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【配信公演観劇しました!】池上show劇場【PREMIUM】Fプログラム

こんにちは、おちらしさんスタッフです。

今回はFプログラムを鑑賞しました。短いオリジナル作品を並べた【DELUXE】Aプログラム「山の手めそっど寄席」を除けば最大となる、5本もの作品が1時間半に凝縮されています。

『天衣無縫』
原作:織田作之助
出演:安部みはる

ある日見合いに行くことになった政子。風采の上がらない見合い相手・軽部は、驚くほどのお人好し、かつ大変のんきな性質の人だった。『夫婦善哉』でもよく知られた織田作之助の短編です。
 原作では、語り手・政子の頭の中の思考がそのまま直にこぼれでるのをひたすら浴びるような、スピード感とアップダウン満載のジェットコースターのごとき文体が特徴ですが、これが生で人に演じられる演劇になるとどうなるか。今回の上演では、この勢いを保つ立て板に水の早口に加え、表情筋の全てを酷使する覚悟かのごとくにくるくる変わる表情、それに伴うダイナミックな感情表現が強いインパクトを与えてきます。
 第一印象どころか、出会い・付き合いを重ねて第二、第三となっても印象のちっとも良くなりはしない軽部。止まることを知らない政子の語りから聞こえてくるのは、軽部への不平不満、恥ずかしさ、やりきれなさばかり。それでもそんな人となぜだか共に歩いてゆく政子。時折ぽろりと見える政子の自意識の中、政子の伝え聞いた学生時代の軽部さんの様子、落胆ばかりのデート、それらの端々に、答えのかけらは潜んでいるようでもあります。
 ともあれ政子から軽部への一筋縄でいかない思いは、触れる人によって感じ方の大いに分かれるところかもしれません。面白おかしく思う人、ほほえましく思う人も、また逆に政子が気の毒になる人も、腹の立つ人もあるかもしれません。余人には手を出せない、誰あろう政子自身がかたく心に定めた道であることだけは、どうやら確かであるように思われます。考えてみれば自分の周囲にも、思い当たる人間関係があるような。エキセントリックさもありつつ、細かなフレーズにこもった情緒にふと気がつかされるのが、舞台ならではの情報量の豊かさを示しているようでした。

『夢十夜』(第六夜)
原作:夏目漱石
出演:宮﨑圭祐

「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩ながら行って見ると、自分より先にもう大勢集まって、しきりに下馬評をやっていた。」夢ならではの論理展開に乗せて幻想的な空気が刻まれた、夏目漱石の連作短編の中の一作です。
 原作に短編を扱い、またそうでない場合もおおむね1本30分以内に区切られている「池上show劇場」のシリーズですが、こちらはその中でも原作・上演ともに更に短い10分未満の作品です。あえて作中の時代には合わせない衣装を着ることの多い各上演と比べても、とりわけ「今」の姿をした俳優。夢とは静かで淡々としたものばかりではない、と思い出させるエネルギッシュさでもって演じられる夢世界。衣装のみならず内容のところどころも現代的かつコミカルな脚色が行われ、突如現れた運慶とそれを見守る当世の「自分」や周囲の人間、その「過去」と「今」との距離感をよりはっきりと強調します。
 運慶は元から木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけなのだ。「自分」が触発されることとなるこの論理と、いざそれを現在に実現しようとしたときの思いがけない困難の模様には、芸術について、また取り返しようなく移りゆく時代についての漱石の思想がにじむように感じられます。原作で最終段落にあたる部分、高揚した調子で語られる「自分」の悟りは、果たして現実世界に持ち帰れるものでしょうか。疾走感とともに、夢独特のあの感覚をまざまざと呼び起こす一本です。

『暁の聖歌』原作:吉屋信子
『卍』原作:谷崎潤一郎
出演:太田成美

実の両親を知らないちえ子が数奇な巡り合わせの中、女学校の"お姉さま"柿沼さんをはじめ様々な人の愛情を受け人生を歩んでいく『暁の聖歌』。少女小説の元祖と言われ、作中に女性同士の強い結びつきの描写を多く込めた、大正〜昭和と長く活動した作家・吉屋信子の作品です。
 もう一作品の『卍』は、主人公・園子が人にあてた手記の形式をとり、彼女が技芸学校で知り合った光子と育む恋愛関係を皮切りに、それぞれの夫・恋人も交えての愛欲が入り乱れた4方向の壮絶な人間模様が綴られる、谷崎潤一郎の作品です。
 どちらも長編小説である2作品ですが、上演ではまず作品紹介から入り、次に作品の一場面を演じる構成がとられています。ここまでのひとり芝居と趣は大きく異なり、おすすめ作品の親しみやすいレクチャーのような体裁で、プログラム全体のアクセントとして機能するとともに、各上演の主な題材である近現代日本文学そのものへの関心を抱かせる効果も強い上演でした。
 『暁の聖歌』の抜粋では、ちえ子が心から慕う柿沼さんの卒業の日に起きた心の揺れが描かれます。生徒は卒業までに結婚が決まっているのも当たり前だった当時の女学校。そこを小さな全世界とする少女たちの期間限定のユートピア。社会環境を背景に、儚さ・悲しさを魅力のひとつとされることも多いだろう少女同士の繋がりですが、ここでは叶う限りとびきりの幸福の形が訪れます。同性愛者であることを公にしていた吉屋信子の手による「乙女の夢」が、それを大切に受けとる俳優の姿を得、強く暖かく体現されていました。
 『卍』からは、園子が光子をモデルにした絵画を描いたのをきっかけに、光子が園子の家を訪れ、二人きりの時間を過ごすシーンが演じられます。光子の裸体を美しく感じるあまり、激情をぶつける園子。ねじれつつ隠し立てのない愛の表現、互いに感じつつ確認し合わなかった恋がついにほとばしる二人の激しい姿が、わずかな舞台装置である一脚の椅子と白いシーツをかき抱く様子から強烈に浮かび上がってきます。『暁の聖歌』と『卍』、合わせて4人の女性たちによる多様な色合いの愛が、濃縮されて提示される時間を過ごしました。

『骨』
原作:林 芙美子
出演:越谷真美

夫は戦争で、空っぽの骨箱となって戻ってきた。ある日の経験を決定打に、道子は身を売って生活の糧とし、「どろんこの道」へと進む。家にはリュウマチで動けない父、働きづめの末に胸を患った弟、そして幼い娘。林芙美子による短編小説です。
 夫の死の証であるはずの「骨」のないまま、宙ぶらりんの心を抱え、押し寄せる日々をしのいでいかねばならない道子。薄い衣装をまとった身体が具象と抽象を行き来しながら繊細に動くごとに、またこの劇団の俳優の強い技能のひとつでもあるはずの「ものまね」的色合いを慎重に取り除かれた声が彼女と周囲の人々を表すごとに、道子の現実が生々しくむきだしとなって舞台に満ちていきます。前半の男性とのシーン、また後半での弟とのやりとりでは、首を真綿で締めつけられるような、身体から流れる血を手当てもできずそのままにするような感覚を抱かされました。
 林芙美子のすくいとった生活風景は、状況から縁の遠い人にとってはショッキングに映るであろう感情の動きも収められています。文章でなく人が物語を伝えるときの困難のひとつは、その実在性、ビジュアルとサウンドが上乗せされる強烈さゆえに、ひとつ表現を誤ればこれら”強烈”なシーンがただセンセーショナルな消費物として届きかねないことです。しかし、このひとり芝居では過不足なく、ありのままの形でこれらの場面を伝えることに成功していると感じられ、大変に印象的でした。表現の細部をとりこぼさない空間の小ささも幸いしているかもしれません。
 ひとたび開始されれば最後まで走り抜けることを前提とした劇場という場で、止めようもなく道子に流れる時間と向き合うことは、少なくない痛みを伴います(配信は停止ボタンがありますが、舞台をそのまま収めている以上、条件はいくらか近しいでしょう)。林芙美子の描いた時代を知る人々の記憶は遠ざかりつつある現代でありますが、道子の暮らしに近しい暮らしを送る人、道子の感情に近しい感情を抱く人は、今この瞬間もきっとある。それがこれから配信を視聴する・視聴した誰かやその知人友人であることも充分にありえる。そうした想像力を喚起させるに足る、重くも貴重な上演でした。

池上show劇場【PREMIUM】配信チケット

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