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そろそろ「論語濃度」を薄めませんか?

 先日の投稿でも、古典に関心を持った話をしました。中でも、中国古代思想は、戦争ばかりの世の中にあって、すごく濃密で多様な思想の世界が花開いていたと感じ入るばかりです。
 そんな中国古典思想の中で、私がどうしても深入りできないものがあります。おそらく、諸子百家の中でも最も有名で、現在に至るまで影響を及ぼしているであろう、「孔子」です。

もちろん、同意できるところもあるよ。

 孔子の有名なことばといえば、漢文でも習う以下のものでしょうか。

子曰く、学んで時に之を習う、亦た説ばしからずや。朋あり遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍みず、亦た君子ならずや。

『論語』学而編

 論語自体は、孔子が話したことを弟子たちがまとめ上げたもので、断片的な発言集としての色彩が濃いため、体系だってのものではないけれど、「礼節の大事さ」「君子の徳」「親孝行」など、現代でも美徳とされる点にかなり影響を及ぼしている気がするし、その通りだと思うことも多いと思います。(そういう意味で、本稿は決して孔子に難癖をつけるものではありません)。

権力者側に都合のよい朱子学

 日本の歴史の中で、論語に端を発する儒学が大切にされた時代が江戸時代です。政治の世界では、「正徳の治」で知られる新井白石なんかが有名ですが、儒学として「朱子学」が隆盛を極めました。
 「朱子学」の特徴一つは、君臣の別をはっきりさせること。平たく言うと、上に対しては逆らってはならず、置かれた身分の中で「らしさ」を追求すべし、ということだと思います。武士は武士らしく、農民は農民らしく…。主従関係は絶対のものであり、お上にたてつくなんてありえない…。なんだか、支配者にとってとても都合のいい学問ですよね。
 あと、人間関係の基本は家族にあり、子・孫は親を敬うべき、とか、性差による役割を固定化し、日本における「男尊女卑」の元になったのが朱子学と主張する人も見かけます。
 この、「らしさ」や「上への服従」は今も日本型組織のあちこちで見られる気がするのです。

学校組織に見る儒学の影響

 私が今回の投稿をしようと思ったきっかけとなった本があります。守屋淳「『論語』がわかれば日本がわかる」(ちくま新書、2020年)です。


 守屋氏は「論語濃度」という言葉で日本の学校や会社における以前からの慣習を指摘しています。
 例えば、「論語濃度」の高い学校においては、

・年次による先輩・後輩関係が当たり前
・学校が一方的に決めたルール(校則)を守らされる
・生徒の個性化は建前で、集団指導に頼る   など

守屋淳「『論語』がわかれば日本がわかる」

 思い当たる節がありますよね。「先輩」という権力者の無茶ぶりに従わざるを得ない後輩(球拾いは1年生がやる、とか、メロンパン買いに行け、とか…)。集団での活動が重視され、浮いてしまうとハブられる。集団からのはみだしを許さないための校則。どれも私が学校時代に経験したことだし、集団であるがゆえにみんな「空気を読む」のもうまくなる気がします。
 私が小学校か中学校の「道徳」の授業で読んだ中で、今でも忘れられないストーリーがあります。ある野球チームの話。

 ノーアウト3塁でサヨナラ勝ちのチャンスにバッターはA君。ベンチの監督はスクイズのサインを送っているけど、A君は見事タイムリーヒットを放ちました。しかし、次の試合でA君は補欠となりました。

 この文章、朱子学的発想のエッセンスが凝縮されているように思うのです。例えば、
 ・監督の指示は絶対。その絶対的な指示に背いたのがA君。
 ・A君の行動はチームの輪を乱す行為。
 ・結果よりもプロセスが大事。
 ・ゆえにA君は懲罰としてレギュラーを外された…。

 確かに、野球チームを考えると、チームとしての一体性が大事なのはよくわかるのですが、一方で、個人の実力を伸ばしていく、という育成方針にはなっていない(少なくとも教育指導上は求められていない)のだろうと感じます。


論語濃度と会社組織(特に官僚的組織)

 この論語濃度を会社組織に当てはめてみると、やはり、日本型組織の特徴が浮かび上がってきます。先にご紹介した守屋先生の本によると、

・年功序列(年齢が高いほど上に行く)
・残業/異動を断らない(精神論大好き)
・社員の働き方は会社が決める
・アルバイトや契約社員にまで厳しい義務(下の義務が声高に主張される)
・空気を読んだり、忖度人間出来る人が出世する(イエスマンばかり)

守屋淳「『論語』がわかれば日本がわかる」より抜粋

 会社の組織文化を考えたとき、古くからの大企業、または役所にはこんな風潮が大きいのではないでしょうか。私も官僚的な組織を複数経験しているので、思い当たる節がたくさんあります。本来、会社と個人はあくまで契約関係にあり、対等な立場であるべきなのですが、日本ではあたかも会社のトップが家父長制下での父親であり、それを立てるのが社員の役目、みたいな風潮が残っている気がします。
 前掲の本によると、孔子の話の中でも、日本においてことさら重きが置かれている一説があります。

君、君たらずと雖も臣は臣たらざるべからず
主君が主君としての徳を持っていなくても、臣下は臣下としての道を守って忠義をつくさなければならないということ。

「古文孝経」

  なんと、経営層や上司に甘い言葉なのでしょうか。いくら上司がぼんくらでも、部下は忠義を果たさなければならない…。しかも、この言葉が日本の「和をもって貴しとなる」と結びつけが、イエスマンが大量発生するのも自然の摂理ともいえるのかもしれません。
 そして、絶対権力をもつ会社の中枢である経営層や人事のいうことは絶対。それゆえに、どこにでも喜んで転勤し、12時を超えるまで残業し、休日も接待ゴルフに出ていき。。。その先に、上司の覚えがめでたくなることによる出世・昇進がある…。
 現在の私にとっては全然魅力的には見えないのですが、私がこれまでの勤務先で接してきた上司などをみると、「論語濃度」が高い人の多いことに驚かされます。

組織は裏切るよ。

 一方で、バブルが崩壊して以降、会社も賃金の高い20年選手を以前よりも厚遇しなくなってきています。様々な業界でのリストラの嵐、再就職のあっせんはあれども、給与水準は驚くほどの低下、などなど、以前は生涯守ってくれたはずの組織は、もうそこにはありません。
 また、「パーパス経営」や「人的資本経営」など、昨今は、組織が個人のやりがいを重視することでモチベーションを高め、それを組織の成長に結びつけるという観点からの人事組織論も多く聞くようになってきました。
 それはつまり、濃いめの「論語濃度」を持つ日本型組織においては、人は育たず、競争力も確保できなくなっているということなのではないでしょうか。(1980年代の日本企業が世界で影響力を誇っていたころは、欧米が日本型経営を進んで取り入れたという話もありますが、それも昔の話になってしまいました…)。
 そして、そのような組織の姿を見てきた人たちの中には、組織は自分のために利用するものであり、いいポジションがあればすぐに転職を決断する、または、自身の目的の追求のために起業する、といった人が出てきているのではないかと思います。
 私も、社会人になって20年弱、いろんな場面を見てきましたが、いえるのは「組織は従業員を守らない。組織はそれ自身のダメージをいかに少なくするかを優先する」ということだと思います。この場合、組織というのは経営層とその顔色をうかがう管理職、と言い換えてもよいかもしれません。自分の中での論語濃度を薄め、自分にとって価値のある組織を選び、常に複数の選択肢を持てる状態にしておく。それが私なりのベストな生き方だと思っています。

 本日もかなりのボリュームになってしまいました…。お読みいただき、ありがとうございました。

 


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