していたのだろう。

 今回、シン・エヴァンゲリオンで出てきた答えは30を過ぎた自分には必要では無かったかもしれない。しかしながら今回感じた真摯さに対して様々な思いを馳せることになった。
 元来、自分にとって映画とは何かを学ぶ機会であった。現実では出来ない経験、様々な状況の人たちの気持ち、そういったものを疑似体験するものであった。映画鑑賞後はいろいろと自分なりの考えというものを作り出していたものである。しかし、年齢を重ねたことなのか日々の生活が忙しくなったのか、しっかりと考えるような映画体験が減っていたように感じられる。今回のシン・エヴァンゲリオンでその時のような考えをまとめあげたいという思いに久しぶりなった。シン・ゴジラでもここまで強く思わなかった。
 エヴァンゲリオンという長い時間を頭のどこか片隅に置き続けたタイトルであり、私自身、熱心なファンでは決してないが、今回の真摯な思いに触れたことにより、このような長文の感想を書き進めているのである。
 
 人が人生を振り返る時というのは、卒業や人の別れなど、日常と思っていたもの失われるときに行われるだろう。今回のエヴァンゲリオンでは私自身では触れてからのおよそ17年間、テレビ版を見た人であれば25年間、新劇場版からの人でも12年間のという長い時間の人生があり、そのなかで過ぎ去った様々な思いがあるだろう。
 エヴァンゲリオンという作品が頭の片隅にあった人であればその時間はほとんどが10年以上の長い時間である。日々を追っていくとあまり変化していないと感じるかもしれないが、旧劇場版のシンジと新劇場版のシンジが変化しているように、振り返れば何かが変化をしているだろう。
 シン・エヴァンゲリオンで完結したことにより私は学生時代からの思いを振りかえることになった。このような映画体験はやはり他には無い。好き嫌いを問わずやはり稀有な作品である。

 シン・エヴァンゲリオンの鑑賞後に馳せた思いは、本当にみな何もかも懐かしく、旧劇場版からのシンジ君の変貌ぶりに、そんなに人間が好きになったのかと感心し、無事に完結を迎えたことをこんなに嬉しいことはないと思いました。
 私自身は這いつくばりながら歯を食いしばって現実を生きておりますが、残念ながらシンジ君にとってのマリのような存在はいません。特に他者に触れるのが怖いと思っているわけではないのですが孤独に現実を耐え忍んでいます。そのため時々は虚構に逃げることがあると思います。その際には素敵な世界を庵野秀明監督とスタジオカラーに提供していただけることを今後も楽しみにしております。


・感想あとがき 

 鑑賞し終えて1週間近くが経ち、映画の内容よりも終わってしまったというどこかはかない寂しさというのがいまも残り続けている。
 鑑賞後の率直な感想はいい悪いではなく終わって良かったというものであり、満足はしていたが「ぼんやりとした満足」という状態だった。ネット上でのレビューなどシン・エヴァのことを触れるにつれ、自分自身のもやもやが増していく思いがあり、このような文章をつらつらと定まった内容も無く書き連ねてみた。結果的に自分の中で明文化できたのは、真摯さ、ということだろう。否定的な意見も肯定的な意見もなにかぴったりしなかったため、この考えにたどり着き、自分自身のシン・エヴァに決着をつけることが出来て満足している。
 本来は自分なりの考察を書き連ねるつもりだったが、ひたすらな感想になっていた。途中書こうと思っていたことが迷走し、まさしく「Q」のような状態になっていたが、結果的に自分の考えをまとめられたと感じている。
 また映像的な観点からまったく論じなかったが、1回しか見ていないことに加えて何か違う気がしていた。自分のなかのもやもやと適していなかったからだろうが「序」の所信表明にある「閉じて停滞した現代には技術論ではなく、志を示すことが大切だと思います。」ということをなんとなく感じていたのかもしれない。
 また、具体的な内容に関してあまり触れられなかったが、ここら辺がニワカファンなのかもしれない。
 17年前にさんざんステマであるんじゃないかという疑念を抱いていた自分が、今となってはそのように疑われる行為を率先して行っていることに17年の月日と人間のあての無さをかみしめている。
 また、新劇場版の序破Qを全く間を空けず、新劇場版もさほど待たずに見た人間であり、そもそもエヴァに対してそこまで思い入れが無かった人間の感想は恐らく特殊なものであり、実際に長期間待ち続けた思いは理解できていないだろう。しかしながらその状態でもなにか感想を書きたいという気持ちになったのも事実であり、なにか一言、一言のつもりで長文を言いたくなる、1時間ぐらいでまとめるつもりが土日をまたいで使うってしまうエヴァンゲリオンの凄さを実感している。

 このような長文駄文を最後まで読んだ人がいらっしゃるならありがとうございました。普段なら映画の感想をわざわざオープンにすることはないですが、エヴァの面白さは各々のあーでもないこーでもないを話し合うことでもあると思い、公開をしようと考えた次第であります。
 今回の感想文は熱心なファンでもない個人の感想であり、正確な考察なものではありません。あくまでもこういう感想があるのだなぁという程度に見て頂ければと幸いです。

#シン・エヴァンゲリオン劇場版

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